第7話
教室を駆け出し、ワタシは自転車のサドルを跨ぎ、真っ直ぐに美術館に向かった。今日は、開館五周年記念セレモニーで龍口研新が来館する、と街中の至る所にポスターが貼られまくっていた。あの変な夢の龍口研新じゃなくて、本物のクールでインテリジェンス溢れる龍口研新を、生で見れるなんてあと五年先までないだろうな。ワタシは一人ニヤニヤしながら、ペダルを漕ぐ足に力を込めた。腰を浮かせて、立ち漕ぎに移行した瞬間、道路脇に駐車していた軽トラックの下から黒い影が飛び出してきて、ワタシは息を呑み、ハンドルのブレーキを思いっきり握った。
「どこ見てんだよ、ニヤニヤしやがって。危ねえだろ」
また、クロスケか……ヤな感じ。クロスケはわざとらしく長い尻尾を左右に振りながら、ゆっくりと道路を横切り、隣り合う民家の狭い合間に姿を消した。
「ほんとに生意気な猫だわ」
ワタシはクロスケの消えた壁の合間を睨みながら呟いた。はっ、先を急がなければ。気を取り直しすために全力でチャットモンチーの「シャングリラ」を歌いながら、ペダルを漕いだ。
自転車置き場は一杯で、ワタシは自転車置き場の外に自転車を立てかけてトイレに直行した。汗でベタついたシャツの胸元を掴んではたきながら、風を通す。タオルで汗を拭って、鞄から8×4の柑橘系を取り出し、首元と脇の下に噴射する。超気持ちいいー! 鏡の前でおでこに引っ付いた前髪を両手で整える。NIVEAのハニーリップを唇に塗って上唇を下唇に被せながら、潤いを行き渡らせた。それから、トイレを出て会場に向かった。ガヤガヤ賑やかな音の方に向かうと沢山の大人がいて、全然前が見えない。ワタシはシャンパングラス片手に談笑する大人たちを掻き分けながら前に進んだ。今、スタンドマイクの前で話しているのは、本間図書館館長だ。その後ろにパイプ椅子が並んでいて、偉そうなおじさんやおばさんが座っている。龍口研新は……いた! 松永美術館館長の隣で何だか遠くを見ているような。ワタシは真っ直ぐに龍口研新の顔を見つめ続けた。キョロキョロしだした龍口研新は、一瞬ワタシの目線とぶつかり、眼を見開いて驚いた顔をしたように見えた。
「森さん、いらしてたんですか」
突然、背後から声をかけられ、ワタシは振り返った。
「田中さん」
「ここに居ても面白くないでしょう? こちらにいらっしゃい。お菓子がたくさんありますから」
田中さん、ワタシ、そんなにお子さまじゃないんですけど……
「シャンメリーもありますよ」
シャンメリー、大好き! ワタシは田中さんの後に続いた。田中さんはひしめく人の間を縫うようにスイスイと進んだ。ワタシは必死で田中さんの背中を見失わないように続いた。会場の脇に寄せられている長テーブルの上には白い布が被せられ、楕円形の大皿がいくつも載せられていて、その上にはポップな色のマカロンや、見るからに濃厚そうなガトーショコラ、触れると弾けそうな大きいシュークリームなどが所狭しと盛り付けられていた。何、天国じゃない? ワタシがテーブルの上のお菓子に釘付けになっていると「はい、どうぞ」と、シャンメリーが注がれたシャンパングラスを横から田中さんが差し出してくれた。「ありがとうございます」とワタシはグラスを受け取り、グラスの淵に口をつけて傾ける。弾ける泡が喉の奥を刺激してほのかな甘みが口の中に広がる。ワタシはレモンイエローが鮮やかに映えるマカロンを手に取り、口に運んだ。サクッと一瞬の歯応えを残し、マカロンはシトロンの香りを広げ、溶ろけた。おいしー! ノワール、ショコラ、フランボワーズ……ワタシは止まらなくなって、全種類のマカロンにパクついた。幸せ過ぎる!
