韋駄天走:いだてんばしり

 吉永さんは私に気づくと周囲をちらりと確認した上で私にお辞儀じぎをして口の前で指を一本立てた。静かに、ということだろう。


 私は鍵を開け窓を開けて、小声で吉永さんに事情を尋ねる。


「今晩は、吉永さん。どうされたんです?」

「今晩は高橋さん。今夜のお仕事は中止です。この仕事のことが誰かにばれてしまったようで。門の前に誰かいますので、こんな場所から失礼します」

「えっ! 誰に⁉︎ 私、誰にも喋ったりしてません!」

「お静かに」


 つい大きな声を出した私を吉永さんがたしなめる。


「どうやって誰にばれたかまでは私にも。とにかく、門の前に三人ほどの人物が居て、今にも踏み込んで来そうです」

「旦那様は? 危険はないんですか?」


 私がそう訊くと、吉永さんは少し驚いた顔をした。


「大丈夫です。主人には私から既に連絡を入れて、こちらには来ないようになっています。ご安心を」

「良かった」

「少し離れたところに車を停めてあります。駅までお送りしますので、高橋さんは着替えて荷物を」

「靴を取って来ます」


 私は手早く着替えて荷物を全てバッグに放り込む。

 再び窓を開けると、吉永さんが手を差し伸べて窓枠を越えるのを手伝ってくれた。


「気を付けて。壁際は一段高くなっています」

「はい」


 一度窓枠に完全に登ってから、えいっと地面に飛び降りる。


「わわっ!」


 注意されていたにも関わらず、私は壁際の段差を半端はんぱに踏んづけて体制を崩し、大きくよろけた。


 吉永さんが私の二の腕を強く掴んで支えてくれたお陰で転びこそしなかったものの、私は近くにあったエアコンの室外機に足をぶつけて、大きな音を立ててしまった。


 その音を聞きつけて、庭先の更に先、塀の向こうで人影が動いた。


「いましたよ! こっちです!」


 どこかで聞いたことのあるような声だったがそれどころではない。私の頭は事態じたいの余りの急変ぶりに付いて行かず、軽いパニックを起こしてフリーズする。


「大丈夫ですか高橋さん。走れますか?」

「は、はい。大丈夫です」

「逃げます。こちらです」


 吉永さんが私の手を引いて走り出す。


 裏庭から勝手口を通り、家と家の間の細い道を抜ける。追跡者は吉永さんの言った通り複数で、家を回り込んで来ようとしてるような気配だった。誰かが、私の名前を叫んだような気がした。


「少し走ります。付いて来て」

「はい」


 私は駆けた。

 どこかも分からない夜の住宅地を。

 吉永さんに手を引かれながら。


 息を切らして、サンダルを履いて来たことを後悔しつつ、私はさっき叫んだ聞き覚えのある声について、そのぬしが誰だったのか思い出していた。

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