第10話

 目が覚めると、見覚えのある白い天井が見えた。僕はグレイの掛布団と黒いシーツに覆われた敷布団の間に横たわっていた。僕の家のベッドルームだろう……少なくとも図書館なんかではない。上半身を起こして、辺りを見回す。森実可はいない。やっぱり夢だったんだ。何だか少し寂しいと思っている自分が嫌になる。とにかく、やっと変な夢から解放されたんだ。喜ばしいことじゃないか。僕は両手を重ね、大きく伸びをしてベッドから起き上がった。僕はスーツではなく、普段から寝間着として使っているスウェット地の上下を着ていた。隣の部屋に移り、レコード収納棚の「クラシック・ロック」が収められている場所からThe Doorsの『Strange Days』のLPを取り出し、プレーヤーの上に置いて針を落とす。何故か邦題では『まぼろしの世界』が冠されている。「まぼろしの世界」は、このアルバムの七曲目に収められている「People are Strange」の邦題だ。まあ、彼らのデビュー作であるセルフタイトル『The Doors』も邦題では収録曲の「Light My Fire」、『ハートに火をつけて』になっているし、当時はそういうレコード会社の意向があったのかもしれない。何と言ってもこのアルバムのジャケットが「People are Strange」というタイトルを表すような曲芸師の一団が街中を練り歩く写真なので、そういうタイトルにしたのかもしれない。エッグチェアーに腰掛けながら、暫くそのジャケットを眺める。スキンヘッドの口髭を生やしたレスラーのような男が両手を掲げ、その前ではグレイのセットアップにハットを被った小人のような子供が笑顔で踊っている。その後ろではカオナシのような、『スクリーム』の映画に出てくるような面を被った全身黒ずくめの男が赤いボールでジャグリングをしている。さらに、その後ろには男がもう一人の男を両手で掲げていて、掲げられた男は両手を広げて空を飛んでいるような仕草を見せ、その後方でスーツ姿で帽子を被った男がトランペットを吹いている。何だか、とても異様だ。「異様」という言葉を具体的に表現したような写真だ。こういうものを恐らくアートと呼ぶのだろう。この集団は実在せず、ジャグリングしているのはカメラマンのアシスタントで、トランペットの男はタクシーの運転手を5ドルで雇ったそうだ。その実情からは、想像できないこの異様さは奇跡と言っていい。全てが異様だ。レイ・マンザレクの奏でる怪しげなオルガンの音色と、ジム・モリスンの脳内に直接響いてくるような、高音とか低音とかで形容できない〝ジム・モリソンたる歌声〟が僕にそんなことを止めどなく考えさせる。

 「ドアーズですか。懐かしいですね」

まどろみかけていた僕は、エッグチェアーから跳ね上がった。だ、誰だ? 振り返ると、湯気が立っているコーヒーカップを両手に持った田中さんがドア越しに立っていた。

 「た、田中……さん?」

何ということだ。「ストレンジ・デイズ」を聴いているうちにまどろんで、幻でも見ているのだろうか。まだ夢が続いているというのか。驚きを隠せない僕をよそに田中さんらしき男は、持っていたコーヒーカップの一つをエッグチェアーの前にあるコーヒーテーブルの上にそっと置いた。

 「すみません。あなたの家とは知らず、勝手にキッチンを使わせて頂きました。いい豆をお持ちで」

 「えっと……あの、その……」

 「あ、私もどう言っていいのか……図書館で森さんとあなたが話しているところを見かけて、突然お二人が倒れるように眠り込んで、急いで私がお二人を起こそうと試みていたら、私まで眠気に襲われまして……気づいたらこちらのキッチンで目覚めた次第です」