「お気に召しましたか? 慌てなくても、いくらでもありますからね」
田中さんが、にこやかにマカロンを貪るワタシに向かって話しかける。ワタシはキャラメル・サレのマカロンに伸ばした手を引っ込め、照れ笑いで返した。そして、シャンメリーを飲み干した。
「あ、この前はご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。ワタシ、全然覚えてなくて……」
「ああ。すっかり元気そうで何よりです。タケオ君に慌てて知らせて……びっくりしましたよ」
「何だか、不思議な夢を見たんです。龍口研新が……あ、龍口さんが、いや、気付いたら、龍口さんの家にいて……」
「それは凄い夢ですね。ファンなんですか? 先程、ご挨拶しましたよ。スピーチは今しがた終わってしまいましたが……」
「えー! それを見に来たんです」
「それは残念でしたね……良ければ、龍口さんをご紹介致しましょう」
「本当ですか?」
「ええ」
田中さんは、もう一杯シャンメリーのグラスを差し出しながら微笑んだ。
「そう言えば、『イビサ』はお読みになりましたか?」
「あ、すいません。まだ……何かバタバタしちゃってて」
「いえいえ、読書はゆっくりと時間があるときにするのが一番ですから。貸出の延長もできますので、その時はお申しつけ下さい」
「はい。ありがとうございます」
田中さんは、ワタシがシャンメリーを飲み終わるのを見届けると「行きましょうか」と声をかけ、再びステージの方に向かった。田中さんが人混みをかき分けるというよりも、まるで人々が田中さんに道を開けるように彼はとてもスムーズに進んだ。ワタシはピッタリと彼にひっついて離れないように、ぶつからないように神経を彼の背中に集中させた。ステージの裏側に回り、パーテーションの間から、田中さんがパイプ椅子に座っている龍口研新に話しかけるのをワタシは少し離れて見ていた。龍口研新は、田中さんの話を聞きながら、ワタシの方に目をやり、隣に座っていた松永美術館館長に一言、声をかけてから立ち上がりこちらに向かって来た。
「こんにちは。何処かでお会いしたかな? 森さん……だっけ?」
「いえ、夢の中……あ、夢で見るくらいファンなんです!」
「……そう。ありがとう。田中さん、少し二人で話してもいいかな?」
隣でにこやかに、少女が憧れの人に熱を上げている様子を見守っていた田中さんは「もちろん。喜んで」と言い残し、人混みに消えた。
田中さんの姿が見えなくなったのを確認すると、龍口研新はネクタイを右手の親指と人差し指、中指を使って緩めた。龍口研新は、まるで人が変わったような表情を見せた。まるで『西遊記』の緊箍児で三蔵法師にコントロールされている孫悟空のように、ネクタイで人格が矯正されているみたいだ。
「森……実可だったよな? 説明してくれ。どうなっているんだ、一体?」
何でワタシの名前知ってるの? え……? 夢じゃなかったの? あれ。ワタシが見た夢が夢じゃなかった? いやいや、そんなことあるはずないわ。これも夢なわけ?
「龍口さん、ワタシとお会いしたことないですよね?」
「何言ってるんだ? いや、これも夢なのか? 何がどうなっているんだ……僕の部屋で目覚めた記憶はないのか?」
ああ、最悪……夢じゃないわ。
「ちょっと待って。あなた、図書館なんて設計したことないって言ってたじゃん」
「やっぱり! お前、大人にカマかけるなんてクソ生意気だな」
「嫁入り前の女の子を〝お前〟呼ばわりしないでよ!」
ステージ上の来賓が、こちらの声に振り返るのを目の端で捉えた龍口研新は、「ちょっと……」とワタシの肩に手を掛け、会場の外に連れ出した。
「離してよ!」
ワタシが龍口研新を睨むと、龍口研新は両手を挙げて一歩下がった。
「……なあ、こんなことは信じたくないが、架空であるはずの街に、今僕はいて、設計した記憶のない建物の記念セレモニーに出席している。並行世界なんて安っぽいSFか、ゲームの話でしかないと思ってたけど、こうなったら、もうこの設定に付き合わざるを得ない。思い出してくれ、どうやってウチのベッドで目を覚ますことになったのか? ……図書館でどうこうしたって、言ってなかったか?」
「ワタシだって、あんたなんか……全部夢だって思いたいわよ。あの時は……図書館の二階で急に眩暈がして、気付いたらあんたがワタシを縛り上げてた」
「二階だな。行くぞ」
龍口研新は、乱暴にワタシの左手首を掴み、図書館に向かった。
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