ネイキッド・シンギュラリティー
松尾模糊
第1話
それは、静まり返った図書館の中で念入りに翼を拡げている。列柱をなす書物、整然と並ぶ表題、数々の書棚は図書館をくまなく塞いでいながら、他方、不可能の世界へぽっかり口を開けている。〈省略〉夢見るためには、目を瞑るのではなく、読まなければならない。真のイマージュは、知識なのである――ミシェル・フーコー(『幻想の図書館』工藤 庸子訳)
一
黒いニット帽を目深に被り、紺色のピーコートを羽織って、ストーンウォッシュのジーンズを履いた男……最近、よくうちに来るようになった。でも、未だにこの男の声を聞いたことがない。吃音なのだろうか? まあ、別に特段、声を聞きたいというわけでもないんだけど。
「いらっしゃいませ、御注文がお決まりになりましたらお知らせ下さい」
ワタシはそんな疑問をつゆとも感じさせない、営業スマイルで男のいつも座る、窓際のテーブルに透明なコップに入った氷水を差し出した。男は頷いたのか、俯いたのか、よく分からない仕草を見せ、開かれたランチメニューを見つめた。男が頼むメニューは、いつも決まっている。皮を被った東欧のソーセージの様な血色の悪い、男の人差し指で指された、ナポリタンだ。ちなみにうちのナポリタンに入っているのは、袈裟切りしたウインナーだ。
「かしこまりました。ナポリタンですね、御注文は以上でよろしかったでしょうか?」
いつも通り、返ってこない返事を待つ一瞬の間を空け、ワタシはランチメニューを閉じ、一礼してキッチンに向かった。マスター兼シェフの土方さんは、すでにスパゲッティを茹でていた。
「ナポリタン、一つ入ります」
「あいよ」
土方さんはパスタ鍋で踊るスパゲッティから、ワタシの方に顔を向けニッコリと笑顔を見せた。
「ミカちゃん、ランチの看板下げて来てくれる? そしたらあがっていいよ。これはボクが持って行くから」
「いいんですか? まだ三〇分早いですけど……」
「いいよ。勿論、その分の給料も出すし。それに、たまに十分くらい長引く日もあるでしょ。今日は祝日だし、もう誰も来ないと思うから」
「本当ですか? ありがとうございます! じゃあ、お言葉に甘えてお先に失礼します」
土方さんは、世界的アニメ監督に〝クリソツ〟だ。その笑顔から溢れ出るマイナスイオンを求め、訪れる常連さんも多い。否応なしにこの喫茶店にもファンタジーな世界観を感じてしまう。真っ黒な、得体の知れない生物のような妖精が、屋根裏からひょっこり現れる、なんて都市伝説もまことしやかに囁かれている。信じるか、信じないかは個人次第だけど。木製のフレームに収められた黒板の看板を抱えながら、ワタシはメルヘン症候群に陥る。裏口で微睡む真っ黒な猫が、あくび混じりに話しかける。
「もう閉めるのか? 暇な飲食店ほど楽な仕事はねぇな。オレがお前の仕事の邪魔してるんじゃねぇぞ、お前がオレ様の昼寝の邪魔してんだ」
猫とは、なぜこうも高慢な性格で描かれるのだろうか? 先人たちのイメージのせいだろうか? いや、バロンはとても紳士的でインテリだったわ、人形……否、猫形だけど。
「うるさいわね、どけなさいよ。あなたの家じゃないでしょ、シッ!」
ニャッ! とクロスケは跳びのき、こちらを恨めしそうに睨みながら、スタスタと長い尻尾を振りつつ、店の裏路を歩き去った。ワタシは〝あっかんべー〟でクロスケを見送った。
着替えを済まして、店を出る。店脇に停めていてもオブジェと間違えられそうな、シックでオシャレな黄色いフランス製の自転車にまたがり、丘の上にある店から一気に眼下に広がる港街へと降った。目の前に広がる雲ひとつない抜けるような空と、燦々と輝く太陽に照らされ煌めく海の青さが混じり合い、まるで空を飛んでるような気分になった。
「ヤッホー!」
