ベケット先生と私

 サミュエルベケットと自己同一性。と言うことを考えている。


 ベケットの文章はすごくわかりやすい。私の頭の中の感じそのままだからだ。以前に詩を書いてあげたのだけど、私の普段の頭の中も大体こんな感じである。言葉がばらばらに解体されてゆく。引き延ばされた間合いに無限に意味が変容していく。


 そもそも人はどのように自らを体の中に固定しているのだろうか。自分を自分と捉え続ける感覚。確固とした自己を築き上げる能力はどのように獲得されるものなのだろう。


 アイデンティティの確立と喪失。身体感覚の拡張。誰かを愛するということさえも、自己の範囲の拡大と説明づけることができるかもしれない。ならばその自己は、いかなる感覚器官によって知覚されているのだろうか。




 確立された一個の自己。肉体の中に閉ざれて独立した意識。でも実際のところ私たちの意識はしょっちゅうどこかに漏れ出ている。例えばラケットを振るうその道具のネット。ゲームの中のポリゴンキャラクター。目の前のかわいらしい子犬。肉親や愛する人を目の前にしたとき。

 私たちの自己意識は拡張されているはずだ。



 拡張した自己が肉体に収まるまでの修正ラグ。私たちはどのようにそれを認知あるいは無視して自己同一感を保持しているのだろう。




 私は集中すればするほど自分で自分がわからなくなる。たまに視界に入った自分の手を見て驚いている。「これは誰だっけ?」―――私だ


 鏡の中の自分を見ても思う。「この女は誰」

 夫を見ても思う。「この人は誰?」


 夫、私の、愛している、私が愛している、人


 ここまで思い出して初めて私は彼を認識する。微笑みかける。相手の目の中に親愛の情を発見して思い出す。夫婦と言う実績。愛と言う言葉の中身。意味を。



 だから彼が私を薄情とか酷薄とかなじるのも分からないでもないのだ。彼においてはそのような混乱はみられない。愛着と言う意味では彼の方が感情を正しいメカニズムで認識しているように思える。


 私が文章を書き表すのもこの自己同一感の薄さに起因している。自分が過去に書いたものを見れば、自分が確かにそこに存在していた証拠になる。たとえ私が覚えていなくても。



 統合失調症の患者には自己漏洩感と言って、自分の考えていることが他人に漏れているのではないかと言う感覚が付きまとうのだそうだ。私の自己も自分が知らない間にどこからか漏れ出ているのではないかと思わないでもない。子供の頃ギロチンの図解を見て、自分の手首から透明な血液が流れ出ているのではないかという妄想にとらわれたことがあった。同じように今でも時々、自分の横隔膜の辺りががらんどうになっていて、そこから無限に自分が漏れ出ている感じがする。

 ただそれが人に伝わっているとは思わないので、統合失調症とも違うのだろうと感じている。



 自己を頭の中で再建するメカニズムに何か狂いが生じているのかもしれない。ベケットの小説にも何かそれに似たものを感じる。社会の中で自分の居場所を獲得することに失敗した主人公。散漫にさまよっている自己を言葉によって何とか結び付けようとする試み。誰ともつながらないまま終えていく人生。つながっていたはずの手綱を彼は強固なものとして感じえない。かつてない、また二度とあがなわれることのない孤独。


 私があなたと出会い私たちに至るまでの過程が永遠に失われていく。

 失くすことだけがただ人生であり続ける。

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