第8話
明るいうちに屋敷に帰れるのは珍しい。いつものようにリリーの部屋に訪れたものの、彼女に会うことは出来なかった。
彼女につけている侍女曰く、朝から体調が優れないようだ、と。リリーは俺を通すなとは言わなかったらしいが、侍女がそれを許さなかった。理由を問えば、厳しい言葉が返ってくる。
「旦那様はお仕えする相手としては素晴らしい方でございますが、リリアナ様に対するご仕打ちはあまりにも……お食事もあまり召し上がってくださいませんし、部屋に籠って読書をされるばかりでは、気が滅入るのも当然でしょう。その上、弱っているときにまでその原因となった方とお顔を合わせなければならないなど、リリアナ様がお気の毒です」
「……無礼を許すとは言ったが、随分はっきり言うのだな」
この屋敷に長く仕えていて、信頼が置けるからとリリーにつけた侍女は、今ではすっかり彼女を主人として認めているらしい。この屋敷の人間であっても、俺以外に対しては素の優しさを見せるらしい彼女は、他の使用人たちからも概ね好意的に受け入れられているようだった。もっとも、部屋から出ないリリーと会ったことのある者は少ないのだが。
侍女の言葉は全て正しい。俺と顔を合わせて言葉を交わすという行為、それそのものが彼女の負担になっているのは、悔しいが恐らくその通りなのである。
望むことは叶えると言っておきながら、彼女がやりたいと言った裁縫を針や鋏を使うからという理由で禁じたのは俺だし、決して部屋から出さないように周りの人間に命じたのも俺だった。……だがそれでも、外の人間も訪れる屋敷の中を自由に歩き回らせることは出来ないし、刃物を与えるのも恐ろしい。
軽く嘆息して、俺は顔を上げた。
「医者は? 呼んだのか」
「いえ……疲れが出ただけかもしれないからと、リリアナ様が遠慮なさったので。明日になっても回復なさらないようなら、無理にでも診ていただきますが」
「朝から休んでいて、今も治る様子はないのだろう? 呼んでおくから、今日のうちに医者に診せるように。……それと、俺はしばらく部屋には来ないからゆっくり休むようにと、リリーに伝えてくれ」
苦い顔でそう言えば、侍女は驚いたように一瞬だけ目を瞬く。すぐにいつもの調子を取り戻して「かしこまりました」と頭を下げる彼女に背を向けて、俺はリリーの部屋を後にした。
今までは数日に一度帰るかどうかだった自分の屋敷に、無理をしてでも毎日帰るようになったのは、言うまでもなくリリーに会うためである。しかし部屋に足を運べば運ぶほど、彼女は俺を拒絶した。
部屋に来るなと言われたことはないし、触れた手を振り払われたりもしない。だがそれは、リリーの言葉を借りるなら「逆らわないと約束したから」であって、俺の姿を見るのも嫌だとその表情が語っていた。
いっそ無理やり押し倒してしまえばと何度も考えたが、そんなことをすれば本当に、彼女は心を閉ざしてしまうだろう。それでは意味がないのだ。彼女がその弟や妹に対して向けていたあの柔らかい微笑を、俺の前でも見せてほしい。
自分たちを助けて匿うことが出来るのなら、どうして六年前にそれをしてくれなかったのか。そうリリーが零したのは、ここに来たばかりの頃だった。
彼女の言葉は正しい、と今なら思う。彼女の愛を求めるなら、俺は反乱に加担した者たちの処刑に許可を出すべきではなかったし、そもそもリリーの両親のときにそうしているべきだった。
頭では分かっていても、六年前……もうすぐ七年になるが、あの頃の俺は本当に、周りの言いなりになるしかない子供だったのだ。そして今は、彼らを助けるわけにはいかなかった事情がある。
彼女を助けられたのは、単に運が良かったからだ。もし彼女があのとき、ここ以外の屋敷や王城の方に行っていたら、俺は唯一愛した女性までも見捨てなければいけなかったのだろう。
リリーが反乱に加担していたことを知っているのは、本人を除けば俺だけだった。あの日見張りをしていた者たちは……ここ以外の屋敷でも、侵入を許した者はみんな職を解かれ、国の辺境の警備に飛ばされているから、彼らから情報が漏れることはまずないだろう。俺が、以前から目をつけていた平民の娘を囲っただけだと思われているから、彼女は見逃されているのだ。
