コンビニ人間/村田沙耶香


 村田沙耶香さんの、『コンビニ人間』を読んだ。


 すごかった。初めての感覚だ。胸のざわつきが動機になり吐き気になり、思わず笑ってしまったり、最終的にはずっと泣いていた。正直に言うとジュースキントの「香水」を読んだときと少し似ている。

 奇怪な世界だ。質感のない、補正がない。普通我々の視界には適切なフィルターがかかっている。コンビニ人間の世界にはそれがない。


 喋る。私たちは色々なものに向かって喋る。不特定多数の“お客様”相手であったり、特定の上司に、部下に、同僚に、友人に、家族に。そのとき自然と言葉遣いや振る舞いを使い分けている。意識してするわけではない。子供と話すときには、自然と相手の目線に合わせて、聞き取りやすい声で。目上の人間と話すときは、丁寧に、失礼のないように。誰に教えられたわけでもなく、使い分ける。


 この作品の主人公、古倉恵子には、それができないようだ。ただ、周りの人の口調を注意深く聞き取り、真似をしながら、意識して、話し方を、変える。そしてみんなそうするものだと、思っている。ただ思っている。ときどき周囲から不自然に見られたりすることがあるのには気がついている。けれどもどこを直せばいいのか、自分が他人とどう異なっているのかを、認識することができない。


 アスペルガーの人はこの、集団の中での自分の見られ方など、メタ認知が苦手な傾向にある。あるいは文脈に沿った人格の使い分け。

 でも恵子はそれだけではなかった。小鳥の死を、同級生と同じように悲しいものとして認識できない。はなむけにそのへんの花をちぎってころすことと、小鳥を殺して食べること。同級生の行動を止めるために殴り掛かること、教師を黙らせるためにスカートを降ろす事。やっていいこと、わるいこと。その区別がつかない。

 人の感情に共感することが極端にできない。これはASDの特性というよりもサイコパシー傾向と見たほうが自然と思う。


 ASD傾向があっても共感的な人は多い。たまたま恵子の場合はASD的な認知形式に加えて共感性の欠如が強く表れてしまったのだろう。世間は発症したサイコパシーを家庭環境の不和や愛情不足を理由にしたがるが、母親からの無関心はサイコパシーを加速させる危険因子ではあってもすべての根源ではありえない。恵子の母親は恵子に共感を促すように優しく諭したり、ごく一般的な躾を行っていた。

 

 恵子はどうやら人の表情に合わせて自分の表情をチューニングすることができない。人の表情がうまく認知できない特徴を持つと、周囲の嫌悪や困惑の表情を読み取ることから行動を抑制することに繋がらない。けれども彼女は音や物質の変化は過敏に察知することができる。速やかに迅速に、適切に対応することが可能だ。恵子はそういった人だった。


 読んでいる最中胸の中で渦巻いている感情を「小さいころから馴染みのある感覚だなぁ」と思って味わっていた。強いて言語化するなら「あなたを愛させてくれ」というのが近い。 

 あ、母だ。と思った。私の母も軽度のASD傾向がある。

 抱いた感情を渡そうとして受け取ってもらえなかったときの気持ち。

 胸の中でぐるぐるしている感情がいつまでも残っている。

 あ、そうか、と思った。なんらかの神経回路がつながる音がした。

 だから私は「全人類を愛させてくれ」とかいう過剰なエネルギーを持て余して成人したのだなぁ。受取先のない感情をぶくぶくと肥大させてしまったのだ。

 おおむね、幼いころに親近者に愛情を受け取ってもらえなかった子供の成長の仕方には二パターンあって、過剰に自己愛を肥大させるか、うっとうしいくらい献身的になるかどちらかだ。私は前者の時期を小学生くらいの時に通り過ぎて後者に移行した。


 もやもや、ぐるぐる、ぞわぞわ。懐かしいなぁと思いながら、文庫版の100項目くらいからはずっと泣いていた。家族は恵子を異常だと感じて、カウンセリングで治そうとする。しかし恵子の特性は、それなりに向社会的に適応するものではあっても治るものではないのだ。恵子はどうすればいいのかわからない。と素直に言う。家族は困惑して泣き崩れる。家族はきっと恵子に「人並みの生活や人並みの愛情、人並みの共感」を求めている。恵子は初めから「人並み」などとは考えないし、その言葉を知覚したりもしないだろう。お互いに見ているところが違いすぎて話にならないのだ。愛はある。でも、愛だけで通じるものなら通じさせてくれよ。適切な言語化やトレーニングが必要だろう。


