第12話
湯芽町を一望できる丘に、小さなデッキハウスが建っている。レストラン、いや、喫茶店か?
「ここは……土方さんの喫茶店だな。と言っても、実存してないってことになるのかな? どうなんだろう?」
空間移動を実体験した、田中さんがそれとなく僕に尋ねる。何もかもが分からなくなる感覚だろう、僕だってそうだ。今、当たり前のようにこの二つの世界を行き来しているが、やはり未だに信じられない。やはり夢の続きじゃないのかと思ってしまう。
「夢じゃねえよ。なに寝ぼけたこと言ってんだ」
「え?」
店の前で僕の目を真っ直ぐ見て座っている黒猫が喋ったように聞こえたので、僕は思わず声を上げてしまった。
「あれ? この猫、喋りませんでした?」
田中さんも聞こえたようだ……何ということだ。ジブリじゃないか。前言撤回。やはり夢に違いない。
「気のせいですよ。移動したばかりで、少し幻聴などが聞こえるのかもしれません。脳震とう的な。少しこの店で休みましょう」
「気のせいじゃねえよ。猫はたまに喋んだよ。人間が聞いてないだけで。もちろん都合の悪いことは猫語で話してるがな、ワハハ」
何という下品な話し方だ。しかも、人間を小ばかにしてる高慢な態度。夏目漱石の吾輩より質が悪い。
「すごいな。まさか猫が喋るなんて……夏目漱石の『吾輩は猫である』も強ち、心を突いていたのかもしれませんね」
田中さんが感動している。思ったより素直な心の持ち主のようだ。
「そうですね……でも、あれは猫が喋るから面白いのであって。実際に喋っていたら、元も子もないというか」
「うるせえよ。そんなの猫の知ったこっちゃねえ。無駄口叩いてる暇ねえぞ。森実可って娘、探してるんだろ? 急いだ方がいいぞ」
「な! 知っているのか、彼女の居所を?」
にゃあ~、と急に黒猫は猫語を使い、店の中に入って行った。何だ? 都合が悪いことでも起きているのか? 僕と田中さんは顔を見合わせて黒猫の後に続いた。
白い塗装が剥げかけた、木製の柵で囲まれたウッドデッキ内には年季の入った丸いウッドテーブルと二脚のウッドチェアーが置かれている。ウッドデッキを通り抜け、赤い塗装が施されたアーチ形の木製の扉には、少しくすんだ真鍮の楕円のドアノブが付いている。扉は鍵が掛かっていないためか、少し開いていた。僕はドアノブに手をかけ、扉を用心深く手前に引いた。薄暗い店内に外の光が差し込み、中を照らした。フローリングの床も古く、僕と田中さんが歩くたびにギイギイと音を立てて軋んだ。
「あれ? 土方さん居ないのかな?」
田中さんがキョロキョロと店内を見回しながら、呟いた。店内にはステンレス製の円形の傘を被ったランプシェードがいくつか天井から釣り下がっていたが、どれも電球の明かりは点いていなかった。その下には木製のテーブルとセットになった椅子、アイビーグリーンの布製ソファが二組ずつ並んでいた。その奥にカウンター席と黒い革製の丸椅子が何脚か並んでいる。黒猫はどこにもいない……
「土方さん? 誰ですか?」
「ああ、龍口先生は会ったことはないのか。この喫茶店のマスターですよ。確か森さんもここでバイトしていたんじゃないかな」
「定休日とかじゃないんですか?」
「そうなのかな……でも、休みの日は土方さんは丘の下にあるご自宅にいるはずだから、キチンと戸締まりしてると思うんだけど……忘れてたのかな?」
ガタガタガタガタ
カウンターの隣にあるキッチンの方から大きな音が聞こえてきて、僕たちはそちらの方を見て顔を見合わせた。田中さんは頷き、僕たちはキッチンの中に入った。キッチンの中央にはステンレスの大きなキッチン台があり、大小のフライパンやソースパンなどがその上にぶら下がっていた。その手前にはガスコンロが3つ並んでいて、奥の方には大きな冷蔵庫が設置されていた。個人経営の喫茶店とは思えない、まるで普通のレストランのような本格的なシステムキッチンだ。
「誰もいない……ですね」
「さっきの黒猫かな?」
ガタガタガタガタ
どうやら冷蔵庫の辺りから物音がしているみたいだ。僕たちは冷蔵庫の辺りを見回した。 「先生、ここじゃないですか?」
田中さんが、冷蔵庫の手前の床下倉庫の扉を指差していた。僕は扉に付いている埋め込み式の取っ手をつまみ、ゆっくりと扉を引き上げた。その見た目より重厚な扉の重みに少しよろめいたが、扉を開けて中の淵の上に置かれていたつっかえ棒を取り出し、扉を固定して中を覗き込んだ。じめっとした空気が顔に纏わりつくように広がり、僕は一瞬顔を横に逸らした。中には木製の階段があり、地下に降りれるようになっていた。どうやらとても広い空間が地下に広がっているみたいだ。僕は様子を見ていた田中さんの方を見た。
