第9話

「姉さん」


 小さく囁いても、返事が返ってくることはない。今は落ち着いているものの、一時は生死の境を彷徨った姉の容体は、いつまた急変してもおかしくないと医者に言われていた。

 このまま目を覚まさないようならそのときは覚悟するようにと、悲しげな顔で忠告されてから、もう二日が経つ。……冗談じゃない。これ以上、家族を喪って堪るものか。そう思っても、僕は知識のないただの子供に過ぎず、出来ることはないに等しかった。周囲にいくら優秀だと言われても、大切な人を誰も守れないのなら、そこに何の意味があるだろう。


 姉さんは重い病にかかっていて部屋から出られないのだ、というあの男の妄言は、最初から信じてはいなかった。それにしては屋敷の人たちの振る舞いは不自然だったし、本当に病にかかっているのなら、家族である僕たちが会わせてもらえない方がおかしい。そもそもあの男は王族で、僕たちから両親を奪った憎い仇で、そのくせずっと姉さんに付き纏っていた、身の程知らずの恥知らずだ。

 あの日、反乱に手を貸していたはずの姉が助かった理由も、僕たちがここに連れて来られた理由も、少し考えれば分かる。それでも――僕たちは姉さんに対する人質なのだと気付いても、逃げることは出来なかった。王族の屋敷らしい厳重な警備を単身で潜り抜けることは不可能だし、幼いアランやヴィーを連れて逃げるのはもっと無茶だ。そもそも、姉さんを一人敵地に残して、僕たちだけ逃げるなんて嫌だ。


 姉さんが僕らの自由を望んだのなら、せめてその想いを無駄にしてはいけない。彼女が僕にそうあってほしいと望んだ通りに勉学に励んで、教えてくれるというのなら作法や貴族然とした振る舞い方も身に着ける。

 そうやって磨いた刃で、いつかあの男から全て奪い返すのだと、そう思っていた。


「……勉強、しないと」


 足りない、全然足りない。姉の優しさに甘えて、彼女の置かれた状況から目を逸らして、好きなだけ好きな勉強が出来る「今」を楽しんでいただけじゃないか。

 選り好みして、悠長に構えている暇は、僕にはなかったのに。医学とか薬学とか、とにかく役に立ちそうなことは、片っ端から覚えないといけなかったのに。

 一か月前に顔を合わせたとき、姉さんは前より痩せていた。顔色だって悪かった。

 両親を喪ってから滅多に体調を崩すことのなかった姉が今こうして臥しているのは、もしかしたらそのせいなのかもしれない。守ろうとしていた家族から引き離されて、会うどころか部屋から出ることすら許されない状況が……そうしているうちに幼い弟をも亡くしたことが、彼女の心にどれほどの負担をかけたのだろう。


 あの男の部屋と繋がる扉には、今は鍵がかかっていた。もちろんあちらからかけた鍵などいつでも開けられてしまうから、扉の前に家具を移動して、扉自体が開かないようにしてある。

 残った廊下側の扉を、不意に誰かが叩いた。カレル、と僕を呼ぶのは、この屋敷で一番聞きたくない声である。溜息を吐いて立ち上がり、扉を開けてその人を睨んだ。


「何の用ですか、エドさん。姉さんなら――」

「ち、違う! その……君に、話があってきたんだ、カレル」

「僕に?」


 こちらには話すことなど何もない、そう言って追い返してしまおうか。一瞬だけそう思ったものの、僕は深く嘆息して彼を部屋に招き入れる。

 促されるままに椅子にかけ、その人は辛そうに姉さんを見た。けれど僕の視線に気付くと、責められるとでも思ったのか、すっとその視線を逸らす。そんな彼の対面に座り、「何の用ですか?」と繰り返した。


「俺は、君に……いや、君たちに、謝ら」

「ああ」


 そういう話ですか、とその言葉を遮る。


 あれ以来、この人は初めて直接触れた死というものに、すっかり萎縮しているようだった。……当然の報いだろう。署名一つで人を殺せる立場にありながら、刑場に足を運んだことすらなかったのだから。今更彼が自らの犯した罪の重さを知って悔いたところで、両親もアランも帰ってこない。

 とはいえ、僕も人のことは言えなかった。だってあの日、僕は逃げたのだ。血を流して倒れている弟の姿が、幼い頃に見た両親の最期と重なって……恐ろしくなって、全てエドさんに押し付けた。その後悔は当然、目の前の男が感じているものとはまるで違う。彼のことは今でも憎いし、恨んでもいるけれど、それでも彼を問答無用で追い返すことは出来なかった。


「その言葉は、まず姉さんに言ってください。僕ではなく」

「……だが、リリーは」

「エドさん」


 すっと目を細めれば、彼は青い顔で口を噤む。その言葉だけは、どうしても聞き流せなかった。

 そんなわけがない。きっと姉は目を覚ます。そう自分に言い聞かせるように唇を噛んで、じわりとした痛みに少しだけ安心する。


「もし姉さんにまで何かあったら、僕は絶対に、あなたを許さない」


 刺すように呟いたその言葉に、その人はただ項垂れるばかりで、何も返してはこなかった。

 やはりアランの死は、彼の心境にも大きな変化を与えたのだろう。少し前までの彼なら、アランのことに関しては事故だったとか、自分のせいではないだとか、色々と言い訳していたのだろうと思う。

