深海魚たち

ひゐ(宵々屋)

深海魚たち

辰磨たつま、朝ごはん、ここに置いておくわね、冷めないうちに食べるのよ」

 朝、僕が部屋で制服に着替えていると、廊下から階段を上がってくる足音がして、母さんの声が聞こえた。

 時計を見れば、もう六時半だった。母さんが朝食を持ってくる時間。もうそんな時間か、少し急がないと、いつも通りに学校に着けない。

 さっさと着替えて部屋を出る。もう母さんはそこにはいなかった、一階へ戻ってしまったらしい。秋の終わりに近づく今、廊下は少し寒く、一階へと続く階段へ向かって、僕はその中を進んだ。

 途中、ドア一つの前を通る。そのドアに向かうようにして、小さな四角いテーブルが廊下にはある。その上にはプレートに乗った朝食一式。ロールパン二つに、スクランブルエッグ、よく焼けたベーコン、小さなボウルに盛られたサラダ、そして四個パックで売っているものと思われるヨーグルト一つ。ありきたりな朝食。

 ここにある朝食は、僕のものではない。このテーブルの正面にある部屋の住人、兄・辰磨のものだ。母さんは朝の六時半になると、決まってここに朝食を置いていく。

 一階のダイニングルームへ向かえば、四つの席があるテーブルで父さんが一人、コーヒーを飲みながら新聞を読んでいた。スーツを着ていて、黒縁の眼鏡をかけた顔は、厳格そうな顔。実際に父さんは厳しい。いつもこの時間にコーヒーを飲みつつ新聞を読み、それから会社へ行く。

 ダイニングルームと一緒になっているキッチンを見れば、母さんが片付けをしていた。妙に痩せてて、顔にはどこか憂いの色があり、肩まで伸びた黒髪には白いものがちらほら見える――僕の両親はそこまで年をとっていないはずだが、どうも老けて見える。

 父さんの向かいの席に、朝食一式が用意されていた。これが僕の朝食だ。僕は席について朝食を見つめる。内容はほとんど兄のものと同じだ。そう、ほとんどは。

 僕の朝食には、ヨーグルトがなかった。

 兄にはあるのに。




 兄の田淵辰磨たぶちたつまが引きこもりになってから、そろそろ五年が経つ。僕が学校から帰ってきて、兄の部屋に入ってみれば、奴は相変わらずパソコンの前にいた。床にはお菓子のゴミが転がり、積まれた漫画が崩れて散らばっている汚い部屋。入って右側にあるベッドからは、だらしなく布団が床にずれ落ちていて、窓を見れば重いカーテンが夕日を遮っている。部屋の左側には勉強机があり、その上に青いノートパソコンがあって、椅子に座った兄はネットゲームをしていた。

 ぼさぼさの黒髪は不潔に伸びていて、前髪で顔の半分が隠れている。顔は整っているわけでもなく、だからといって不細工なわけでもない。やや垂れ目で隈は濃く肌は青白くて、根暗そうな雰囲気がだだ漏れである。あのテーブルを通して、毎日母さんからお菓子を貰っているようだが、身体は痩せていて身長は無駄にある。もやしのようだった。着ているものは、スウェットだったりジャージだったり、常に寝間着のようなものだ。一ヶ月ぐらい同じものを着ている気がする。

 一言で言うと、気持ち悪い。それが僕の兄だった。

 ちなみに僕、田淵浩哉たぶちこうやは、兄に「俺にいいステータスを沢山加えて、代わりに身長が足りないような奴」と言われる。実際に兄を優秀にし、身長を縮めたら僕のようになると思う。

 何が言いたいかというと、僕と兄は兄弟故に顔立ちはよく似ているが、性格や立ち位置は正反対であるということだ。

 約五年前、高校一年生だった時、兄はいじめにあった。馬鹿だったし社交性がなかったからだ。それでも学校に通い続けたが、ある日階段から突き落とされ右腕を骨折して以来、引きこもりになって現在に至る。

 汚い部屋の中を、僕はゴミ袋片手に進む。部屋の中は淀んでいて変な臭いがした。だからまず窓を大きく開けて換気する。それから散らばるゴミを拾い始める。

 兄が引きこもってから、僕は週に一度、その部屋を掃除するようになった。当初、兄は僕にどうして掃除してんだ、と聞いてきたが、こっちまで臭ってきたら困ると答えれば、何も言わなくなった。