気分が高揚し、思わず叫んだ。さっきのクロスケが道脇から飛び出し、ワタシは右に急ハンドルを切りよろめいた。背後からクラクションが響き、軽トラックが反対車線に飛び出しながらワタシを躱した。クロスケは何食わぬ顔で道脇で座り込み、何食わぬ表情で毛繕いをしながら、こちらを見ていた。
ワタシは振り返りながら、右手の中指を立ててクロスケを睨んだ。
「厄病神だな、あいつ……」
一人腹を立て、さっきまでの爽快な気分を取り戻すためにフリッパーズ・ギターの「Haircut 100 バスルームで髪を切る100の方法」を大声で歌った。
街に辿り着くと、石畳のまだ残る道の上を自転車を押しながら歩いた。海から吹きつける風は、生暖かく湿っている。中世のオリエンタルとオクシデントが混ざり合った様なこの街には、高い建物と言えば、岬の先にある白い灯台くらい。夏の昼間には容赦なく太陽の光が照りつけて、立ってるだけで溶けてなくなってしまいそうなくらい、じっとりと汗をかく。無論、そんな状況で街を歩いている人なんて一人もいない。でも、ワタシはこの、時が止められたようなしーんとした街並みを眺めながら、歩くのが好き。思わず顔がニヤついてしまう。
「なに一人で笑ってんだよ? 気持ち悪いぜ」
至福の瞬間をぶち壊すこの声の主は、幼馴染みのタケオだ。
「うるさい! ニヤついてなんかないわ、あんた暑苦しいんだから、昼間は外に出ないでよ!」
「は? そういうの、人権侵害って言うんだぜ。〝パリコレ厨〟にタコ殴りにされちまうぜ」
「それ言うなら、ポリコレでしょ。ポリティカリー・コレクト。あんたと喋ってると疲れるわ、あっち行きなさい、シッ!」
ワタシは、行く手を塞ぐタケオを左手で払いながら、再び歩き始めた。
「そんな、人を猫みたいに扱うあたり、やっぱり人権侵害だな。〝パリコレ違反〟」
後ろからタケオが付いて来る。バカに限ってしつこい。しつこい奴は皆バカなのか?
「ポリコレだって、言ってんでしょ!」
ワタシは自転車に跨り、タケオを振り切ろうとした。タケオはバカでかい巨体のくせに、やけに足が速い。まんまとワタシの愛車の後輪の上に飛び乗る。ワタシの倍以上の巨体のタケオが後ろに乗ったことで、自転車がバランスを崩し、ワタシはハンドルを取られ、ぐらついた。
「ちょ……降りなさいよ! バカ!」
「ちゃんと前見て運転しろよ、倒れちゃうだろ!」
ワタシは急激に重くなったペダルを、歯を食いしばりながら漕いだ。でも、一〇メートルも進まないうちに諦めて、自転車から降りた。
「わかったわよ、あんたが漕ぎなさいよ!」
「何だよ? もう諦めたのか、根性ねぇなあ」
バカの特性は、何でもすぐに精神論で片付けようとするところだ。ワタシはタケオに運転席を譲り、後輪の出っ張っているボルトに両足を乗せた。
「で、どこに行くんだよ?」
「図書館」
「えー? 海行こうぜ。こんなに天気いいんだから」
「うるせー! あんた一人で行きなさいよ。これはワタシの自転車なんだからね」
街にある唯一の図書館は、これまた唯一の美術館と併設していて、街の北西にある。こんな溶けそうに暑い季節には、ここで陽が傾くまで静かに本の世界に浸るのが一番。図書館と美術館は、この街出身で、今や世界的に名を馳せる、新進気鋭の現代建築家・龍口研新がデザイン、設計している。比較的新しい建物で、この中世時代を切り取ったような街並みの中では少し浮いてる感じがインテリっぽくて、ワタシのお気に入りスポット。図書館の入り口にある掲示板では今、美術館でワタシの大好きな、イギリスのポップアーティスト、デイヴィッド・ホックニーの企画展が開催されていることを知らせていた。プール脇から見える水しぶきとポップなカラーで彩られた景色が印象的な、あの代表作『A Bigger Splash』もイギリスから、海を渡ってやって来ている。
「おーい! オレ、漏れそうだからトイレ行ってくる」
と図書館のロビーで叫ぶタケシを尻目に、今度、このバカがいない時にゆっくり観に来よう、とワタシは心の中で呟いた。