 とかいうことは百も承知ながら、私はあなたを愛しているからとりあえずそれだけわかってくれ。という私自身の心の声を聞きながら読み進める。


 物語には白羽という男が出てくる。『コンビニ人間』が芥川賞をとった時に、たまたま見かけたとある個人ブログ主の感想で、男に餌をやって、飼いはじめる、と説明されていたので、なんとなく怪しい話を連想していた。エロい描写があるのかとか思った。全然違った。いや、飼うんだけど、なんていうか、想像の斜め上だった。

 白羽という嫌な男がバイトに加わるがすぐにやめてしまう。職場の人間が白羽を裁いているのを見て、いつか私もああなるのだ、と恵子は思う。

 ある日恵子は白羽を見かける。どうやらお客様をストーキングしているらしい。思わず止めに行ってしまう。白羽はわけのわからない理屈をこねる。ふたりはファミレスに入る。

 

 白羽は清々しく嫌なやつなので、作中の女性からは例外なく嫌われているが、恵子だけはフラットに白羽に接することができる。恵子はその性質ゆえに憎悪を抱かない。白羽が恵子の属しているアルバイト店員や女性という属性を貶しても、恵子は「属している」という体感を知らないために、嫌悪感を働かせることがない。

  ストーキングを辞めるように白羽を諭す恵子の言動には矛盾がない。感情に惑わされることがないので、理論的に正しいことだけを述べることができる。しまいには恵子は白羽に同居を提案した。社会的なカムフラに一緒に住んだらいい、と。非正規の、未婚の人間に世界は冷たい。それならばふたりで一緒に暮らせば目立たないではないか。


 恵子は論理的に正しいことは口にできても、それが倫理にかなっているかは判断できない。倫理は初めから彼女の判断基準から抜け落ちている。

 だから周囲は恵子の言動を抑制することができない。周囲の人間は論理的には正しくないことを、感情や倫理に照らし合わせて判断するからだ。論理で動く人間に感情的正しさを求めても無駄なだけだ。白羽はやばい。家に入れたら確実にいけない。普通なら感覚的にそう思うはずだ。でも恵子はそういう判断をしない。


 ただ白羽のことを「人のことを責めずにはいられないくらいには辛そうだ」と思う。思うが特に共感はしない。恵子はただそう推測するだけだ。ファミレスの掛け合いは、ぞわぞわがマックスになり、思わず吹き出してしまった。笑ってしまう。恵子が冷静すぎる。「全然解決しなくないですか」そのとおりだった。白羽が提示するヴィジョンやプランに何一つ現実感はない。彼自身も救われない。口から延々と無をひねり出す男、白羽。屁理屈製造機へと姿をかえてしまった彼も、いつかは人間だったのだろうか。それとも恵子と同じように、ずっとそうだったんだろうか。


 恵子は本当に自室に白羽を招き入れてしまう。白羽は人を家に招くことを性交渉の同意とみなしているところがある。恵子はただ同居を提案しただけで、性交渉その他は想定していない。彼を家に入れた理由は単純で、未婚でいると周囲の人間の反応が煩わしいから。

 ふたりのやりとりが噛み合わな過ぎてすごい。なんかぞわぞわを通り越して愛おしくなってきた。恵子のブレなさが愛おしい。 

 けれども同居の選択は恵子の思いもよらない変化を巻き起こす。システマチックな日常が崩れていく。恵子には崩壊を止められなかった。居心地の良かった人間関係は、恵子にとって居心地の悪い場へと変容していく。そして恵子は白羽にコンビニを辞めさせられてしまう。


 私もあまりムラの掟を守れない側の人間なので、恵子の気持ちがわかる気がする。幼いころからすべてが人並みにできるように振る舞わないと社会的に死ぬ気がする、という恐れの中でずっと生きてきた。

 だいいち、不文律のような掟に重さを感じないのだ。一ミリも。~~しなければならない。という掟の背後に何らかの論理的整合性がないと、守れない。理由なき掟は、私にとってないのと同じなのだ。うっかり集団の不文律を踏みにじってしまってよく怒られた。怒られるたびに反省はするけど、認識できないものは守れないから、どうしようもない。この気持ちは、妹になじられたときの恵子の気持ちとよく似ていると思う。


 だから恵子の気持ちも、もしかすると白羽の気持ちも、わかるとまでは言わないけれども、共感してしまうところがある。


 クライマックスで恵子は白羽に就職させられそうになる。でも恵子はシステム化されたコンビニの一部になることを選ぶ。清々しい。私はこれをハッピーエンドだと読んだ。よかった。とても。

 愛は信じられないが、秩序はただそこに在ることを感じられる。コンビニの声が、恵子にはたったひとつの神の声なのだ。縄文時代から続く営みを憎んでいる男よりよっぽど素敵だろうが。そんな男の奏でるノイズははじめから恵子の世界には必要なかったのだ。

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