 ゴミを拾いながら兄のパソコンの画面を見れば、いつもの3DMMORPGの世界が広がっている。画面の中央に紺色の装備をしたキャラクターがいて、兄の押すキーに従って走り、剣で蛇型の敵モンスターを薙ぎ払っている。操作する兄には必死な様子もなく、かといってつまらなそうな様子もなく、まるで何か別のことをしながらおまけでテレビを見るような様子で画面を見つめていた。近くを見ているようで遠くを見ているようで、どこを見ているのかわからない。




 ある日、僕が兄の部屋掃除に向かうと、兄は珍しくゲームをしておらず、なにやら動画を見ていた。

 その動画は気持ち悪いものだった。動画といっても写真が次々に切り替わっていくもので、どれも不気味な魚が写っていた。目玉が馬鹿みたいに大きな魚。どういうわけだか頭が透けている魚。口が大きいオタマジャクシのような魚。顎が妙に張り出している上に、鋭く細い牙をいくつも持った魚――どれもこの世のものとは思えないほど不気味だった。

「何これ気持ち悪い」

「深海魚。深海で暮らすから、こんな見た目になったんだと」

 兄がそう言うが、気持ち悪いものは気持ち悪い。

 その時だった。階段を上がってくる足音が聞こえてきた。とたん、兄が椅子から立ち上がった。

「父さんだ、お前早く部屋戻れ、面倒に巻き込まれたくない」

 僕は父さんがいない時間を狙って兄の部屋に来ているのに、もう会社から帰ってきたのか。いつもはもっと遅いのに。

 もし本当に父さんだったら僕も兄も互いにまずい。兄は父さんが嫌いだし、僕もここにいるのがばれたら父さんに怒られる。兄に関わるなと言われている。

 僕はゴミ袋を手放し急いで部屋を出た。直後、背後で鍵をかけた音がした。同時に、

「浩哉」

 呼ばれて階段の方を見れば、父さんがいた。たった今、会社から帰ってきたのだろう、スーツ姿だ。

 しまった。血の気が引いていく。動けなくなる。父さんはいつも以上に厳しい顔をしていた。すたすたとこちらまでやって来る。腹のあたりに冷たいものを感じて息が詰まってしまった。冷めた手は震えていた。

 どうしよう、怒られる。僕は優秀な息子でないといけないのに。父さんと母さんから好かれる子供でないといけないのに。

「……浩哉、どうして辰磨の部屋なんかにいたんだ」

 父さんは僕の前に立てば、そう冷たい声で問い詰めてきた。僕は何も答えられなかった。さらに血の気が引く。指先はもう凍りついてしまったかのようで、感覚がなくなる。全身が震えていた。そのくせ頭だけは熱かった。怒られる。嫌われる。頭の熱が目に回ってくる。

「辰磨に関わるなと言ってるだろう、あいつみたいになりたいのか? お前もあんなダメ人間になりたいのか?」

 何も言えないでいると、父さんは一層強い口調で言った。

 それだけは嫌だった。僕は親に愛される優秀な子でいたかった。涙をぬぐって、なんとか首を横に振る。本当に嫌だった。兄みたいになったら、父さんは僕を見てくれなくなる。母さんも僕を見てくれなくて、父さんも僕を見てくれなくなったら、僕はもうどうしたらいいかわからない。

