乾坤一擲:けんこんいってき

 私たちの前にやって来た時と同じ柔らかなブレーキ操作で、迎えの車は止まった。そして切り返してバックする。どうやら車庫入れしてるみたいだ。


 車は再度停止し、今度はエンジンも切られて、完全にその活動を止めた。


「着きました。どうぞ、目隠しを外してください」


(住宅地……普通の……)


 そこはどこにでもある住宅地のようだった。少し立派な庭付き一戸建て。森の中の一軒家や、豪華絢爛ごうかけんらん大豪邸だいごうていではなく、裕福な夫婦が建てたのかな、というくらいの堅実な作りの二階建ての家。駐車場、少し広めの庭、手入れの行き届いた花壇。

 想像していた場所とは大分違う──いかにもありふれた職場の有様に、私は少し戸惑った。


「目隠しを頂きます。降りてください」


 吉永さんにそう促され、目隠しを返して駐車場に降り立った私は、改めてその家を見上げた。


(二世帯……住宅?)


 まじまじとよく見ると、明るいベージュの壁に煉瓦色れんがいろの屋根のその家にはちゃんとした玄関が二つあった。


「スマートフォンに地図アプリは入れられてますか?」

「えっ! はい」

「申し訳ないですが、この仕事をしている間は、地図アプリやそれに類するものはスマートフォンから消してください」

「……分かりました」


 私は自分のスマートフォンからデフォルトで入っていた地図アプリを消した。そりゃまあそうか……。


「契約内容を確認します。

 仕事内容は私の主人の手を握り一緒に眠ること。寝室は壁で仕切られていて、あなたが主人の手以外を見たり触ったりすることはできませんし、その逆もできません。就業時間は駅前待ち合わせ時間の午後8時から、明日朝に同じ場所にお送りする午前8時まで。日当は2万円。翌朝、駅にお送りする時にお支払いします。あなたが怖かったり、嫌な思いをしたらあなたはいつでも寝室を、この家を出て構いませんが、その時は日当はお支払いできません。ここまではよろしいですか?」

「はい」

「この仕事についてのあらゆること、場所や仲介人である水上ナツホ、案内人である私、労働条件や給与について、一切が他言無用です。あなたは守秘義務を追い、その義務が不履行な場合は高額の損害賠償を求められる場合があります」

「はい」

「それともう一つ。これが最も大事な約束なのですが」


 吉永さんは私の目を真っ直ぐに見つめて言った。


「私の主人の素性や事情、こんなことをしている理由などを詮索しないこと。質問は無しです。基本的には会話もしなくて構いません。あなたに期待するのは、差し出された手を握り、静かに眠ること」

「はい」

「以上の条件にご納得いただけるなら、この契約書にサインを」


 差し出されたボードにはA4の契約書とボールペンが挟み込まれている。


 私はつばを一つ飲み込むと、どんっ、と一歩を踏み出してそのボードを受け取り、内容を確認してから、サインの欄に筆圧の高い大きめの字で丁寧に名前を書いた。

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