好きに読んだらええやんか

阿瀬みち

告白/町田康

 町田康の描く城戸熊太郎はとんでもない粗忽ものである。口を開けば毒にも薬にもならないような方便をのたまい、友人に預かった牛は水に落とす、人違いで番頭にすごみ大立ち回りをこなす。なんといううっかり、なんというおっちょこちょい。これというのも熊太郎の頭の中を常に何らかの思考・思弁が支配しているからであって、思考と行動が常に連動しているような、村の素朴な百姓たちとはなかなかなじめない。そのうえ熊太郎は無駄に甘やかされていた。実父と後添えの豊にちやほやされ育った熊太郎はしかしうぬぼれ続けられるほど阿呆でもなく、ある日唐突に「家のもんはこうしてわしのこと褒めるけど、ほんまはちゃうんちゃうか」と察してしまう。

 そらそうである、家の中でいくらほめそやされても、外の人間は残酷で、否が応にも現実は見える。熊太郎は世間と親の評価と自己評価のギャップに悩む。

 実際のところ熊太郎は取り立てて愚鈍なわけではなく、ただ同世代の人間のたしなむような遊びのルールや様式に無知で不慣れなだけだった。もっと悪いことに、家の中で膨らんだ自尊心が、無知や不慣れに打ち克って、外面上の衒いやちゃらけを取り繕い、熊太郎の魂が外の世界へ解き放たれることを妨げていた。


 そしてこの「ほんまはちゃうんちゃうか」という疑念は一生を通して熊太郎をさいなむことになるし、頭の中に渦巻く疑念や思念は河内弁の枠を超えて熊太郎を哲学の世にいざない、しかしそれを表現する言葉をもたない、というのは村人たちと熊太郎の断絶を生んだ。言葉にならない思いや散々迷走する思考と世の中との断絶は、獅子舞の中ではっきりと自覚される。まるで暗闇の中に閉ざされて、獅子舞の被り物の中から世の中を眺めているようだ、と。



 私が初めて町田康作品に触れたのは講談社文庫からでている短編集「権現の踊り子」だったように思う。なんじゃこれ天才やんけ、と思ったのが「ふくみ笑い」を読んだときだった。町田氏の作品には歌や踊りに真面目に寝台を食いつぶす主人公、些細なきっかけからの日常の瓦解や、周囲の人間との不理解や断絶が出てくる。おおむね主役はくたびれたパンクスであったりニート然とした現代人だったり時代劇の中の隠居やニートだったりする。


 他人の顔色を慮るあまりバカにされ、こけにされ、わけのわからないまま死んでいく主人公。世界を許そうとした瞬間、やはり無理、受け入れられない、なにこれは。フラッシュバックする怒りと鮮烈な恥の意識。突沸的な感情の高まりもむなしく、世界の真理にも真意にも届かないまま死んでいく。そういう町田作品のエッセンスが濃縮されたのが「ふくみ笑い」だと思った。未だに生涯読んだ中でベスト3に入る短編だと思っている。


 「ふくみ笑い」との遭遇があまりに鮮烈だったので、「告白」は物足りなく感じた。帯にある又吉氏の「小説の極致」という表現もいまいちぴんとこなかった。ただやはりすごい小説だとは思う。


 

 幼少期の熊太郎は大人の前で独楽を回し得意になっていた。熊太郎十歳の頃である。意気揚々と同年代の子供たちの前で披露してみると、誰も驚かない。だって彼らは独楽鬼に忙しかったから。鬼が掌の上で独楽を回しているあいだだけ追いかけてくるという、変形鬼ごっこの一種だった。そんならと、彼らに混じろうとしても、だめだった。ひとりで独楽を回していた熊太郎は、掌で独楽を回したりできなかった。やったことがなかった。それが子供らの嘲笑を誘い、それきり熊太郎はすっかり参ってしまう。わざとへらへらし、失態を取り繕うようになった。本気ではない、というポーズをしながら人と交わるようになってしまった。


 しばらくして熊太郎にも転機がやってくる。村の子供たちの角取に混じった時のことだった。子供らは熊太郎をすっかり舐めていてそれを隠さない。でも力自慢の子供を投げ飛ばした瞬間、子供たちの熊太郎を見る目が変わった。五人ほど投げ飛ばしたあたりで、熊太郎はすっかり大将になっていた。

