第9話

 あ、またあの時と同じ感覚……


ワタシは何か話し続けている龍口研新に知らせようと、顔を上げた。すると、その背後に誰か立っているのが見えた。錯覚? 声を上げようとした瞬間、目の前が揺らめきワタシは立っていられなくなってしまった。


 歪んで、まどろんで伸びて縮んで膨らんで萎んで弾けて飛んで……体中の細胞がそんな変幻自在の物体に変化してしまったような感覚の中、ファレル・ウィリアムスの「HAPPY」が脳内再生される。ワタシは恍惚とした気持ちで目が覚めた。


 バッシャアーン!


 ワタシの顔に思いっきり水しぶきがひっかかった……な、何なの? 太陽の光を受けて白く輝く水しぶき、その手前で誰かの体重の反動で揺れ続ける踏み込み板、収まる水しぶきの向こうに広がる青い空とヤシの木……『A Bigger Splash』をそのまま切り取ったような光景が目の前に広がっていた。

 「また夢……なの?」

ワタシはおでこに引っ付いた前髪を左手で掻き分け、手のひらで顔にかかった水を払いのけた。改めて周りを見回す。オレンジがかったライトブラウンのウレタン樹脂系の床の上に、真っ白なプラスチックのプールサイドチェアが所々に並んでいる。その上には筋肉ムキムキの白人男性や、〝ボン・キュッ・ボン〟のラテン系女性が水着姿にサングラスをかけて寝そべっている。サイドテーブルには、トロピカルで色鮮やかなカクテルらしきものが置かれている。目の前に広がるプールから先程飛び込んだと思われる、華奢なマッチ棒のような体つきの白人男性が、反対側の白いプール槽の淵に立った瞬間、同じような体つきの白人男性たちに突き飛ばされて再びプールの中に水しぶきを立てた。はしゃぐ彼らの背後には、白いマンションのような建物がそびえている。龍口研新の姿はどこにも見当たらない。ワタシは自分がレモンイエローのオフショルの水着姿であることに気づいた。

 「何これ? 超カワイイじゃん」

とは言ったものの、周りのグラマラスな女子たちの身体を見ているうちに全く成熟していないワタシの身体がとても恥ずかしく思えて居心地が悪くなった。

 〝Hey! Mika,what's up?〟

サラサラのブラウンの長髪をなびかせ、シャネルの白いサングラスをかけた女子がワタシの肩を両手で掴んで、何やら英語で話しかけている。え? 何? つーか、誰? 返事に窮していると、彼女は「ドシタ?」と日本語を話した。

 「日本語話せるの?」

 「チョットダケ……you know that lol」

彼女はシャネルのサングラスを額の上にあげ、そのプールに張られた水のように透き通る青い瞳でワタシに笑いかけた。……カ、カワイイ。天使!

 「Are you getting high? ミカ、ラリッテンジャナイカ、アハハ」

彼女はその天使のようなピュアな瞳とは対照的に、妖艶な分厚いアンジェリーナ・ジョリーのような唇から真っ白な歯を覗かせた。ヤヴァい、胸の奥がむず痒い、変な気持ちがする。

 「ノボセテルンダナ? Shall we back to our room?」

シャネルグラサンの天使は、ワタシの手を引いてプールサイドをつかつかと歩き始めた。その凛と、ハッキリとした足取りにワタシは為す術もなく、されるがままに彼女の後に付いて歩いた。すれ違うあらゆる男性も女性もワタシたち(というか、シャネルグラサンの天使)を振り返り見つめていた。プールに飛び込んでいた男たちが口笛を吹き、何やら英語で声を掛けても、彼女は振り返りもせず突き進んだ。まるで誰かのミュージックビデオや何かのCMみたいに。ワタシはとても恥ずかしいと思うと同時に、こんなに注目を浴びることを少し誇らしく感じた。

 

 ホテルだろうか、白い建物の中は赤レンガのような色合いのタイル調の床で、所々に白いプラスティックの鉢に植えられた観葉植物が置かれていた。ロビーらしき場所には籐の椅子に腰かけているサンタクロースのような立派な髭を蓄えた老人や、チェックインかチェックアウトしているのだろう、ピンクのトランクに腰かけたふくよかな女性がいて、その女性の後ろには、女性と同じような体系の白いキャップ帽を被った口髭を蓄えた男性がロビーのホテルマンらしき男性と話し込んでいる。シャネルグラサンの天使はロビーでも速度を落とさず、真っ直ぐ突き進んでエレベーターのボタンを押した。すぐにエレベーターのドアが開き、乗り込んで八階のボタンを押した。ドアが閉まってエレベーターが動き出すと、シャネルグラサンの天使は私の手を放し、振り返った。

 「ダイジョブカ? Are you alright?」

 「うん」

ワタシは頷いた。彼女はワタシの頭に右手を乗せ、ポンポンと軽く叩いた。八階に着き、エレベーターのドアが開くと彼女は再び私の手を取り、八〇八号室の前までワタシを導いた。彼女はドアノブに手をかけ扉を押し開けた。鍵かかってないの? ワタシは多少驚いたが、彼女に続いて部屋に入った。

