振り返ればあの時ヤれたかも
大宮コウ
第1話
「私に勝ったら、何でも言うことを聞いてあげる」
そう言われたのは、もう十年も昔のことだ。
おれが高校二年生だった秋の日。一つ年上の先輩――秋帆みらいが、まだ手の届くところにいた日。
先輩がゲームの筐体に触れる。かつてのおれが熱中していた対戦ゲーム。先輩と出会ったきっかけ。それを撫でる彼女の目は、どこか遠くの、ここではない場所を見据えているようだった。
「でも、もしキミが負けたら、私の言うことを聞いて」
負けたくない、と思った。
当然、勝負ごとに鼻から負けようと思って挑んだことは一度もない。それに、憧れの異性の先輩から、何でも言うことを聞くだなんて言われれば、やる気も発奮するものだろう。
それでも。
もし、この勝負に勝つことが出来なければ、先輩がどこかに行ってしまう気がして。
だからこそ、この戦いは絶対に負けられない気がしたのだった。
結果として――おれは、負けた。僅差だった、というのは言い訳にもならない。敗因は普段ならしないような、くだらない凡ミスだった。
予期した通り、数日後に先輩はおれの前から消えた。
手のひらサイズの玉手箱のようなお守りと、それから、
「もう二度と、このゲームをしないで」
忘れられない呪いを残して。
◆
肌寒い夜。まだ秋に入ったばかりというのに、夏の熱気は見る影もない。
行きかう人の波をすり抜けて、目的の場所へと歩く。かつて通っていた高校の最寄り駅。その改札を出たすぐそこ。
待ち合わせの場所へと慌てて駆ければ、待ち人は壁に背を預けて待っていた。彼女はおれに気付くと、顔を上げてにこりと笑いかけてくる。
「遅かったですね、せんぱい」
「すまん、葉桜、ちょっと乗り換えに手間取ってな……」
「……ふふっ、いいですよ。せんぱいが遅刻の常習犯なんて、昔っから……それこそ初めて会った時からですもんね」
「お、おまえなあ、そんな昔のことを引っ張りださなくてもいいじゃないか」
「いえいえ、相変わらずでかえって安心しましたよ。ちゃんと話すのは、もう十年も昔ですから」
「……十年、か。早いな」
「ええ、あっという間です。まあ、積もる話は座ってからにしましょう」
待ち人である葉桜えいりは、おれの高校時代の後輩だった。
しかし高校の後輩というよりは、部活の後輩という面が強い。それだって、学校の部活動というわけではない。
『放課後ゲーム部』。
かつておれと、先輩――秋帆みらいの二人で始めて、後輩に葉桜えいりも新たに加わり、三人で活動していた部活動。
もしくは部活動とも言えないような、単なるお遊びの集まり。
「本当は、アキさんも入れて三人で会いたかったんですけど、ずっと連絡が取れなくて」
あらかじめ予約していた居酒屋で、机を挟んで向かい合っている葉桜は、右手に持つジョッキを豪勢に傾ける。
「……せんぱいは、いまでもアキさんと連絡は取っていますか?」
「いや、取ってない。秋帆先輩がいなくなってから……一度も会ってないからな」
そう返せば、葉桜は拍子抜けしたような表情をする。
「そうなんですか。私、実はもしかしたらお二人で付き合ってるんじゃないかなーと思ってたんですけど」
「……まさか」
「何がまさかですか、せんぱい、私と会ったときから既にアキさんのこと好きだったじゃないですか。全身からビーム出してるんじゃないかってくらい」
「えっ……おれ、周りから見てそんな風にしてたか?」
「それはもう。肝心のアキさんが気付いていたかどうかまでは知りませんが。さあさあ新しいお酒が来ましたよ。せんぱいも飲んでいきましょう」
止める間もなく、葉桜は勢いよく飲んでいく。それから、ジト目になって、こちらを見てきた。
「だいたいせんぱいもせんぱいですよ。すっぱりばっさり連絡しなくなっちゃうなんて、ありえますか?」
「いや、まあ、それは悪いと思ってるが……」
「アキ先輩と一緒に来なくなっちゃうんですから。いくら『放課後ゲーム部』がお遊びの集まりだったといっても、後輩が可愛くないんですかあ。もっと大切にするべきじゃないですか」
