第1話
「あら、リリーじゃないの!」
帰り道を歩いていると、背後から聞き慣れた声が私を呼び止めた。立ち止まって振り返り、予想通りの姿に微笑んでみせる。
「こんにちは、おばさま。お仕事は?」
「やだねえ、今日は買い出しの日じゃないの。もう店じまいだよ。あんたこそどうしたんだい、こんなところで。カレルが言ってたよ、今日は休みをもらったんだろ?」
「ええ、お墓参りの帰りなの」
両親の命日で、と付け足すと、人のいい彼女は「ああ、そうだったね」と痛ましそうに眉を下げた。この人は昔からそうだ。私の両親のことなど、私や弟の話でしか知らない他人の話のはずなのに、まるで自分のことのように悲しんでくれる。
「もう六年になるんだねぇ。辛かったろう、リリーだってまだ子供だったのに」
「確かに辛かったけれど、でもおばさまみたいな方に出会えたもの、悪いことばかりじゃなかったわ。あのときは助けてくださってありがとうございました」
両親が死んだあと、逃がされた私は幼かった弟妹たちを連れて、逃げるように王都を出た。辿り着いた王都の隣のこの町で、私に仕事をくれて、色々と面倒を見てくれたのがこの人である。彼女も似たような経緯でこの町にやってきたのだと噂で知ったのは、随分あとになってからのことだ。互いに面と向かって身の上を話したことはないけれど、恐らく私たちの纏っていた空気が、あるいは表情が、彼女には他人事に思えなかったのだろう。
当時の私は彼女の言う通り子供で、しかもそれなりに裕福で不自由のない暮らしを送っていた世間知らずだったから、彼女に出会わなければきっと路頭に迷っていただろう。改まって頭を下げれば、おばさまは「あら」と照れたように首を振る。
「困ったときはお互い様だろうに。そうだ、葡萄がたくさん手に入ってね、折角だからジャムを作ったんだ。少しカレルに持って帰らせたから、帰ったらみんなでお食べ」
「まあ、いいの? ありがとう。アランもヴィーも、きっととても喜ぶわ。あの子たち、おばさまの作ったものなら何でも好きなのよ」
彼女の仕事は、つまり私の前の職場は酒場である。夜になると店じまいする上、料理の方が主役なのだから食事処とでも呼ぶべきなのだろうけど、酒も出すんだから酒場だろう、と言い張るのはおばさま本人だった。
日中しか開けていない店が繁盛するわけは、彼女の料理の腕がとてもいいからに他ならない。それは当然ジャムなんかの加工食品にも言えることで、私が家で作ったところでおばさまの作ったものと同じ味にはならないのだ。作り方は彼女に教わったものだし、決して出来が悪いわけではないのだけれど。
「おや、じゃあ今度、あんたが休みのときにでもうちに連れておいで。とびっきりの料理をご馳走してあげるよ。カレルの働きっぷりも気になるだろ?」
どこかからかうようなその言葉に、「ええ、とても!」と顔を輝かせる。彼女の友人だという仕立屋の女主人を紹介され、そちらで働き始めたのは少し前のことだった。昔、雑談の中で私が零した、裁縫が好きだという言葉を覚えていてくれたのだろう。私が抜けた穴を埋めるように、今は上の弟が彼女の店で働いていた。
「真面目な子だから、お邪魔にはなっていないと思うのだけれど……」
「邪魔? とんでもない、よく働いてくれて助かってるよ。むしろあの子は、少し手を抜いてもいいくらいだね」
「……それは、私もそう思うわ」
四つ年下の弟は驚くほど頭のいい子で、高等学院に行ってきちんと勉強すれば、かなり優秀な成績を取れるだろう。そう提案したこともあるのだけれど、あの子は自分のために余計な金を使わせるのは申し訳ないと言って、頷きはしなかった。
ただ、学院へ通うこと自体を諦めたわけではないらしい。成績優秀者に与えられる学費免除の権利を狙って、仕事の合間に熱心に勉強しているのは知っている。そのくせ他のことにも手を抜かず真摯に取り組むものだから、いつか体を壊しやしないかと心配で堪らないのだ。
「それじゃあ、お言葉に甘えてそのうち伺うわ。カレルには内緒にしておいてくれる?」
「ああ、いいとも。きっと驚くよ。……っと、だいぶ話し込んじまったね。気を付けてお帰り、みんなあんたの帰りを心待ちにしてるだろうから」
「ありがとう、おばさま。こちらこそ引き留めてしまってごめんなさい、また今度」