「……もういい、泣くな。わかったなら、もう二度と辰磨の部屋に入るな。父さんはお前に期待してるんだ、だから、辰磨みたいになるんじゃないぞ」

 しばらくして、父さんは僕に背を向けると、一階へ下りていった。期待している、と言われたのは嬉しかった。でも僕はその場でただ涙を拭っていた。

 と、背後で鍵を外す音がして、ドアがわずかに開く。

「……これ食うか?」

 兄が隙間からこちらを見ていた。こちらに差し出す片手には、小さな袋に入ったグミがある。話を聞いていたようだ。

「……いらないに決まってるだろ!」

 僕は甲高くそう叫び、自室へと逃げ込んだ。




 そもそも兄は、昔から出来の悪い奴だった。対して何をやっても上手くこなす僕は、両親にとって優秀な子供だったと思う。兄より優秀なのだから、何をしなくても褒められた。

 僕は褒められることが嬉しかった。その分たまに兄が両親に褒められるのは、気に入らなかった。まるで僕の分を、兄に奪われたような気がして、嫌だった。

 だから僕は努力してもっと褒めてもらった。兄を見る隙を与えず、両親が常に僕のことを見てくれて、僕のことを褒めてくれるよう、努力した。

 けれどもある日、母さんは僕のことを見てくれなくなった。兄が引きこもりになって以来、母さんは兄しか見なくなった。

 最初は気にせずにいた。そのうちまた僕を見てくれると思ったから。でもその時はいつまで経ってもこなかった。それどころか、下手に刺激すると過保護さが増すようになった。

 兄が引きこもってから数カ月が経った頃。父さんがいつまでも部屋から出てこないで堕落していく兄に怒鳴った。兄は聞きたくないとばかりに部屋に鍵をかけて閉じこもったが、父さんはそれでも部屋の前で怒鳴り続け、すると母さんが止めに来た。それ以上辰磨を傷つけないで、と。それを受けて父さんはお前が過保護だから辰磨もこうなったんだと、母さんまでにも怒鳴ると、母さんはヒステリーを起こした。じゃあ誰が辰磨を守るの、あなたは何もわかっていない、と。

 騒ぎは一時間以上続いた。僕は怖くて部屋に閉じこもっていた。外では半狂乱になった母さんの叫び声と、なだめる父さんの声がした。やがて静かになって母さんの声が聞こえた。

「辰磨、もう大丈夫よ、もう誰にも傷つけさせないからね、怖い思いをさせないからね、母さんが守ってあげるからね」

 母さんの目には、兄しか映っていなかった。

 兄は僕が大切にしていたもの半分を奪っていった。両親の愛情。僕が大切にして、なくさないように必死に努力していたものを、あっさりと奪っていった。

 父さんは以来、兄のことで母さんに関わろうとはしなかった。僕は母さんを取り返そうと必死で努力した。学校の成績はもちろん、性格のいい人柄を目指したし、母さんの味方だよと、兄の部屋掃除もした。それでも僕を見てくれなくて。

 父さんは母さんと違って僕を見てくれるけれど、僕は二人の愛情があってこそ満たされる。だから僕は昔のように父さんと母さんに褒められたい。二人を独り占めしたい。

 ただそれだけなのだ。




 冬の寒さが徐々に近づいている。ある夜、夕食を食べ終えた僕は、階段を上がって部屋に戻ろうとしていた。明日、学校でテストがあるのでその勉強をするつもりだった。

 しかし兄の部屋の前で足を止めた。そしてドアを開けて部屋に入ってしまう。これが父さんに見つかったらまた怒られる。僕の大切なものの残り半分を、全て失うかもしれない。でも、僕の大切なもの、そのもう半分を奪っていった奴のことを、気にせずにはいられなかった。

 パソコンにはいつものネットゲームが表示されているものの、兄は珍しくベッドで寝そべって漫画を読んでいた。古い漫画だ。昔人気だったもの。いまはもっと別の漫画が人気だというのに、こいつの時間は昔のまま止まっているようだ。

 と、ベッドの脇に少し大きい見慣れない箱があった。卵形の何かが描かれている。

「加湿器?」

「これから乾燥する時期だから、快適に過ごせるようにって、母さんが置いてったんだ」

 兄はこちらをちらりとも見ずに教えてくれた。

 母さんが置いていった――僕の部屋に加湿器はない。僕の加湿器はないのか。また兄を優先する。

 苛立ちを覚え、その箱を睨む。すると兄は何ともない様子で口を開いた。

「欲しいのか? いるならやるよ」

「……これ母さんからもらったんだろ、使えよ」

「もらったっても、俺はいらないよ、そんなの」

 いらないよ、そんなの。

 兄は本当にどうでもいいような口調で、確かにそう言った。

 いらないよ、そんなの。

 まるで他人事のように、ゴミであるかのように。

 いらないよ、そんなの。

 僕は欲しくてたまらなくて、お前とは違って必死に努力しているのに。それをお前は簡単に手に入れて、挙げ句の果てに「いらないよ、そんなの」だなんて。

 自分の中で、何かが割れたような気がした。いままで抑えてきていた熱が溢れてきて一気に頭まで上ってくる。

「ふざけんなよ!」

 次の瞬間、僕はその箱を持つや否やパソコンに投げつけていた。箱は角から画面へと飛び入る。とたん画面が乱れた、ゆがんだ、割れた。広がっていた仮想の世界が消える。

「ふっざけんなよ! 人間のクズのくせに!」

 箱は少し歪んで床に転がった。壊れたパソコンは大きく開く。僕は椅子を蹴り飛ばして、箱を再び持てば今度は壁に投げつける。派手な音がして、箱は空き缶のように半分潰れた。

 どうして努力もなにもしていない堕落したお前が、母さんから愛されるんだ。ゴミのくせに。ゲームしか出来ることがないくせに。社会的に存在価値なんてないのに。

 その上、母さんからの愛情をいらないだと?