葉桜はそう愚痴ってから、ジョッキを再び一気に空にして、追加を頼む。おれは大して酒に強いわけでもないので、ちびちびと飲んでいく。
葉桜と再会したのは、仕事帰りに偶然だった。互いに用事があり、その時に話すことはできなかったが、葉桜に連絡先が書かれたメモ用紙の切れ端を押し付けられたのだ。
しかし、今の目の前の後輩の言葉には、多少なりとも驚きがあった。人の機微におれも疎かったが、こいつの感情表現だってだいぶ尖っていたと思う。だから、話せば話すほど、彼女のことを何も分かっていなかったことに気付かせられる。
それに加えて、十年も過ぎれば人は変わるというものか。酒をぐいぐい飲み干し、話し続ける彼女を見れば尚更だ。口数が少なく、飾り気のなかった後輩は今の彼女からは見る影もない。
袖の広い灰色のカーディガンに、深緑のロングスカート。耳元には銀の素朴なイヤリング。顔を見れば、うっすらと化粧をしている。
「せんぱいは、今はどうしてます?」
何を話したものかと悩んで、手持ち無沙汰で観察していれば目が合った。なに見てるんですか、有料ですよ、などとまた彼女の口から毒舌か嫌味かからかいの言葉が飛び出してくるかと思ったが、予想と違うものだった。
「……まあ、ぼちぼちだよ、ぼちぼち」
定職にはついていなかった。派遣をこなして職を転々としながら、それでも生きていくことはできている。特に愉快なイベントもない、誰かから見ればつまらないと言われるような人生。別段、取り立てて話せるようなことはなかった。
「せんぱいらしい、面白みのない答えですねえ」
「そういう葉桜はどうなんだよ」
ふふ、と屈託のない笑みを浮かべる葉桜は、とっておきの秘密を打ち明けるように言う。
「実は私、来月結婚する予定なんです!」
「げっ……まじで? お前が?」
「げ、とはなんですか。まじです、大まじですよ。両親から薦められたお見合いで出会ったんですが、すぐに気が合っちゃって。それが去年のことですね」
どうにも事実らしいことを頭の中で咀嚼して、酔った頭でどうにか言葉をひねり出す。
「まあ……見てくれは悪くはないしな。ひん曲がった性格は隠してるのか?」
「ところがどっこい、ひん曲がった性格ごと愛してくれてますよ」
「そ、そうか……」
もう二十も後半。結婚したって何らおかしくはない。こいつもそうなのだと、改めて思わされた。
おれは手元のビールを口に含んでから、内心の動揺がばれないようにと話を続ける。
「結婚前なのに、男と二人で飲んでいいのかよ」
「その点はせんぱいに心配されなくてもご安心です。ちゃんと信頼関係ができてますから。それに」
「それに?」
「ちょっと嫉妬させた方が、かえって夜が盛り上がったり」
「いやそんな生々しいこと話されても困るから……」
「もちろん、せんぱいのその顔を見るために言ってます」
「お前、相変わらず性格が悪いな!」
それから、話をした。卒業してからの話。葉桜の惚気。互いの仕事の愚痴。
店内にいられる時間が過ぎて、居酒屋から出たあとも街を二人で歩いた。この場所で何をしたどうしたという話をしていれば、駅の近くの公園に着く。
葉桜に急かされるがまま、二つのブランコに隣り合って――というにはやや離れているが――座る。
「昔は、よくここに来ましたよね」
きい、きい、と小さく金属の軋む音が鳴る。ブランコを揺らしながら、右隣の彼女が楽しそうに話す。
「そうだな。つっても、してたのはゲームの話ぐらいだけど」
「楽しかった、ですよね」
「ああ……楽しかった」
決して気が合うわけではなかったけど、ゲームのこととなれば別だった。
互いに無言になった。言葉を出すのも無粋な気がして、空を見上げる。街の光のせいで星明かりは見えない。ただ、月の光だけが輝いている。
「せんぱい」
呼びかけられて、目を向ける。背中を丸めて、顔だけこちらに向ける彼女。細められた目は、まるで何かを乞うようで。
今この瞬間だけは、かつての後輩と相対している錯覚があった。
「実は私、せんぱいのこと、好きだったんですよ……なんて言ったら、どうします?」
「それは……」