 けれども熊太郎は知っていた。自分が強いわけではなく、たまたま、弱いまま勝てる方法を会得してしまったことを。


 手下のように子供たちをひき連れても、いつなんどき偽物の強さが露呈するのか気が気ではなかった。そんなある日熊太郎の不安を具現化したような、不吉で不快な子供、森の小鬼と名乗る少年の腕を折ってしまう。そこから話は奇妙な方向に転がり始め、とうとう熊太郎は殺人の罪を負ってしまうのだが。


 というのが序盤の内容だった。なぜ彼がまじめに仕事をすることなく遊び惚けていたのか、遊ぶことは苦しいこと(このへんは町田康氏のエッセイでもつづられていた)だったが、彼を落ちるところまで落としたものはいったい何だったのか? 酒や賭博に溺れることとなった理由とは? といった内容のことが熊太郎の心情や幻視を交えて滔々と語られる。彼はなぜ十人もの人を惨殺することになったのか。本作でその理由は語られるのか。タイトルの「告白」が示すものは。


 ここからネタバレするので未読の方は読まないほうがいいよ。





―――――――(以下ネタバレ)――――――――――


 熊太郎は幼いころから賢いかしこいと言われて育っていて、実際阿呆ではない。阿呆ではないのに振る舞いは阿呆そのものである。なぜか。理由の一つに熊太郎が過剰に人の目を意識しすぎている、というのがある。なぜそんな自意識過剰クソ野郎が出来上がってしまったのか? 甘い実家というのもあるし、独楽鬼での失敗体験が大きく影を射していたのもあった。なにより熊太郎は考えすぎ、人の顔色を読みすぎるところがあった。しかもちっとも誰のことも信用していない。「告白」のみならず、町田康氏の小説の登場人物はみなこうである。社会を信用せず、世間に身の置き所を見いだせず、いつも誰かに糾弾され排斥されるのではないかと恐れている。そしてしばしば実際に世界によって滅亡せしめられる。

 なぜなのだろう。ひとつは自らに異常に厳しく批判的である、というのがあると思う。その割に楽観的で目先の享楽に弱いので、周囲の人から見るとひたすら怠けている風にとられる。いや違うのである。これこれこういう理由からこうこうこういうことを案じていてそのためにああいうあれこれを謀っていたのだがそれがどうにも行き詰って、にっちもさっちもいかぬから仕方なく酒を食らいばくちに興じていたのよ。と言ったところで信用してくれる人などいない。いたところで、あまりにも怠惰な生活態度にすぐに見切りをつけられてしまう。


 自罰的、内省的、享楽的。どれも矛盾しているようだが本人の中ではすんなり同居しているのである。よって彼にとって遊ぶことは苦しい。彼というのは町田氏本人でもあり、城戸熊太郎のことでもある。

 しかし世の中の人はそんな矛盾をやすやすと受け入れられない。彼らは常に孤独である。孤独を紛らわせるために酒を食らいばくちに興じ、謡い踊る。

 町田氏の作品の中での踊りは、忘我のための儀式である。彼らはその厄介な自意識を踊りによって解き放ち、我を忘れ無になることができる。照れも衒いもこそげ落とすことができるのである。彼らにとっての救いである踊りは、しかし傍から見ると単なる阿呆の道楽でしかない。魂の慟哭は誰にも受け取られない。ひとつになったね、私たち、という雰囲気を味わうことはできても、根底の孤独を埋め合わすことは決してできないのである。


 このあいだADHDな人のツイートを見ていると「マルチタスクが苦手という特性を生かして、頭の中にこびりついた嫌な記憶等も”あー”などと奇声を生じることで退散せしめることが可能っぽい」とあって、あーーーーーーーーーーーーーーやめてくれそれは私。陽気なひとり言と同時に深刻に思い悩むことはできないっていうライフハックでしょはいはい。ただ周囲から危ない人だとみなされるから時と場合を選ぶライフハックでしょ。しってるしってるぅ。


 町田氏の作品の登場人物も唐突に奇声を上げ意味の通らない言葉を発し踊る。それは恥ずかしさや気まずさや苦しさをごまかすためである。はぁ苦しい。


 町田氏の手によって、既婚者であった熊太郎は未婚のまま、惚れて腫れた縫の母親に戸籍を入れてもらえないという設定に改編されている。実際には縫は熊太郎の内縁の妻であったらしい。