 「そうでしたか……僕も上手く状況を呑み込めないのですが、どうやら……」

 「実は、お二人がお話していたことも少し聞いてしまいまして。夢の世界とか、ワープとか」

 「ああ……そうだ。田中さん、僕がお渡しした名刺、持っていますか?」

 「え? ああ、はい。確か……ここに」

田中さんはスーツの内ポケットに右手を入れ、名刺を取り出した。

 「おや?」

 「どうしました?」

 「いえ……何か肩書の方が変わっているような……」


 龍口研新 Kenshin Tatsukutchi


 KTA主宰


 一級建築士


 多摩美術大学美術学部環境デザイン学科准教授


 田中さんから差し出された名刺はこの現実世界? で僕が使っている名刺だった。僕は部屋にあるクローゼットから夏物の黒いスーツを取り出し、ポケットを探ってみた。右ポケットに中に一枚の名刺のような手触りを感じ、僕はその名刺のようなものを取り出した。


 湯芽町図書館 司書

  田中 辰雄


夢ではない。いやこの世界がまだ夢と繋がっているのか? 全てがリアルな夢なのか? ということは、森実可はここではない何処かに飛ばされたというのか……

 

You're lost,little girl

You'lost


ドアーズのレコードは2曲目の「迷子の少女」を奏でていた。


 「ドアーズというバンド名が、まずいいですよね。確か彼らはウィリアム・ブレイクの『天国と地獄の結婚』という詩の一節から取ったんですよね」


If the doors of perception were cleansed,

everything would appear to man as it truly is,

infinite.


もし知覚の扉が浄化されるならば、

万物は人間にとってありのままに現れ、

無限となる。


田中さんはそらで詩の一節を読み上げた。

 「へぇ。やはり司書さんは何でもお詳しいのですね」

 「いえいえ、ただ古い音楽が好きなだけです。大抵は何の役にも立たない事柄ばかりですよ……あ、コーヒーが冷めてしまうのでどうぞ。と言っても、あなたの家のものですが(笑)」

 「あ、いただきます」

僕はコーヒーテーブルからカップを持ち上げ、コーヒーを啜った。……美味い。同じ豆のはずなのに何だ、このコクは。

 「美味しいです。どうやって淹れたんですか? 何だか味が全然違う気がする。あ、どうぞ座って下さい」

僕はコーヒーテーブルの奥にある、カリモクの革製ソファーを田中さんに勧めた。

 「すみません。ありがとうございます。喫茶店のオーナーからコーヒーの淹れ方を教わったんですよ。お気に召されたなら光栄です」

 「そうでしたか……道理で。しかし、森実可はこの家にはいないみたいですね?」

 「そうだ。色々なことが急に起こり過ぎて、すっかり忘れていました。何だか、龍口先生と森さんは以前からお知り合いだったように見受けられたのですが……それはこの事と関係しているのでしょうか?」

 「そうですね……あの場に居たのならば、全て今まで起きたことをお話ししなければなりませんね」


僕は、これまで僕と森実可に起こった出来事を推察を交えながら語った。


 「……なるほど。と言っても、俄かには信じられないことですね。ということは、湯芽町は夢か仮想世界の場所だということですか? 私や森さん、あの町の人間は誰も存在しないアバターのようなものであると?」

 「はい。しかし、あなた方の知る僕がいるように、あなたたちの現実世界の人間がこちらの世界に存在している、と考えた方が自然です」

 「アバターたちのバーチャルリアリティーみたいなものが、独立した意識のようなものを持っている……という感じでしょうか?」

 「ただ、厄介なことは現実世界の意識がその仮想現実のような、夢のような世界にも入り込んでいるということです。僕は湯芽町図書館も美術館も設計した覚えはない。でも、スピーチの文言は紙に書き出していたし、森実可に会ったときに彼女の存在ははっきりと覚えていたし、彼女も僕とこの世界で会ったことを認識していた。そしてあなたと名刺交換もしている」

僕は田中さんの名刺をコーヒーテーブルの上に差し出した。田中さんはその名刺を手に取り、繁々と見つめた。

 「大体のことは分かりました。しかし、そうなると森さんの行方が気になりますね」

 「図書館で僕たちは、ワープするきっかけを検証した結果、ここに僕と田中さんが辿り着いたんです。もしかしたら、キッチンで僕が再びワープした直前の仕草を繰り返せば、あるいは……」

 「それは、どういう?」

 「ちょうど良かった。田中さん、美味しいコーヒーの淹れ方教えてください。あと煙草はお吸いになりますか?」

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