 僕はそれが欲しくてたまらなくて、必死なのに!

 罵声を上げて近くにあった漫画の山を蹴り崩す。そしてすでに壊れているパソコンを、コードが伸びて抜けるのも気にせず持ち上げれば、思い切り床に叩き付けた。

 古いパソコンは脆かった。叩き付けた衝撃でキーがいくつか弾け飛んだ。青いボディには僅かにひびが入り、キーボード部分との付け根が壊れたのか、ばきりと嫌な音がして画面部分は倒れた。もう画面に光はない。それでも僕は、勢いのままにパソコンを何度も踏みつけた。

 兄が憎くて羨ましくて仕方なかった。

 激しく息を切りやがて踏みつけるのを止めれば、足の下には大破したパソコンがあった。

 どうだ、お前の大切なもの、ぶっ壊してやったぞ――そう思って、僕はひきつった笑みを浮かべながら兄を見た。

 けれども兄は、真顔だった。

 先程と同じ体勢で、手にはまだ漫画を持っていた。それは、本当になんともない様子だった。何か考えているような、しかし何も考えていないような、そんな目で僕を見ていた。

 まるで、ゲームをしている時と同じ顔だった。どうでもいい顔。そこにあるから、ただ見ているだけの顔。目に映っているから見ているだけの顔。

 背筋に寒気が走った。興奮が一気に冷める。その時僕は、初めて兄が怖いと思った。

 なんでそんな顔をしていられる。そんな目で見るな。

 僕は自分の部屋へと逃げ出した。




 僕が暴れても、結局何も変わらなかった。母さんは変わらず兄しか見ておらず、数日後には新しいパソコンと加湿器を買い与えてしまったし、兄は変わらずクズだし、僕が暴れたことを知った父さんは「お前の気持ちは良くわかる、でももう辰磨に関わるな、気にするんじゃない」と、怒られはしなかったものの、そう言われた。そして父さんは、変わらず過保護な母さんを咎めなかった。

 本当に何も変わらなかった。強いて言えば、兄のパソコンと加湿器が変わったぐらいだ。そして僕は、僕が何をしても周りは変わらないということを知った。

 兄が新しいパソコンと加湿器を買ってもらった夜、僕は部屋で泣いた。自分の無力さに泣いた。現状の変わらなさに泣いた。何より兄にあんな目で見られたのが悔しくて泣いた。

 まるでつまらなさそうな目。悟ったかのような目。別の世界を見るような目。次元の違う相手を見る目。

 僕はあの時、ようやく気がついた。兄と自分は、次元が違うのだ。そんな相手を敵と見て一人慌てる僕は馬鹿で、その時からすでに僕は負けていたのだ。

 兄に負けた。母さんも取り返せない。それが悔しくてベッドで枕に顔をうずめて、声を抑えて泣いた。

 しばらく泣いて、顔を上げれば、ベッドの隅に置かれている一冊の本が目に入った。深海魚についての本だ。この前の深海魚の動画を見て興味が沸き、思わず買った本だった。

 調べてみたところ、深海魚は深海の水圧や水温に適した身体になっているため、捕獲して浮上させようとすると、水圧の低下や温度の上昇によって大きなダメージを受け死んでしまうらしい。だから浅いところには来られないそうだ。深海に住むことを選んだ魚は、深海に縛られているのだ。

 なんとなく、僕ら一家に似ているような気がした。部屋から、自分の世界から出てこない兄。誰が何を言おうとそんな兄の味方をする母さん。もう二人に関わろうとしない父さん。三人とも変わらない、変われない。

 僕らの家の中は、深海のようだった。真っ暗で寒くて、絶望的な場所。もう僕には何も出来ない。

 それでも、僕が努力し続ければ、いつか母さんが僕の方を見てくれるかもしれない。そう思わずにはいられなかった。

 勉強をしなきゃと思った。いい成績をとって、いい人柄でいて、多くの人から望まれるような優秀な子でいれば、また母さんは僕を見てくれるかもしれない。

 それを願って僕は勉強を始めた。でも涙は止まらなかった。

 深海魚は涙の海の暗闇を漂う。


【深海魚たち 終】

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