 けれどあれは、この屋敷に来なければとかそういう間接的なものではなく、エドさんが引き起こした悲劇だった。


 だってアランは数日前に、この人の部下と会っていたのだ。『事故』のあとで僕にそれを教えてくれたヴィーは、話の詳細までは覚えていなかったけれど、出入り禁止の部屋の窓から屋根に出られることを、アランとヴィーに教えたのはその人らしい。

 ……もし、屋根を伝えば姉に会えると入れ知恵されたのだとしたら、アランならやるだろう。それならあのとき、屋根の上で何かを探すような素振りを見せていたことにも納得がいく。元々やんちゃで好奇心が強くて、ああいう危ないことをあまり怖がらない性格だし、あの子もずっと姉さんに会いたがっていたから。

 エドさんの部下……その中でも特に高い地位にいるというその人とは、何度か顔を合わせた程度だけれど、僕たちのことをあまりよく思っていないのは何となく感じていた。

 主の屋敷を平民の子供が我が物顔でうろついているのは、選民意識の強い権力者たちには我慢出来なかったのか。いや、エドさんの部下なのだから、もしかしたら僕たちが処刑された反逆者の子であることも知っているのかもしれない。異端の娘を、よりによってその処刑に関わる王族が囲っている現状は、確かに好ましくはないだろう。


 その推測を、彼自身に告げるつもりはなかった。

 この人が国王の傀儡に過ぎないのは、彼の人となりをよく観察していれば分かる。彼の部下たちが忠誠を誓っているのも王であり、彼が真実を知ったところで、出来ることなど何もないのだ。それどころか、もっと悪い事態になるかもしれない。例えば王の言うことを聞かなくなった彼がその権力を全て失えば、僕たちだけじゃない、この屋敷の人たちがみんな路頭に迷うことになる。彼はともかく、他の貴族のようなひどい扱いをしないからとエドさんを慕い、彼に言われた通り僕たちにも良くしてくれる屋敷の人たちまで不幸になるのは嫌だった。


 カレル、とその人は力なく僕を呼ぶ。首を傾げれば、彼はわずかに苦い笑みを浮かべて僕を見た。


「君は、泣かないのだな。俺にこんなことを言う資格はないのだろうが……君にとっても、アランは大事な弟だろう」

「……姉さんは、泣かなかったんだ」


 哀しくないのか、という遠回しな問いに、僕は目を伏せて呟く。

 哀しくないわけがない。ずっと一緒に過ごして、守ろうと気にかけてきた大切な弟だったのは、僕にとっても同じだ。胸が張り裂けそうなくらい痛いし、同じくらい悔しかった。僕がしっかりしていれば、もしかしたら守れたのかもしれないのだから。

 けれど、と遠い日の悪夢に思いを馳せる。


「あのとき、姉さんは一滴も涙を零さなかった」


 僕は大泣きしていた。両親が怖い大人に殺されるのを目の前で見て、幼かった僕にもそれがどういうことかは分かってしまって、姉に縋って泣いていた。

 けれど姉さんは、生まれたばかりだったヴィーと訳も分からず泣いているアランを両腕に抱いて、真っ直ぐに両親を見ていた。哀しみを湛えた瞳から雫が落ちることはなく、あのときの僕には意味が分からなかった、強い決意の色も携えて。


「アランを見たときの姉さんは、泣いていたのでしょう。だったらもう、僕は泣けない」

「そうか」


 あのとき、としか言わなくても、両親が処刑されたときのことを話しているのは分かったのだろう。小さな首肯と、すまない、と呟く声が返ってきた。

 話はどうやらそれだけのようだったけれど、彼は部屋を出ていくわけでもなく、沈痛な面差しで姉を見ては目を逸らす。う、と小さく呻くような声が耳に届いたのは、そんなときだった。


「姉さん!」

「……カレ、ル?」


 慌てて駆け寄れば、虚ろに宙を彷徨っていた瞳に光が灯る。しかし僕の方を見る姉は、訝しげな表情を浮かべていた。


「私、何を……ここは?」

「覚えていないの?」


 思わず目を瞬かせれば、姉さんは不安げに頷く。おぼつかない視線が、記憶を手繰るように宙を彷徨った。


「何か、とても哀しいことがあったような気が……そうよ、アランが、あの子がお父さんとお母さんのところに、……いえ、でも、三人ともどうして、……あら、ねえ、カレル」


 そこで初めて気付いたかのように、姉はエドさんに視線を向けた。振り返れば、僕の後ろで立ち上がったまま固まっていた彼はびくりと肩を震わせる。


 ……おかしい。彼女がそんな表情をこの男に向けるなんて、ありえないはずだった。僕の疑問を肯定するように、姉さんは困ったように首を傾げて、その言葉を放つ。


「その方は、どなた?」


 これは好機だ、と思った。決して逃すまい、と。

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