第2話

 セルゲイ・ヴァシリエヴィチ・ラフマニノフの『ピアノ協奏曲第2番』……ラフマニノフはロシア出身の若き天才ピアノ奏者で、かのチャイコフスキーに目をかけられた。一八九二年「モスクワ電気博覧会」で『前奏曲嬰ハ短調』を初演。この曲は人気を博し、作曲家としても認められた彼だが、一八九七年にアレクサンドル・グラズノフ指揮によるペテルブルクでの『交響曲第1番』の初演が記録的な大失敗に終わり、神経衰弱となり作曲をできなくなってしまった。ラフマニノフは、翌一八九八年にヤルタでアントン・チェーホフと出会い、親交を結ぶ。チェーホフは失意のラフマニノフを励ましたという。一八九九年には、彼を心配した知人の仲介でレフ・トルストイの自宅を訪ね、『交響曲第1番』の初演以降に作曲した数少ない作品の一つである歌曲「運命」(後に作品21の1として出版された)を披露したが、ベートーヴェンの『交響曲第五番』に基づくこの作品、晩年ベートーヴェンには否定的だったトルストイはお気に召さなかったようで、彼はさらに深く傷つくことになった。


 僕がチェーホフが好きで、トルストイが嫌いな理由だ。


 一九〇〇年、ラフマニノフを心配した友人に紹介された、精神科医のニコライ・ダーリは、ラフマニノフに催眠療法と心理療法を用いて三カ月以上にわたる治療を開始した。ダーリの治療と家族の支えにより快復したラフマニノフは、後に『ピアノ協奏曲第2番』を作曲し、ダーリに献呈した。この作品によってラフマニノフはグリンカ賞を受賞し、作曲家としての名声を確立した。この曲の初演時、楽屋でダーリは「あなたのピアノ協奏曲は……」とラフマニノフに話しかけたところ、ラフマニノフは「いや、あなたのピアノ協奏曲です」と返したそうだ。


 〝持つべきものは友〟とは、よく言ったものだ。現在では、ダーリの治療法については懐疑的な見方が広まっている。ダーリは数回の診療をおこなっただけで、難航していた「ピアノ協奏曲第2番第1楽章」が完成したのは、治療に通った時期から一年以上経過している、というのがその論拠だ。しかし、そんなことはどうでもいい。ラフマニノフがダーリに献呈してるのだから、作曲が再びできるようになったのは、間違いなくダーリのおかげだろう。重箱の隅を突く様な輩には、きっと素敵な友達がいないのだろう。それはとても悲しい人生だ。「このエピソードを知って『ピアノ協奏曲第2番』を聴くと、また違った趣きがある」なんて言う奴も駄目だ。問答無用でこの協奏曲は、悲哀から立ち直った輝かしい喜びと、安らぎに充ち満ちた音が詰まっている。そんなものは聴けば分かる。それが音楽だ。まあ、僕には分からない。なぜなら僕は音楽家じゃないからだ。

 ピアニストであるデイヴィッド・ヘルフゴットの半生を題材にした、『Shine』というオーストラリアの映画がある。メルボルン出身のヘルフゴットは、ロンドン王立音楽院に留学し、ピアノコンクールで難関であるラフマニノフの『ピアノ協奏曲第3番』に挑戦し、その後精神に異常をきたし始める。ヘルフゴットはメルボルンに戻って、精神病院に入ったが、後に療養所の女性に引き取られて退院した。そして、ある日バーでピアノを弾き始めた。それが新聞で話題に上り、再び彼は演奏家として立ち直る。この映画で僕はラフマニノフを知った。こうして見ると、ラフマニノフと精神病がまるでセットのように見えてしまう。音楽は純粋に音楽として聴けば良いのだ。僕はそう思う。「お前が一番うるさい」という声が聞こえてきそうだが、ここで述べていることは個人的見解なので、批判は受け付けない……こんなことを考えているうちに、レコードに落とした針が上がり、レコードは、ジィージィーポスポスと辿る溝を見失った針が、それでも溝を探し求めるように声にならない叫びを上げながら、空回りを続ける。このくぐもったノイズを聴きながら眠りに落ちるのは、なかなか心地が良い。人間が無機質な機械に愛着を感じるのは、この全く意味のない実直さを機械が持っているからだ。ルンバのような、自動掃除機も段差で引っかかり身動きが取れない状態を見て、人はそれを拾い上げながら「カワイイ」と言うのだ。


 僕はヤコブセンのエッグチェアから腰を上げ、レコードプレーヤーの針を上げた。一九五八年に発売されたフリッツ・ライナー指揮、シカゴ交響楽団とアルベルト・ルーベンシュタインによるラフマニノフの『ピアノ協奏曲第2番』のレコードを取り上げ、レコード収納棚に戻した。……僕は何か違和感を覚えた。戻したレコード棚にデヴィッド・ボウイの『LOW』が並んでいたからだ。僕はレコードをジャンルとアーティスト別に並べて収めている。「クラシカル」の棚に「ロック」が収まっているなんて有り得ない。ボウイは「クラシック・ロック」かもしれないが、常に柔軟性と革新性に満ち溢れたアーティストだった。僕は『LOW』をロックの棚に並べ直した。……ん? 僕は混乱した。棚にはQUASIMOTOこと、マッドリブの「Hittin Hooks」が収まっていた。これは「ヒップホップ」だし、しかも7インチだ。無茶苦茶じゃないか! 空き巣か? 僕は辺りを見回した……整然とはしている。確かに、今や音楽はスマホでサブスクのストリーミングで聴くのが当たり前だし、レコードなんてただの趣向品みたいな物だ。その分、〝レア物〟は高値で取り引きされたりもする。僕はレコード棚を左隅から見直した。「テクノ」棚にはエイフィックス・ツインの『COME TO DADDY』から並んでいる……この辺は触らなかったのか。あれ? 改めて見ると全てが規則正しく元通りに並んでいた……錯覚か? 少しうたた寝をして、夢心地だったんだ、と僕は自分を納得させ、隣のベッドルームに入った。グレーのシーツに覆われた薄い掛け布団を捲り上げると、その下には見覚えのない女の子が静かな寝息を立てて横たわっていた。

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