不意の葉桜の言葉に、つい、何と返すべきか躊躇ってしまう。冗談めかした結びに反して、その言葉が、あまりにも真剣さのある声音だったから。
隣の葉桜は、にこりと笑う。彼女のそんな顔は、高校生の頃には一度たりとも見たことがない。
本当に冗談なのか、そんなことは、わかるわけがない。彼女の感情の機微なんて、知るはずもない。
「それは……うん、ぞっとするな」
「うわ、ひどくないですか」
「何言ってんだよ、お前ことあるごとにおれのこと嫌いって言ってきたじゃねえか。百歩譲ってもそんな愛情表現嫌すぎるだろ」
「いやはい、まあ、言ってしまえば好きだと思っていたのは一時の気の迷いだったんですけど」
「何もしてないのに突然気の迷い扱いされる身にもなってくれ……」
葉桜は屈託なく、けたけたと笑う。
「せんぱいは、変わりませんね」
「うっせ……お前は、変わったな」
こんな風に、いろんな顔をするようなやつじゃなかった。当たり前のように笑うようなやつじゃなかった。基本的に仏頂面で、ひねくれていて、口が悪くて。
それでも、そんなこいつと、そして先輩と一緒にゲームに熱中していた日々が、何よりも大切だった。
「私にも、いろいろあったんですよ。せんぱい方と会わなくなってから」
「いろいろ、な」
何が、と問う必要はあるまい。十年の月日はおれと葉桜に等しく流れて、しかしその中身は今日この日まで交わることはなかった。
ただそれだけのことだった。
しばらく無言でいると、携帯の着信音が隣からした。葉桜は携帯を確認すると、すっと立ちあがる。
「では、せんぱい、お先に失礼します。そろそろ心配する連絡が来たので」
「……葉桜と恋人との仲が良さそうでなによりだよ」
「むっ、何故婚約者からと気付きました?」
「わざわざ結婚アピールするなっつーの……そんなん、顔を見ればわかるわ」
葉桜は自分の顔に触れて、緩んだ頬を確認する。
「……そういえば、葉桜って呼ぶのも、もう終わりになるのか」
「そうですね。では今度からは親しみを込めてえいりちゃんとお呼びくださいね」
「バカ言え、実際に言ったら気持ち悪がるだろお前」
「バレましたか。じゃあ……次に会うまでの宿題ということで」
そう言って、公園の出口へと駆けていく葉桜。
「せんぱい! 式には来てくださいね!」
最後にくるりとこちらを向いて、大きく手を振ってから、去っていく。おれも手を振り返して、その後ろ姿を見送る。
そして、おれは一人残される。
冷たい夜の空気に、身震いした。
楽しかった青春の残渣が風に吹かれて、消えていく。
死にたい夜だ。
ふと、そう思った。
学生の頃からの習慣だった。ゲームに逃げ込んで、そちらに意識を向けることで、目を背けてごまかしていた。
しかし、逃げ場となるゲームをやめてからは悪化した。大学のゼミでの交流。職場での業務。従業員との会話。店での買い物。あの時、ああしていればとか、些細なことを思い返して苦しむ。死んでしまいたくなる。本当に意味も必要性もない習慣。
そんな死にたくなった夜には思うのだ。
高校生のあの頃の日々が確かに輝いていたから、あの頃に戻りたいと、思ってしまうのだ。
なりたいものなんてなかった。将来の夢なんてなかった。今が楽しければそれでよかった。
それでも、思っていたのだ。あのとき憧れていた先輩に顔向けできるような人間になりたかったと。
決して望むような自分ではない己を顧みて、酒とまどろみの入り混じった頭で思うのだ。
「今日はもう、だめだ……」
公園のベンチに倒れ込む。明日仕事を入れていなくてよかった。
目覚めたときに、財布とお守りを盗まれていないことを願う。
◆
眩しさと、熱さ。サイレンの音。
その三つをまず感じた。
目を覚ます。目を開く。煌々と燃える炎が視界に入る。
街が燃えている。視界の向こうのビルが倒壊している。
鳴りやまぬサイレンはまるで悪い夢のようで、心臓を痛いくらいに鳴り響かせる。
「なん、だ、これ……?」
地面が揺れる。なにかが壊れる音。
