朝過夕改:ちょうかせきかい

 結局、私は一睡いっすいもできずに日の出を迎えた。


 徐々に明るくなる窓。鳥の鳴き声。新聞配達だろうか、原付げんつきだかバイクだかが止まってはまた走り出す音。


 うー……眠いっ。


 そしてとても疲れた。


 強くもなく弱くもなく自然な感じを演出しつつ手を繋ぎ続けるって思ったよりかなり高度なスキルだし、それを継続するのは神経がゴリゴリすり減る作業だった。


 壁に掛けられたシンプルなアナログ時計の針がカチコチなるのを聴きながら、ただただ繋いだ手の力加減を調整し続けて八時間。ナツホの言いように反して、これはとてもキツいアルバイトなんじゃないだろうか。


 親や友達、恋人と、自然さなんて意識せずに手を繋いだ経験はもちろんあるけど、正体不明の誰かにお金で雇われて緊張しつつも自然さをよそおって手を繋ぐって……難しいよぉ! 少なくとも私にはぁ……!


 ああ、この旦那様って人はいつ起きるんだろう。寝返りでも打って離してくれないかな……吉永さんが迎えにくるのなんじだっけ……携帯、バッテリーのこってるかな……大事なれんらくとか来てなきゃいいけど……シーツ……冷蔵庫のハム……てんき……よほう…………。




***



 ピンポーン


 遠くでチャイムの音がする。


 ピンポーン


 もう一度。


 保険の勧誘か荷物かな……何か頼んでたっけ……


 ピンポーン


 ねっむ……このまま居留守いるすしちゃおかな……今なんじ……


 薄眼うすめの視界の中ににじむ見慣れない壁掛け時計の針が指すのは7時40分。


 って違うじゃん! 

 私、バイトで! 手を繋いで! 眠れなくて! いや寝たの⁉︎ 迎えに来てる! えーと、あの運転の人が! 


 ピンポーン


 慌てて飛び起きた拍子に、右手にくしゃっと何かの紙を握った感触があった。

 なに? この紙……。


 っとそんな場合じゃなかった。

 とにかく今は、あの、そう! 吉永さんを出迎えなくては!


 私は部屋を飛び出ると、起きたそのままで玄関までを小走りに駆け、ドアに飛び付いて外に飛び出すような勢いでそれを開けた。


「おおっ⁉︎」


 スーツに手袋の吉永さんが驚いた顔で一歩下がった。


「お、おはようございます吉永さん」


「おはようございます、高橋さん」


「すみません、実は私、すっかり寝過ごしてしまいまして」


「そのようですね。お疲れ様でした」


「すみません、少しだけ待って頂けます? 急いで支度したくしますから」


「大丈夫です。待っていますから、ゆっくり支度したくなさってください。昨夜は主人もあなたの仕事にとても満足していたようですし。ありがとうございました」


 私はどう返事をしていいか分からず、はあ、と中途半端な返事をしてしまった。


 待ってもらえることと、仕事が上手く行ったらしいこととにホッとした私は、手に握っていた紙を思い出した。


 それは罫線けいせんのないメモ用紙で、達筆たっぴつなペンの字の縦書たてがきで次のような文章が書かれていた。



 ──お陰でよく眠れました。ありがとう。



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