「懐中電灯がどこかにありますかね? 降りてみましょう」
田中さんがキッチン裏の非常口から懐中電灯を持って来て、僕たちはゆっくりと階段を下った。上から覗いた感じよりも、実際はとても深くまで階段は続いていた。中は、じめじめとした湿気が漂っていたが、一番下の段から足をコンクリート地のフロアに下ろすと、ひんやりとした空気が満ちていた。
「食糧庫かな?」
後ろから降りてきた田中さんが疑問を口に出した。
「それにしては広すぎるし、深すぎませんか?」
僕は今レストランの設計を手掛けているので、正直この部屋にはとても違和感を覚えていた。
「そう……ですね」
僕は田中さんがあまり納得していないことは気にせずに、懐中電灯を地下室の奥に向けて照らした。一~二メートル周囲くらいしか照らせない懐中電灯ではとてもこの地下室の全容は見渡せなかった。先へ進んでみるしかない。
ガタガタガタガタ
再び暗闇の奥から聞こえてきたその音は、地下室の中で反響してより不気味に聞こえた。
「間違いなくこの奥に何かいますね、さっきの黒猫にしては音が大きすぎる」
「人間ということですか?」
「……おそらく」
少し前に進むと、そこには金属製の棚がいくつも並んでいた。その棚にはガラスの瓶がぎっしり並べられて置かれていた。僕はそのガラス瓶を懐中電灯で照らしてみた。液体の中に何か浮かんでいる。生き物ではないが、歪な形の肉片のようなものだ。僕は左から順に僕の目の高さにある棚の瓶を照らして見た。
「……こ、これは」
手だ。人間の手が瓶の中に浮かんでいた。手だけではない。足首から下の部分もあった。最初に見たものは古いものだろう、損壊が激しくて原型を留めていなかったようだ。底の部分に崩れ落ちた肉片が沈んでいた。そう考えて見ると、右にいくほど新しく採取されたもののようだ……
「うわっ! ほ、本物ですか?」
田中さんが驚きながらも、繁々と見つめる。人間とはグロテスクなものに異様な関心を示すのが常だ。レプリカ? にしては趣味が悪すぎるし、数が尋常じゃない。ホラー映画の小道具と言われれないと納得できない。しかし、本物だとしたら、とんでもないサイコ野郎がこの部屋を行き来しているということになる。というか、レプリカだろうが、サイコ野郎に違いはない。しかし、シリアルキラーには出会いたくない。
ガタガタガタガタ
嫌なタイミングで物音が棚のさらに奥の空間から鳴り響く……ヒッチコックも唸るシチュエーションだろう。しかし、ここで怖気づいて引き返すことはできない。森実可が命の危険に会っているという深刻さが僕たちにも実感できたのだ。もしかしたら……嫌な予感を振り払い、僕は懐中電灯の頼りない光が示唆するような、僅かな希望の光を信じて、前に進んだ。ホルマリン漬けの棚を抜けると、懐中電灯の光はコンクリートの壁に覆われた部屋の鉄製の扉を照らし出した。物音もどうやらこの部屋から聞こえてきているようだ。僕は扉に付いた重厚感のあるレバーハンドルに手をかけた。ひんやりとしたハンドルが緊張で汗ばんだ僕の掌から体温と希望を同時に奪い取っていくように感じ、僕は寒気に身体を震わせた。
「大丈夫ですか?」
田中さんが僕の肩に手を置き、僕は生気を取り戻した。僕は振り向かずに一度頷いて、ハンドルに掛けた手を強く握り、ハンドルを下におろした。ガチャンという音が地下室に響くのを聞きながら、僕は鉄の扉をゆっくりと押し開けた。
「……!? @#××……」
コンクリートに覆われた部屋には木製の椅子に縛り付けられ、口と両目を白い布で塞がれていた森実可の姿があった。人の気配を感じた彼女はガタガタと椅子を揺らしながらもがいていた。
「森さん! 大丈夫ですか?」
田中さんが真っ先に彼女に駆け寄り、椅子に縛り付けていた布を解いた。
「ああ”、ゴホッ、ゴホッ……」
「何があったんだ? 一体だれが……」
田中さんが左手で森実可の背中をさすりながら、右手で僕が彼女に問うことを制した。
「とにかく、早くここを出ましょう。こんな地下室があったということは、恐らく土方さんが何らかの事情を知っているはずです」
土方という名前を聞いて、森実可は身体をぶるっと震わせた。
「おやおや、鍵をかけるのを忘れていたようですね。これはお恥ずかしいものを見せてしまいました……このままお帰りになるつもりですか?」
オールバックの豊富な白髪に白い髭を蓄えた黒縁眼鏡をかけた老人が、血痕がたっぷり付いた前掛けをし巨大な鋸とノミを両手に持って、僕たちの背後に立っていた。
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