明らかな異常事態。理解が及ばない状況であるが、ここにいてはいけないと直感する。しかし、何処に行けばいいかも分からない。それでもここに留まるよりはましであると立ち上がる。歩き出す。走り出す。
公園を出て、街を歩くが誰ともすれ違わない。おれが気付かなかっただけで、他の人は既に避難しているのだろうか。
途中、目を疑うような光景に出くわす。炭化した家。潰された家。焼き焦げた肉の臭い。クレーターがいくつもつけられた街。
いったい何が起こったのかと、酔いがまだ覚めぬ頭とふらつく足で必死に走る。
そして、道の角を曲がった時、視界にそれを捕えた。
それがいるのは遥か先。それなのに、それらの大きさが――あまりにも大きいものだとわかる。
彼らの足元で燃える街によって、輪郭が夜の空に浮かび上がっている。
大きなヒトガタをした、鉄の巨人。
二本足で立つ、腹の膨れたトカゲのような怪獣。
その二体がいた。
その二体が、戦っていた。
逃げようとする足が止まってしまう。その戦いに見入ってしまう。
殴りつける。炎を出す。蹴り飛ばす。武器を打ちつける。尾を叩きつける。そこで繰り広げられていたのはヒーローショーというよりは、ある種の原始的な闘争。
足もとで燃える炎に照らされる彼ら。夜空に浮かぶ赤くて黒いシルエット。
ヒト型の巨人は、片腕の半ばから先をどこかに失い、身体は傾いている。
怪獣は巨人と比べて見るからに動きが鈍い。
どちらも満身創痍だった。
彼らの戦いを見ていて、おれは思わず考えてしまう。
もっと距離を詰めろ。動け。フェイントを入れろ。距離を取れ。
外野だから、そんなことを言えるのだろう。しかしあのざまを見ていると、機械の巨人にいるはずの操縦主に、口出ししてしまいたくなる。
最も、そんな伝達手段なんてなく、徐々に戦況が傾いていく。
そして、泥臭さも感じる戦いに、ついに終わりが訪れた。
怪獣の口から放たれた光の線。遠くから見ればか細いだけのそれに、巨人の防御は意味をなさず貫かれる。
機械の巨人は膝をついた。
街の被害など知らぬとばかりに、前のめりに倒れていく。衝撃音と共に、地面が強く揺れる。
それきり動くことはなかった。
怪獣は雄たけびを上げた。勝利への歓喜か、あるいは別の意味があるのか。おれにはわからない。
しかし、怪獣がこちらへと近づいてくるのを見て、思ったのだ。
人類は負けたのだと。
あの巨体ならば、こちらに来るまで徒歩で数歩といった距離か。歩く方向は、何の因果かこちら側。まさかちっぽけなおれ一人を殺すために、わざわざ狙いを定めて向かっているわけでもあるまい。
いまさら焦って逃げても、逃げることに間に合うわけはない。生き残るには奇跡に頼るほかあるまい。沼のような達観が胸の内を占める。
あるいは、こんなふうに何もかもが終わってしまうことを望んでいたのだろうか。
せめて心を落ち着けようと、煙草を吸うためにポケットへと手をやって、硬いものに触れた。
先輩からもらったお守り。
『もし君が、本当に困ったときに、これを開けて』
先輩に渡されたときに添えられた言葉。それが頭の中でリフレインする。
別に、それで何が起きるわけでもあるまい。この世界には魔法なんてない。いや、怪獣なんてものが目の前にいるのだ。もしかしたら存在するかもしれないが、きっとあの怪獣には効かないのではないかと思ってしまう。
それでも、お守りを縛る紐に手をかける。
やや大きめの、厚みと重みのあるお守り。その封を、解いた。
中から現れたのは、手のひらサイズの箱。下半分は黒い台座。上半分が透明な蓋で覆われていて、その中には赤いボタンがある。
「なんだよ、これ」
思わず、笑ってしまう。ほんの少しばかりの期待が実はあった。それでも、いままで大切にしていたものが、こんなおもちゃのようなものならば笑うほかあるまい。
蓋を外す。もしこのボタンを押せば、地球が跡形もなく吹っ飛んで、目の前の怪獣ごと、この世界は終わるのではないだろうか。
怪獣が迫り来る中。
有りもしないはずの夢想をして。
おれは、ボタンを押した。
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