それを知られれば逃げられてしまいそうだからあえて勘違いさせているが、実は彼女が外に出たところで、何も問題はない。彼女は罪など犯していないことになっているのだから。
だが、反逆者として捕まった彼女の仲間たちはそうではない。国への叛意を抱いて城や王族を攻撃した事実は、もう変えられない。
俺の持つものは――この屋敷も権力も、全てが伯父である王によって与えられたもので、俺がその地位に相応しくないと判断されれば、いつ剥奪されてもおかしくないものだった。王や他の王族にとって不都合なことをすれば、俺ではなく国王に忠誠を誓う部下たちは、それをすぐにでも伯父に伝えるだろう。
奴らの思い通りに動かなければ、俺はリリーたちを守れない。だから、反逆者の処刑に異を唱えるなんて、絶対にしてはいけないことだった。
姉とは対称的にその弟妹たち、特に下の二人は、俺に懐いてくれている。一度顔を合わせたことを覚えていてくれたのだろう、アランもヴィオラも、会いに行くたびに嬉しそうにその日あったことを話してくれた。俺にも兄弟は何人かいるが、いずれも仲がいいとはとても言えないような関係だから、そうやってきらきらした目で見上げられるのは新鮮で、けれど慕われるのは嫌ではない。彼らの面倒を見ると約束したこともあって、あの子たちのところにも頻繁に訪れるようにしていた。
ヴィオラは部屋で眠っていると帰ったときに聞いたが、アランは屋敷のどこかで遊んでいるようだから、探せば見つけられるだろう。
少し迷ったものの、暗い気分のまま顔を合わせれば子供相手だろうと愚痴を吐いてしまいそうだったから、少し散歩でもしてこようと屋敷を出た。そこで、門の方から歩いてくる人影が視界に映る。向こうも俺に気付くと、訝しげに首を傾げた。
「今日は早いんですね、エドさん」
「カレルこそ、もう帰ったのか。出かけたと聞いていたが」
「僕はいつもこれくらいの時間ですよ。大した用事でもありませんし」
俺と話すとき、彼は穏やかに微笑んでいる。しかし姉と同じその青い瞳は、いつも冷たく俺を見据えていた。
……カレルは本当に、驚くほど賢い。彼につけた教師たちが、揃って手放しに褒めちぎるほどに。
きっと、この少年は気付いているのだろう。俺の犯した罪にも、姉がやろうとしていたことにも、俺が彼の姉にしていることにも、自分たちが厚遇されていることの意味にも。
それなのに何も言わず、顔を合わせるたびにこうして、形だけの笑顔で俺を見るのだ。喉元に刃を突きつけられているような気分になる。成人もしていない少年に苦手意識を抱くなんて我ながら情けないものだと思うが、カレルのことを何となく避けてしまうのは、それが理由だった。
「姉のところには行かないのですか?」
「行ったのだが、今日は体調が優れないらしい。念のため医者を呼ばせたから、そろそろ来るだろう」
「そうですか」
「心配ではないのか?」
予想よりもあっさりした反応に、俺は思わず眉をひそめる。対し、少年は微笑んだまま、その冷たい目をわずかに細めた。
「心配だと言ったら、会わせてくれるのですか?」
「……それは」
出来ない、という代わりに目を逸らす。
彼らに会ったところで、リリーがこの屋敷から逃げ出すことはないだろう。むしろ、頻繁に会って弟妹たちが幸せにしている姿を見るのは、彼女をここに繋ぎ留める鎖になるのかもしれない。
だが、会わせずにいればリリーは弟妹以外に目を向けるかもしれないと、……いつか俺を愛してくれるかもしれないと、思うのは傲慢なことなのか。そんな俺の心の内にまではさすがに気付いていないだろうが、それでも全てを見透かしたように、少年は「ほら」と薄く笑った。
「結局、一ヶ月前に会ったきりですし。急を要することでもない限り、言っても無駄なことなら、最初から――」
その言葉が、不意にぷつりと途切れる。疑問に思って顔を上げると、少年はその青い目を零れんばかりに見開いて、俺の後方を注視していた。
