客塵煩悩:きゃくじんぼんのう

 ♬〜


 警戒なギターっぽい音のメロディー。

 私のスマホのアラーム。


 朝だ。


 ……はっっ!!!


 右手を開いたり閉じたりするが何も握っている感触はない。


 あの後、私どうした⁉︎

 いや、寝たんだけど……すっごい即座に寝ちゃった気がする……。

 もしかして、繋いだ手をすぐ離したりしてないだろうか。全く記憶がない。自分ちよりむしろ熟睡してしまった……。


 えー……一晩二万円も貰ってるのに、すぐ離したりしちゃってたら申し訳なぁ……。

 吉永さんに聞いてみて、旦那様が怒ってたりしたら、今日のお給金は辞退しよう……。


***


 ピンポーン


 迎えが来た。吉永さんだ。

 私は身支度みじたくを完全に終えていたが、心は晴れやかではなかった。過ぎてしまった夜に、大きな忘れ物をしたようで。



「おはようございます高橋さん。お疲れ様でした」


「おはようございます吉永さん。あの、昨晩のことなんですが」


「はい」


「旦那様から何か聞いていませんか? 私、手を繋いだと思ったらすぐ寝入ってしまったみたいで。もしかしてすぐに手を離してしまったりしたんじゃないかと」


「ああ」


「もしそうなら、昨晩分のお給金は辞退しようかと思いまして。広い意味では契約不履行ですし」


 すると吉永さんは微笑んだ。


「大丈夫ですよ。旦那様は昨日もあなたの仕事に大変満足された様子でした。手を繋いで眠るまでが高橋さんのお仕事です。起きてる間に手を振り払ったりさえしなければ、お給料はお支払いします」


 そう答えた吉永さんも嬉しそうで、出会った日より心なしか顔色も良く見えて、私はホッと一安心した。


「さ、駅までお送りしましょう。もし授業がおありなら、あまりのんびりもしてられないでしょう」


***


 そうやって私は、ほとんど唯一の友達から紹介された謎のアルバイトをしながら、その他は全くいつも通りの日常を過ごした。


 土日を含む週五日しゅういつか、私はそのために用意された部屋で、見知らぬ誰かと手を繋いで眠る。


 美味しいものを食べたり、欲しかった本を買ったり、少し贅沢ぜいたくした分を差し引いても、急な引っ越しでほぼ底を突いた私の貯金は、見る見る引っ越し前に近い額まで回復して行った。


 このまま、このバイトだけでも暮らして行けるな……いやいや、それは駄目だ。いつなくなるか分からないこんな謎の働き口に生活基盤を置くのは怖すぎる。

 やっぱしっかり勉強して、就職しなきゃ。


 あれから「旦那様」からのメッセージのメモなんかはなかったが、吉永さんから聞く旦那様の様子はおおむね満足なようで、この奇妙なアルバイトは体裁ていさいこそ怪しげではあったが、私にとっても旦那様にとってもいわゆるウィン=ウィンであるようだった。


 一度慣れてしまうと不思議なもので、私も、むしろ旦那様と手を繋いでいる時の方が深く眠れるようになっていた。

 人は本来、夜は誰かと一緒にいるようにできているのかも知れない。


 そんなこんなで、アルバイトを始めてから丁度一月ちょうどひとつきとうという頃だった。


 私はいつものように歯磨きをして着替えると、スマホを充電しようとコードを繋ぐ準備をしていた。


 コンコン


 ノックの音。

 え、早い。


 コンコン


 もう一度。あれ? 音が窓から。


 私は小紋こもんの模様の入ったベージュのカーテンを開ける。

 そこには、私の良く知る人物が立っていた。


「吉永さん……?」






  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る