 〝Hey,man! We're back.Give me some weet,roll it〟

彼女が突然誰かに話しかけたので、ワタシはびっくりした。そこにはベッドに寝転がる男がいた。

 〝Don't order me.I'm fucking sleeping! Roll it yourself〟

 〝Ah,ha.Fuck yourself〟

男は振り向きもせずに、寝たままの姿勢で右手の中指を立てこちら側に向けていた。ワタシは英語のやり取りに全くついていけず、立ち尽くしていたが、彼女が振り返り「スワッテ。Take your seat」と声を掛けてくれたので、ベッドの手前にある木製のテーブルセットの椅子に腰かけた。

 改めて部屋を見回す。二台のシングルベッドと、ワタシが腰かけているテーブルセット、その対極にバスルームらしき部屋の扉がある。さらに、テーブルセットの後ろには白い窓枠の大きな窓があり、ベランダもついている。そこには白いプラスチック製の丸テーブルと二脚の椅子が並んでいた。シャネルグラサンの天使がテーブルの上に直径五センチくらいの透明のプラスチック製の丸い容器と、小さなジッパー付きの袋に入った緑色の蕾のような植物、銀色の細長い厚紙のようなもの(その端は長方形に千切られている)、さらに黄色い百円ライター、そしてモスグリーン色の袋に入った煙草の葉っぱをテーブルの上に置いて、ワタシの前の椅子に座った。ワタシは何だろうと不思議に思い、彼女の顔を見ると彼女は〝シシシ〟とイタズラっぽく笑った。小悪魔! 天使で時に小悪魔だわ! この世界で一番モテるタイプの……男子受けこの上ない、女子力戦闘値五〇万超えのラスボス並みの最強女子だわ! ワタシはぎこちない笑みを返してドキドキする気持ちを抑えようと努力した。彼女は銀色の細長い厚紙を開き、中から透けた薄い紙をスッと取り出した。それをテーブルの上に広げ、その上にモスグリーン色の袋から摘まんで取り出した煙草の葉っぱのようなものを均等に乗せていく。ジッパーの袋から植物を千切って取り出し、丸い容器の蓋を開けて中に入れた。容器の中には大根おろしのようなギザギザの凹凸が付いている。蓋を閉めて、手のひらを揉むようにして蓋を左右に動かし、中の植物をすり潰すように細かく砕いている。

 「What's wrong? ナンカカオニツイテルカ?」

天使で時に小悪魔は手のひらを絶えず動かしながらワタシに尋ねた。

 「……いや何も。そう言えば、名前。ワ、ワットイズユアネイム?」

 「What?! Are you kidding me? Angelina.アンジー。カラカッテルノカ?」

少し怒気を含んだ返しがタマラナイ。ああ、ワタシやっぱりMなのね……アンジェリーナ・ジョリーと言われても驚かないわ。少し幼いとは言え、そのくらいの美貌を彼女は備えていた。

 「あ、そうだった。ゴメンなさい。アンジー」

 「イイッテコトヨ」

彼女は再び天使の微笑みを浮かべながら、細かく砕いた植物を煙草の葉っぱの上に均等にまぶしていった。そして銀色の厚紙を少し千切り、くるくると丸めて小さな筒を作った。それを薄紙の端に乗せて器用に丸めて長い丸棒にして半分以上余った薄紙を、長く綺麗なピンク色の舌を這わせて丁寧に舐めた。ワタシはその余りにも猥褻な想像を掻き立てる仕草に驚き、興奮して自分でも顔が紅潮するのが分かった。アンジーは動揺するワタシをよそにもう一度同じように逆側から丁寧に舐めて、その棒状のものの余った薄紙に黄色いライターで火を付けた。パッと小さな炎が上がりチリチリと薄紙は燃えて細長い煙草のようなものが彼女の左手に残った。彼女はその先端を捩じり、食べ終わった後のボンボンアイスのようなその先端に再び火を付けた。どうやら煙草みたいだ。アンジーは銀の厚紙で作った筒の方を咥え、大きく息を吸った。先端の火が暗闇で目を光らせる悪魔のようにチカチカと光り、その妖艶な魅力を振りまく。彼女は悪魔に魅入られたように恍惚な表情を浮かべ、深く吸った煙をまだ完全に熟しないながらも見るものを引き付けて離さない、もぎたての果実のようにみずみずしく美しい曲線で形どられたその胸の中にため込み、再びゆっくりとあまい吐息として吐き出す。ワタシが知っている煙草の匂いとは全然違うその香りに、ワタシは思わず生唾を飲んだ。彼女はもう一服すると、その煙草のようなものをワタシに差し出した。ワタシは恐る恐る手を伸ばし、それを受け取った。見様見真似で彼女が口づけたその箇所をゆっくりと上唇から包み込むように咥えて、深く息を吸った。でも、苦しくなってすぐに煙を吐き出してしまった。

 「アハハ。Noway.Breathe in more deeply.フカクスッテ」

ワタシはもう一度それを咥え、目を閉じて深く息を吸った。頭の中にもやがかかったようにぼんやりとしてくる。ワタシはアンジーとは対照的に小ぶりで訳あり品として叩き売られてしまう小さな果実のような、胸の奥の肺にたっぷりとその煙を吸い込み、一度息を止めて、ゆっくりと吐き出した。ワタシの胸じゃ不満とでも言いたげな、歪な形をした灰色の煙が、アンジーの完璧な形をした胸に向かって漂ってその胸の中に飛び込むように消えていった。

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