第10話
「この人は……アランが事故に遭ってから、お世話になっている人だよ」
カレルの口から出たのは、思いもよらぬ言葉だった。小さく息を呑むが、二人がこちらを気にする様子はない。答えを聞いて、リリーはわずかに眉をひそめた。
「事故? ……あの、カレル、分からないの。お父さんとお母さんが死んでしまったのは覚えているのよ。アランのことも。ただ、三人がどうして逝ってしまったのか……六年前からの記憶が、どうしてだか朧げで。この二ヶ月くらいのことなんて、何も覚えていなくて」
「父さんと母さんは病気で……アランは、さっきも言ったけれど、二か月前に事故に遭ったんだ。その事故にこの人も少し関係していたから、厚意で面倒を見てくれることになったんだけど、アランは怪我が酷くて二日前に……。ずっと看病していた疲れもあったんだろうね、姉さんもその直後に高熱を出して倒れて、今まで目を覚まさなかったんだ」
すらすらとカレルの口から紡がれたのは、ほんのわずかな真実を嘘の中に巧みに織り交ぜた作り話である。しかしどうやらところどころ記憶が欠けているらしい彼女は、それをあっさり信じたようだった。
「……そう、なの? それじゃあ、思い出せないのは、熱のせいかしら」
「そうだと思う。でも、目を覚ましてくれて本当に良かった。大丈夫? 他におかしなところはない?」
「少し体が重いけれど……平気よ」
小さく微笑んだリリーは、そのままの表情を俺に向ける。
あれほど焦がれていたそれに、しかし身勝手にも、違う、と思ってしまった。俺が欲しかったのは、そんな遠慮がちな、他人に向けるような笑顔ではない。
「あの、助けてくださったのですよね。ありがとうございます。ごめんなさい、私、何も覚えていなくて……」
……本当に、勝手なものだ。見ず知らずの他人に成り下がるくらいなら、憎まれている方が良かったなど。俺だけに向けられていた、あの射抜くような鋭い視線を、恋しく思うなど。
苦い思いを振り払って、俺は無理やり「いや、気にしなくていい」と笑みを浮かべた。
「君もまだ昏睡状態から目覚めたばかりで、本調子ではないだろう。難しいことは考えず、まずはゆっくり休んでくれ。何か欲しいものがあれば、遠慮なく侍女に言うように。……カレル、少し話がある。来てくれるか」
「はい、もちろん」
なるべく平静を装って声をかければ、二日ぶりに見る冷たい微笑が返ってくる。「またあとでね、姉さん」と優しく笑いかけて、少年は俺の後について部屋を出た。
自室はすぐ隣だが、万が一にも彼女に話し声が聞こえてはならない。そう思ってしばらく歩き、適当な部屋に入る。椅子に腰をかけるまで、互いに一言も発さなかった。
「……カレル、今のは」
「あなたのためじゃない」
長い沈黙に耐え切れず、絞り出すように口を開けば、少年は容赦なくその言葉を遮る。姉の前では見事に隠されていた動揺が、ようやく露わになっていた。
「姉さんにはああ言ったけれど、本当に熱のせいかどうかは、僕には分からないんだ。あまりにも辛いことばかりが続いたから、全て忘れたいと願って、無意識に心を閉ざしたのかもしれない。このままずっと忘れたままなのか、それともいつか、何かのきっかけで全てを思い出してしまうのかもわからない」
「心を……閉ざした? そんなことがありえるのか」
「本で読んだことがある。……どちらにしろ、僕にとっても賭けだったんだ。熱のせいで混乱しているだけなら、あの話の最中に全て思い出してもおかしくはなかったから」
でもそうはならなかった、と、彼はどこか満足気に少しだけ頬を緩める。
「エドさん、僕はこれ以上姉さんの心を壊さないために、あなたを庇ったんだ。あなたがそれを利用して姉さんに近付こうとでもしたら……」
「全てリリーに話す、とでも言いたいのか」
「まさか。それじゃあ嘘を吐いた意味がないでしょう。……その前に、刺し違えてでも殺す、くらいはするかな」
穏やかな口調で紡がれた物騒な言葉に、俺は思わず息を呑んだ。「正気か?」と訊ねるも、彼は笑顔を崩さない。その瞳に、冷たい光を宿したまま。
「まだヴィーがいるから、姉さんは独りにはならないよ。事故を装えば今回ほど傷つくこともないはず。……まあ、あなたが姉さんを愛しているという言葉は嘘ではないのだろうし、今回のことであなたも少しは思い知っただろうし、死ぬのも嫌だろうから、そういう事態にはならないことを祈っているけれど」
「……ああ。流石に、そこまで恥知らずではない」
「あなたの言葉は信用出来ない」
歯を食いしばる俺に対し、カレルはさらりと返してきた。当然だろう、俺はずっと彼らに嘘ばかり吐いてきたし、守るという言葉すらも、結果的に嘘になったのだから。
苦い思いを噛み締めて、「それでも」と深く息を吐く。
「君たちの生活については、今後も責任を持って面倒を見る。この二ヶ月と同じように自由に過ごしてくれて構わないし、必要なものがあったら遠慮なく言ってほしい。リリーも……体調が回復したら、今度は好きに出歩けるようにする。必要がなければ近付かない」
「……まあ、今の僕はそれに頷くしかないよね」
不満気に目を細め、彼は唐突に立ち上がる。
そのまま扉に向かうカレルに「どこに行く?」という問いかければ、少年は「姉さんのところ」と微笑んだ。
「もう話は終わりでしょう? ……そういうわけだから、これからもよろしくお願いしますね、エドさん」
言い返す言葉も見つからず、出ていく彼を黙って見送る。足音が遠ざかったところで、俺は椅子に体重を全て預け、天井を見上げた。心中に渦巻くものを全て吐き切るように嘆息しても、全く気は晴れない。
忘れたいと願って心を閉ざした、とカレルの仮説がその通りであるならば、リリーは恐らく、俺に関することを全て忘れてしまったのだ。両親の死因も、この二か月のことすらも覚えていないというのは、恐らくそういうことなのだろう。カレルにあんな言い方をされては、俺が犯した罪の全てを打ち明けて許しを請うことも、最早叶わない。
彼は分かっていたのだろうか。考えるまでもない、あの賢い少年は、全て承知した上であんなことを言ったのだ。彼は姉と同じくらい……いや、もしかしたら姉以上に、俺のことを憎んでいる。だから、俺が少しでも罪悪感から逃げて、楽になることを許さなかった。
リリーに対する俺の行いが、態度が、どれだけ彼女を傷つけてきただろう。
ようやく自分の愚かさを知った。知らなかった、という言葉は、想像以上に重いものだった。それなのに、今のリリーは何も覚えていない。何も伝えるな、と彼女の弟は言う。
償うことすら許されなくなった罪を背負ったまま、俺は生きなければならないのだ。
いつか来るかも分からない、彼女が全てを思い出すそのときに怯えながら。
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