その視線を追うように振り返って、俺もまた息を呑む。頭を思い切り殴られたかのようなショックに、思わず呆然と呟いた。
「……アラン?」
他より少し低くなった屋根の上を、危なっかしく伝う小さな影。見紛うはずもない、リリーの、そしてカレルの弟である。
何故、という疑問が頭をよぎった。建物の構造上、あの屋根にはいくつかの部屋の窓から出られるようになっているが、幼い子供には危険だからと、そのいずれも出入りを禁じていたはずなのに。
何かを探すようにきょろきょろとしていた少年は、不意にこちらを振り返り、俺たちに気付くとびくりと肩を震わせる。
その拍子に足でも滑らせたのだろう、その体がぐらりと傾いだ。
危ない、と叫ぶ暇もない。
想像してしまった嫌な光景をそのままなぞるかのように、その体は宙に投げ出される。距離があるからだろう、耳に届いた音は驚くほどに小さかった。
カレルが小さく息を呑み、弾かれたように駆けていく。反射的に後を追えば、恐らく同じものを見ていたのだろう、使用人の悲鳴が聞こえる。
弟の前で立ち止まった彼は、無表情で俺を振り返り、静かに呟いた。
「アランを、部屋に連れていってもらえますか。……医者が近くに来てるって言ったよね、呼んでくる」
俺が頷くのを見て、カレルは来た道を再び駆け戻っていく。しかし彼のいたところへ、それ以上近寄ることは出来なかった。一歩だけ足を進めて、呆然とそれを見下ろす。
いつも元気に駆け回っている小さな体は、完全に脱力して横たわっていた。どこから流れ出たのかも分からない血が、じわりと地面に広がっていく。嘘だ、と呟いても、少年はぴくりとも動かない。
……医者を呼びに行くとカレルは言ったが、呼んだところでもう、何も出来ることはないのだろうと悟った。
「アラン?」
聞こえた声にハッと振り返れば、ここにいるはずのない女性が、息を切らして呆然と立っている。彼女につけていた侍女が、その後ろで静かに頭を下げた。
リリーの部屋からなら、もしあのときちょうど外を見ていたのなら、アランが落ちるところも見えてしまっただろう。なるほどだから連れてきたのかと、ぼんやり考えているうちに彼女は弟の元に駆け寄って、流れ出る血も気にせず膝をつく。アラン、と呼びかけるその声は震えていて、悲痛に響いた。
「ねえ、目を開けてアラン、どうして……お願い、連れていかないで、お父さん、お母さん!」
「……リリー」
「嘘吐き!」
遠慮がちにかけた声は、涙に濡れた声に掻き消される。研ぎ澄まされた刃のように、その言葉は鋭く突き刺さった。
「守ると、守ってくれると、約束したのに……その言葉だけは、信じていたのに! どうしてこの子を助けてくれなかったの! あなたは私から、どれだけのものを奪えば気が済むの!」
「リリー、違うんだ」
「嫌いよ、あなたなんか大嫌い! 何もかも取り上げておいて、愛しているなんて……愛してくれだなんて、よくも――」
ふつり、と糸が切れたように、リリーの体から力が抜ける。慌てて駆け寄れば、意識を失って倒れた彼女の体は燃えるように熱かった。
朝から体調が優れない、という言葉を思い出す。周囲に集まって遠巻きに見ていた使用人たちに部屋の用意を命じ、リリーを抱き上げて立ち上がれば、取り残されるように倒れたままのアランが目に入った。
いかがなさいますか、と訊ねてくる使用人の声が沈んでいるように感じるのは、恐らく気のせいではないのだろう。彼もまた、屋敷の者たちには可愛がられていたから。彼のことも別室に運ぶように指示して、俺は腕の中で浅い呼吸を繰り返すリリーを見下す。
「……知らなかったんだ、リリー」
死というものは、こんなにも重く、不条理なものであるのだと。
親しい人を喪うのは、こんなにも辛く、空虚な感情を伴うことなのだと。
彼女が俺を許さないと繰り返した、その理由すらも。
許してくれとも、愛してくれとも、もう言えなかった。
いつかリリーが言った通り、俺は本当に、何も分かっていなかったのだ。
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