図書館は西洋史上、最も古いと言われるイギリスのオックスフォード図書館をモデルにしたと、去年、読んだアート・デザイン・現代建築系の月刊誌のインタビューで、龍口研新が語っていたのを覚えている。入り口から奥まで、シンメトリーに美しく並ぶ木製の本棚の前、一つひとつに本を読む為のテーブルと椅子が設置されている。どれも色濃い木目の物で統一され、落ち着いた雰囲気を醸し出している。一番奥に位置する本棚は二倍の高さがあり、木製の梯子が立て掛けられている。図書館は吹き抜けの構造で、司書が待機するカウンターが施設のど真ん中に位置し、その円柱をくり抜いたようなカウンターに絡みつく大蛇の様な螺旋階段が二階に続いている。一階には漫画、雑誌、児童書、人文学、歴史、地学、などの書物、二階にはアート、写真集、科学、参考書などの本や、CD・DVDが収められている。ワタシはタケオと少しでも離れるために二階のアート誌の棚に向かった。
ホックニーの画集を手に取る。イギリス人のホックニーは、ニューヨークで、アンディ・ウォーホルと出会い、その後ロサンゼルスに移住。ここで、アクリル素材でプールを描いた作品群を制作。『A Bigger Splash』もこの時、制作された……と、ここには書いてある……なるほど。ホックニーの画集を戻し、同じ棚で目に付いた画集を引き抜く。金色の背景の中で、黒い幾何学模様の黄金のマント纏った男と、暖色の円形模様が散りばめられた黄金の服を着た女性が口づけを交わす瞬間を描いた油絵に、ワタシは眼を奪われた。
『接吻』/Gustav Klimt(グスタフ・クリムト)と画集には書いてある。なになに……帝政オーストリア時代の画家、劇場装飾家として名声を得たが、ウィーン大学講堂の天井画の依頼で依頼者の意図に反し、理性の優越性を否定した寓意画を制作。当時の文部大臣まで巻き込む大論争を引き起こした。保守的なクンストラーハウスから離れ、ウィーン分離派を設立し、初代会長に就任。モダンデザインの設立に貢献した。その後、上流階級婦人の肖像画を多く手掛けた。多い時には十五人もの女性がクリムトの家に寝泊まりし、妊娠した女性も。生涯結婚はしなかったが、非嫡出子が多数いた。『接吻』のモデルは、最愛の愛人と言われるエミーリエ……何よ、最低のゲス男じゃない! だけど、こんなのに限って才能あるのよね、世界は残酷だわ。
「気持ち悪い画だなぁー」
いつの間にか背後に立っていたタケオが画集をのぞき込みながら呟く。これだからコイツとは、美術館には行きたくない。ワタシはパラパラとその画集を眺めて、本棚に戻した。
「静かにしなさいよ」
ワタシはタケオに一瞥をくれ、一階に降りた。
「こんにちは、あの……」
カウンターに腰掛けている、司書の田中さんにこの不快な気分を振り払おうと話しかけた。
「おや、森さん。お久しぶりですね。お元気ですか?」
「あ、はい、何とか。田中さんもお元気そうで」
ワタシはよくここに通っているし、田中さんは、ここの常勤でワタシたちは顔見知りになっていた。
「今日はどんな本をお探しで?」
「えっと……旅に出たくなる本、なんてありますか?」
「本を読むということは、それ自体が旅のようなものです。ただ、遠く海や山を越えて、知らない土地の人々や町並みを瑞々しく書き記した本を読むと、その場所に想いを馳せてしまいすね。そうですね、村上龍の『イビサ』なんて如何でしょうか?」
「村上龍? ……春樹なら知ってます。すみません、無知で」
「いえ、村上春樹はノーベル文学賞に最も近い日本人作家として、世界中で有名ですからね。しかし、村上龍も日本の現代文学を代表する作家の一人です。私は彼の世界観がとても好きです」
