第3話
「……リリーに会いたい」
二週間も彼女の元を訪れないなど、出会ってから初めてのことだ。与えられた執務室に誰もいないのをいいことに、俺は深く息を吐く。一日会わないだけでもどうにかなりそうだというのに、この状態がいつまで続くかも分からないなど耐えられない。
だが、次に彼女に会いに行くのは、部下に調べさせている彼女の事情について、その結果が出てからにしようと決めていた。二週間はあの部下にしては時間がかかりすぎではないかと思うが、流石にそろそろ彼女のところに行けるだろう。
それにしても、と目の前にうず高く積まれた紙の山を見る。どうせ中身に変わりはないのだから一枚に纏めてしまえば楽なものを、と随分前から思っていた。そこに記されているのは王族や貴族に逆らった異端どもの名前で、俺が署名すれば、それで奴らの処刑に許可を出したことになる。最終決定権を持つと言えば聞こえはいいが、つまるところ、ただそれだけだった。
現王の甥にあたる俺は、確かに王族ではあるのだが、王位を継ぐ権利は持たない。基本的に王の嫡出子にしか継承権を与えられないこの国では、俺がその座を手にすることなど、余程のことがない限り起こりえないのだ。その代わりとばかりに、傍系の王族は十五で成人すると同時に、国政の一部を王から任せられる。俺の場合、それがこれだった。
コンコン、と扉を叩く音が響く。「殿下」と呼びかけてきたのは、聞き慣れた部下の声だった。
「先日の、平民の娘について調べろというご命令についてですが」
「……入れ」
「失礼いたします」
入ってきた部下は普段通りの無表情で俺の前に跪き、頭を下げる。挨拶はいい、と俺は座ったまま彼を見下ろした。
「お前にしては時間がかかったな。報告は?」
「リリアナ・リシュカは六年前に両親を亡くし、弟二人と妹一人を連れてあの町に移り住んだようです。当初は食事処で働いていましたが、三か月ほど前からその近所の仕立屋に雇われていますね。彼女が辞めたあとは、上の弟であるカレル・リシュカが同じ食事処で働き始めました。下の弟のアランと妹のヴィオラはまだ子供ですね」
「続けろ」
そこまでは知っている。リリーは俺に家族のことを話そうとはしないが、彼女の知人に聞けば彼女を褒める言葉と共に、その程度の情報は得られた。
上の弟はとても頭が良く、高等学院を目指して勉強していること。下の弟はやんちゃだが、姉や兄によく懐いていること。末の妹は人見知りがあるが、姉に似た優しい子供であること。もっとも、その彼らも町に来る以前のリリーのことは何も知らないようだったから、俺はこんな面倒なことをしているのだが。
一旦口を閉じた部下は、わずかな沈黙を挟んで、「殿下は」と言葉を続けた。
「リシュカ商会をご存知ですか」
「いや。……それが彼女の生家か?」
聞いたことはなかったが、それならばリリーの平民離れした上品さも納得出来た。両親が死ぬまでは商家の娘として、それなりに裕福な暮らしを送っていたのだろう。俺の問いに、部下は「はい」と目を細める。
……何故か、馬鹿にされているような不快さを感じた。
「彼女の父親がその会長でしたが、顧客の貴族に逆らったため夫婦ともに捕らえられ、反逆者としてそのまま処刑されております。残った商会は、現在は王家の管理下にございますね。もちろん、名目上は別の者が会長を継いでおりますが」
「……処刑?」
頭を思い切り殴られたかのように、一瞬だけ思考が止まった。
彼女の両親が命を落としたのは、六年前だ。俺が成人して今の地位に就いたのは七年ほど前のことで、それ以降の罪人の処刑は全て俺に決定権があって、それは、つまり。
「俺が、……リリーの両親を、殺したのか」
「国に逆らうような異端には当然の報いでしょう。殿下は許可なさっただけです。陛下より与えられた政務を、ご立派に遂行なされただけかと」
「それを殺したと言うのだろう!」
必死に記憶を辿っても、そもそも処刑された人間の名前など、一人も覚えていないのだ。かつて、十五になったばかりの俺に、周囲は署名することだけが俺の仕事だと言い聞かせた。
大罪を犯した、生きる価値もない反逆者どもを、高貴な血を引くあなたが気にかける必要などないのだと。その言葉を鵜呑みにして……頑張れば王太子である従兄ばかりを見ている奴らに少しは認められるだろうと信じて、ひたすら政務にのめり込んできた。
