第2話
俺の姿に気付くと、彼女はぎょっとしたように目を見開き、ふいと顔を背けた。そのままこちらに背を向けて、来た道を引き返そうとする。
俺など眼中にないかのような態度に何となく苛立ちを覚えて、思わず「リリー!」と声を上げていた。彼女の知り合いも歩いているだろう道の真ん中で、名前を呼ばれたにもかかわらず無視するような真似は、礼を欠くことを好まない彼女には出来ないだろう。
狙い通り、リリーは渋々といった様子で立ち止まって振り返った。その目の前まで歩み寄って、にこりと微笑んでみせる。
「元気だったか?」
「一昨日も訊かれたわ。暇なのね」
王都から徒歩で辿り着ける隣町とはいえ、馬や馬車でも使わなければ、そう頻繁に来られるような距離でもない。暗にそのことを言っているのだろう、責めるような険のある口調に対し、俺は誤魔化すように肩をすくめた。
「リリーに早く会いたくて頑張ったんだ。褒めてくれ」
「どうして私があなたを褒めなければいけないの」
実際、与えられる政務を早く片付けないことには彼女に会いに来る時間も取れないのだから、頑張ったのは事実である。しかし返ってきたのは、期待とは逆の答えだった。割に合わないと思うものの、怒りは湧いてこない。普段なら粗雑な扱いには当然腹が立つのだが、彼女にだけは何を言われようと、その全てを愛おしく感じた。
「それと、その名前で呼ばないで。何度も言ったはずよ」
「何故? 愛称だろう。いい名だと思うが」
彼女の立ち居振る舞いは平民とは思えないほどに上品で、凛としていて、隙がない。
「だから言っているの。あなたに愛称で呼ばれる道理はないわ」
「いずれ妻になる女性を愛称で呼ぶのは当たり前だろう?」
言った瞬間、彼女の視線が鋭さを増して肌に突き刺さった。「誰が」と、絞り出すような声が耳に届く。
「その話は、何度も断ったはずでしょう……!」
「君が受け入れてくれるまで、何度だって言うさ」
「そんな日は絶対に来ないわ」
ほとんど間を置かず、リリーはぴしゃりと言い放った。
「大体、どうして私なの? 王族なら、相手の女性なんて選び放題のはずよ。社交界にはもっと綺麗で、育ちも家柄も良くて、あなたに従順なご令嬢がたくさんいるでしょう」
「君より美しい人など見たことがない」
答えれば、不快そうな嘆息が返ってくる。しかし、それは事実だった。絹糸のような癖のない黒髪は絡まることなく背中に流れ、彼女の白い肌によく映える。深い青の瞳は透き通っていて、まるで宝石のようだった。
貴族の女が美しいのは金をかけて着飾っているおかげであって、彼女たち自身のものではない。従順なのは俺に対してではなく、俺の地位と金、あるいは顔に対してである。リリーは容姿もそうだが、何よりも心が美しい。育ちや家柄など関係ない。……もっとも、俺の持つものにまるで見向きもされないのは、それはそれで悔しいのだが。
「君こそ、何故そうも頑なに拒むんだ? 悪い話ではないだろう。リリーにも、君の弟や妹にも不自由はさせない。欲しいものがあれば何だって手に入れるし、望むことは全て叶えてやる。絶対に幸せにする」
「……あなたは、私たちが不幸だと思っているの?」
「そこまでは言っていないが……君のような美しい女性が、あんな狭い家に住んで、毎日必死に働く必要はない」
言った瞬間、彼女はすっと目を細めた。「そう」と呟く声は今までより一段と冷え切っていて、何か相当にまずいことを言ってしまったのだと気付く。けれど何が悪かったのかは分からず、戸惑い混じりに小さく首を傾げた。すると、リリーの表情はますます険しくなる。
「あなた、本当に何も分かっていないのね」
「え?」
説明を求めて彼女を見るも、リリーはもう話をする気はないとばかりに俺の横を通り過ぎ、そのまま立ち去ろうとした。慌てて振り返ったものの、呼び止める前に「ついてこないで」と言葉が飛んでくる。
「帰るわ。話していても時間の無駄だもの」
「っ、……そうか、気を付けて。また会いに来るよ」
去っていく背に声をかけても、返事は返ってこなかった。いつぞやのように「もう二度と会いたくない」などと言われなかっただけ、今日はまだいい方なのかもしれない。心に溜まった色々なものを吐き出すように深く息を吐いて、俺は辺りを見回す。リリーは気付いていなかったようだが、彼女と初めて出会ったのがこの道だった。角を曲がったところで、リリーが俺にぶつかってきたのだ。……気付いていないのではなく、彼女にとってはそれも、覚えている価値もないことなのかもしれないが。
穏やかな色を帯びた青い瞳に、あのとき一瞬だけ灯った射抜くような光が、一ヶ月経った今も頭から離れない。
何もないつまらないところだと思っていた隣町で、思わぬ拾いものをしたものだと、そう悠長に構えていられたのは最初のうちだけだった。何度通い詰めて、どんな言葉で口説いても、彼女は決して首を縦に振らない。それどころか、会いに来るたびに彼女の態度は硬化しているように思えた。
「何も分かっていない……か」
リリーが別れ際に放ったその一言は、しこりのように胸の奥に留まっている。確かに、彼女の言う通りだった。俺はリリーのことを――この町に住むリリアナ・リシュカという女性のことを、ほとんど知らない。
何が好きで、何が嫌いなのか。どうして両親がいないのか。どうして弟妹にあれほど心を砕いているのか。何故俺を拒むのかと問うておきながら、それ以外のことは知ろうとすら考えなかったことに、今更気付いた。
もっとも、それは彼女も同じだろう。俺が王族であるのはさすがに名乗った時点で気付いたようだが、それ以外のことはリリーだって何も知らないはずだ。そういったことは、本当なら互いに打ち解ける中で、ゆっくり知っていくものだろう。だが、俺とリリーがそこに至るまでには気が遠くなるような時間がかかるだろうと、嫌でも分かっている。
俺は、彼女が俺を遠ざける理由を知りたかった。知りたいと、そう思ってしまった。
そのための手段を、俺は持っていた。
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