田中さんはカウンターを出て、日本文学の棚へ向かった。ワタシとタケオもそれに従った。棚には作家の作品が、作者の名前であ行から順に、向かって左から右へと並んでいる。村上春樹の棚に並んだ本と変わらないくらい多くの本が、村上龍の棚にも並んでいた。その下には村山由佳が続いている。こちらは、彼らの五分の一といった感じかな。
「あ、『昭和歌謡大全集』って村上龍の作品なんだ!」
突然タケオが前のめりに、村上龍の棚に食いついた。
「何? 知ってるの?」
ワタシは少し怪訝な表情で彼に尋ねた。
「映画で観てさ、松田龍平が主演だったんだけど、スゲエ面白いんだよ! おばさん軍団と若い奴らが殺し合うっていう」
あまりに暴力的な言葉を聞き、ワタシは顔をしかめた。しかし、タケオが映画とは言え、こんな文学作品に興味を示すとは。少し意外だった。田中さん、『イビサ』はそんな作品じゃないんですよね? お願いしますよ。ワタシは心の中で、田中さんの背中にそう語りかけた。
「はは、じゃあ君には『半島を出よ』がお勧めかな? きっと気にいると思うよ。はい、森さん、こちらが『イビサ』です」
田中さんがこちらを振り返り、文庫本をワタシの前に差し出した。
「大丈夫ですよ、これはスペインのリゾート地であるイビサ島の名前を冠したタイトル通り、ヨーロッパ、北アフリカのモロッコを舞台にした旅物語ですから。ただ……まあ、読んでからのお楽しみということで」
心配そうな表情で本を見つめていたワタシを安心させるように田中さんは、にこやかにそう概要を話したが、最後の言葉が意味深に響いた。
「これ、上下巻あるんですね~。読めるかなぁ……」
タケオが田中さんに勧められた、『半島を出よ』の上巻を捲りながら呟いた。
「壮大な話ですからね、北朝鮮の特殊部隊に福岡が占領されて、彼らにニートたちが戦線を引くという」
「面白そうですね!」
タケオが目を輝かせている。彼のこういうピュアなところが、どんな人間も彼に親しみを感じてしまう点なんだろうな、と思った。
タケオは田中さんに本を借りる手続きをしてもらって、そのまま帰った。ワタシはもう少し残って、他にも借りる本を探すことにした。この前、読んだ伊坂幸太郎の『重力ピエロ』に、争いを避ける為に擬似性行為おこなったり、メス同士が性器をこすり合せる〝ホカホカ〟と呼ばれる行動をする「ボノボ」というチンパンジーに似た霊長類の話が出てきて、とても気になっていた。田中さんに『イビサ』を預けて、ワタシは再び二階へ上がった。オランダの生物学者フランス・ドゥ・ヴァールの『ヒトに最も近い類人猿ボノボ』を借りることにした。オランダ人でフランスなんて名前、ややこしいな、と一人ツッコミを誰もがせずにはいられないだろうな。ワタシは、その本を片手に二階をもう少しぶらついた。天文学の棚でリサ・ランドールの『ダークマターと恐竜絶滅』という本を見つけ、パラパラと捲った。
ダークマターの一部は寄り集まって円盤化し、天の川銀河の円盤内に収まり(二重円盤モデル)、周囲に強い影響を及ぼす。その新種のダークマターが彗星を地球に飛来させ、六六〇〇万年前の恐竜絶滅を引き起こしたのかもしれない……何も頭に入ってこなかった。巷ではリケジョが持て囃されているけど、ワタシには縁がなさそう。帯に載っている写真を見ると、著者のリサ・ランドールはとても美人で、この世界自体がワタシの宇宙とダークマターを隔てて、遠く何光年も離れた別次元のように思えてならない。ワタシは本を棚に戻した。
あれ? 頭がクラクラする……ちょっと難しいこと考え過ぎたのかな?
目の前が少しずつ歪みながら、ムンクの『叫び』の背景のようにワタシが見る空間がベトベトに溶け出した。
「何これ、貧血? ヤバ……い……」
そしてその空間をキャンパスに、ジャクソン・ポロックのアクション・ペインティングみたいな、出鱈目な飛び散る絵の具の様な光が差し込むのが目に映り、ワタシは気を失った。
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