一日に一枚でも多く、一枚でも早く片づけられるように。だから、そこに書かれた名前も、罪状も、見ようとすらしなかった。当然、処刑に立ち会おうなどと思ったこともない。
脇によけた書類の束を呆然と見やって、更に無視出来ない事実に気付いてしまう。
そこに記されているのも全て、処刑を待つばかりの罪人だった。単独犯でも集団で仕組んだときでも変わらず、必ず一枚につき一人。もちろん日によって量は違うが、一枚や二枚でその日の仕事が終わったことはない。……あまりに、多すぎやしないか。
「彼女の両親は、本当に殺されなければならないほどの大罪を犯したのか?」
リリーは心優しい少女だ。俺に対しては徹底的に冷たいが、弟や妹のことを何より大切に想っているのは知っている。彼女をそういう人間に育てた両親が、そう簡単に罪に手を染めるとは考えられなかった。だがそんな疑問に、部下は淡々と返す。
「不敬は重罪です。加えて、あの娘の父親は有能すぎました。爵位も持たない異国出身の平民にも関わらず、いずれは貴族を超える財を得たことでしょう。平民たちを驕らせる可能性は、芽のうちに摘み取っておかなければなりません」
「何故、……王族や貴族にとって都合が悪いから、か?」
「殿下が知る必要はないことです」
「ふざけるな!」
その言葉が、何よりの答えだった。思わず机に拳を叩きつける。横に積まれた紙が数枚、はらはらと宙を舞って床に落ちた。それでも顔色一つ変えない部下の様子が腹立たしくて、じんじんと痛む手に力を込める。
「それでは、まるで俺は……この国は」
「お言葉を慎んでくださいませ、殿下」
俺の言葉を遮るように、部下がぴしゃりと言い放った。こちらを見るその目は道具か何かを見ているようで、心臓が鷲掴みにされたかのように脈打つ。思えば俺に『仕事』を持ってくる人間は、言葉だけは俺を敬うものでも、みんな似たような目をしていた。
「それ以上我が王を侮辱なさるようなことを仰るのならば、陛下にご報告申し上げなければなりません」
脅すようなその口調に、思わず息を呑む。
俺の今の地位も、権利も、……生活を取り巻く全てが、伯父によって与えられたものだった。それを何もかも失うなど耐えられない。俺の勢いが失せたのに気付いたのだろう、部下は「そうです」と満足げに頷いた。
「殿下は何もお考えにならず、ただ国王陛下がお任せになったご政務をなさればいいのです。あなたが王族でいらっしゃる限り、殿下にとってご都合の悪いことなど何もないのですから」
「っ、……リリーは」
その話はもう終わりだ、という意味も込めて、俺は再び彼女の名を出す。それは俺にとって降伏宣言にも等しかったのだが、言い返す言葉などもう浮かばなかった。
「リシュカ夫妻の子供たちは、何故逃げられた? 親が処刑されたら、子供たちは王族の監視下にある孤児院に入れられるか、あるいは親と共に処刑されるかだろう」
「はい。あの子供たちも当初は孤児院に入れられる予定でしたが、夫妻の子供は全員、処刑の直後に死んだことになっておりました」
「城内の誰かが手引きした、ということか」
それもかなり地位が高い人間か、あるいは当時俺の下にいた者が。俺の言葉に、部下は「恐らくは」と頷く。
「直接の面識はございませんが、二年ほど前に死んだ私の前任者がそうではないかと考えられます。リシュカ夫妻の処刑に関する書類を作成し、殿下にお渡ししたのが彼でした」
「そうか。……死んだのでは理由も訊けないな」
もしやあれも死んだのではなく殺されたのか、と今になって思うが、気付いたところで俺にはどうしようもない。「報告は終わりか?」と視線を向ければ、部下は黙って頷いた。
「ご苦労だった。下がっていいぞ」
「これではっきりいたしましたね、殿下」
しかし彼は退室せず、そんな言葉を返してきた。何のことか分からず、思わず眉をひそめる。部下は静かに立ち上がり、続けた。
「平民の娘など殿下には相応しくないと思っておりましたが、異端の娘ならばなおさらでしょう。これを機に縁を切ってはいかがです?」
そればかりは簡単に頷けることではなくて、黙って睨み返す。部下は呆れたようにわざとらしく嘆息すると、「失礼いたします」と言い残して部屋を出ていった。
「くそ……っ!」
足音が聞こえなくなったところで、再び机に拳を打ちつける。ダンッ、と先ほどよりも少しばかり大きな音が響いた。
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