私たちが今住んでいるのは彼女の家のすぐ近くで、こうして会ったら一緒に帰ることもある。けれどおばさまの目的は店の買い出しで、他の店が閉まる時間も迫っているのにあまり時間を取らせるのも申し訳なかった。笑顔で手を振る彼女に会釈し、帰路を急ぐ。ここに来て六年が経った今では、夕陽に染まるこの道もすっかり見慣れてしまった。
長かったな、と思う。普段は何かきっかけがない限り、あまり思い出さないようにしていた。けれど両親を失った日には、どうしても色々と考えてしまう。カレルも毎年この日は妙に口数が多いから、恐らくそうなのだろう。
下の弟や妹は生まれて間もなかったから、今ではもう、両親の顔すら覚えていないはずだ。それがどうしようもなく悔しくて、哀しくて……けれど、あの頃の私に出来ることなんて何もなかった。両親に託された弟妹たちを守らなければならないのだと、そんな使命感を抱いて、私なりに必死に動くのが精一杯だった。
ようやくこの町に辿り着いても、突然子供だけで現れて、身なりはいいけれど見るからに訳ありの私たちが、警戒されないわけがない。おばさまに助けられて、少しずつ、本当に少しずつ他の人たちにも受け入れてもらえたのだ。大人になればきっと、六年は短く感じるのだろう。けれど私たちにとっては、それは気が遠くなるほど長い時間だった。
王族や貴族の機嫌を損ねたら即座に異端か反逆者扱いのこの国で、放った一言がたまたま誰かの気に障ってしまったのだから、それは運が悪かったと言えるのかもしれない。けれど、そう自分を納得させることは、いつまで経っても出来そうになかった。
だって、考えてしまうのだ。もし何か一つでも違っていれば、今も王都の裕福な家で、家族みんなで幸せに暮らしていられたのかもしれないのにと。もし、両親が王族に目を付けられなければ。もし、……二人が死ぬ前に、それは間違っていると、誰かが言ってくれていれば。
誰か――あの時点で、両親の処刑を止められる人間なんて、数えるほどしかいなかった。一度決まったこと、それも罪人の処遇を覆せるのなんて、この国では王族くらいだ。特に反逆者の処刑に関しては、当時から変わらず、ある王族の男が最終的な決定権を持っている。私と数歳しか違わないという、現王の甥。
両親が捕まったとき、私は本気でそいつのところに乗り込もうとしたのだ。土下座でも何でもして、どうか両親を殺さないでくださいと懇願しようと思った。
けれど、その男も王族だ。両親に罪を着せた、自分勝手な奴らの血縁者。そんなことをして気分を害したら、両親の代わりに私が殺されてしまうかもしれない。それならまだ良くて、両親と共に私まで反逆者扱いされてしまう方が、可能性としてはずっと高かった。
幼い弟妹たちを遺して、私まで死んでしまうわけにはいかなかった。
だから、……私は両親の命よりも、彼らと交わした約束を取ったのだ。生きろというその願いを、弟や妹たちを守れという最期の頼みを、守らなければならなかった。
不意に、鈍い衝撃が体に伝わる。角を曲がってきた人にぶつかったのだ、と一拍遅れて気付いた。考え事に没頭していて、ろくに前を見ていなかったせいだろう。「ごめんなさい」と顔を上げて、私は思わず息を呑んだ。
「すまない。怪我はないか?」
「……どう、して」
漏らした言葉に、身なりのいいその男は訝しげに首を傾げる。整った容姿でそんな仕草をすれば、普通の女性のほとんどは彼に心惹かれるだろう。けれど今の私には、それとは真逆の感情しか浮かんでこない。全身の血が沸き立つような感覚は、実に六年ぶりだ。
目の前の男が、私のことを知っているはずもない。けれど私の方は、彼のことを嫌というほどよく知っていた。
もちろん、これほど至近距離で顔を見たことはないし、言葉を交わすのも初めてである。けれど、枯れた草のような薄茶の髪、整った顔立ちに毒のような紫の瞳、間違いようがない。
咄嗟に手が出そうになるのを、慌てて抑え込んだ。こんな町中で、王族に暴力なんて振るったら、今度こそ私も殺されてしまうだろう。……ああ、だけど成長したはずの今になっても何も出来ないなんて、と唇を噛む。
エドゥアルト・フォン・エリアーシュ。現王の甥にして、反逆者の処刑の決定権を持つ王族。
あの日心に刻みつけた、両親の仇の顔を、忘れるわけがなかった。
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