 町田先生も奥さん一筋な感じするもんな、いや、知らんけどな実際のところは。熊太郎は年頃の女性に声もかけられないくらいピュアな青年であった。むっつりともいう。縫がまたファムファタルという感じでミステリアスで心を開かない感じが何とも言えない。好きや、と告白すると「わたしはあなたの顔が好き」と平然と言ってのける女性である。一筋縄ではいかないのだ、結婚する前に気づけよ、熊太郎。男子諸君は集団に溶け込まずに浮いている美人が好きかもしれないけど、そういう女はえてして扱いにくくしたたかなのだ。


 まぁそういうわけで、村で浮いていた美少女と一緒に暮らすことになったんだけど、いざ暮らしてみると、相手が何を考えているかわからなくて怖い。熊太郎は所帯を持っても相変わらず働かず、昼から酒を食らい、縫へ渡す生活費も滞る。しかし縫は平然と、ただ毎日を甲斐甲斐しく暮らしている。妻がわからない、怖い。怖いから家に帰らず酒盛りをしたり外泊をしたりする。そうこうしている間に熊太郎と交友関係にあった寅吉が家に出入りする。亭主の留守中になにしてけつかる。と思いながらも、「いつでも酒飲んだりしにきてええよ」本心とは全く別のことを言ってのけてしまう。


 このいざというときに本心と真逆のことを言ってしまうという熊太郎の性質は、最後までどうも治らなかったようである。熊太郎は縫を疑い、試し、家を空け、ますます遊び惚ける。十連泊から帰った時、熊太郎はとうとう寅吉と縫が不義密通をしたであろう現場に足を踏み込んでしまう。いやまぁ当たり前やろという話だけど、ここから殺人事件に発展するというから人間というのはおそろしいものだね。家も帰らんとお金も入れんと、嫁が普通におると思ってる方がおかしいやろ。一遍死んだ方が良かったんちゃう? いやもう死んだ人やけども。


 嫁と寅吉の不義を知った熊太郎は、嫁の実家へ行って、義母トラにあらどういうこっちゃと問い詰める。ところが生活費の不払いを逆に問い詰められてしまう。当然やね。熊太郎は素直なのですぐに反省する。そういえば金な、渡してなかった。あちゃー、なんとかして嫁にお金を入れらな、そういえばこないだあいつに貸した金あったやん? あれ回収してきたら家に入れる金できるわ! と熊太郎ちゃんは熊次郎君の家にいく。ところがこの熊次郎君はふてこいやつで、これまでにも散々熊太郎君を騙してひどい目にあわせているのである。なんで貸したお金が素直に帰ってくると思っていたのか、熊太郎は人を疑うことを知らない。いや、本心は疑いまくりなのであるが、やたらええかっこしいなので、疑っていることを知られたくないのである。そこで気に食わん奴の借金の申し入れにも、ぽんと現金を出してしまう。


 熊次郎はもちろん金を返すつもりなどなく、熊太郎の過去の借金を六倍にしてふっかけてくる。この辺の金銭トラブルが事件の直接の原因というわけらしい。ほんまけ? 私は何となく、熊太郎のことだから弥太郎の手前引くに引けずに事件を起こしたんじゃないかと思う。弥太郎というのは熊太郎の舎弟。もちろん周囲からの孤立や孤独もあったと思う。町田先生は粗忽な熊太郎に感情移入しすぎて、優しく書きすぎたんと違うか。縫が私を試している、罪人を試している、というのは女性読者としてはけったくその悪い言い訳やったよ。もっと男気みせんかい。

 こんな決然と事件を起こす人ではなく、人を三人くらい殺してやっと肚の座る小心者やったと思うんやけどなぁ。うーん、社会を裁くには恨みが足りず、衝動性の面では「追い込まれると」見境がなくなるという描写あったけど、思想犯になるには妄想の一貫性がなさ過ぎたと思うんやわ。明るいんよな、熊太郎。ほがらかやし。かといって全く他人を信じてへんやろ、その割に恨んでない、事柄に対してのみ怒りを抱く人やと思うわ、町田版熊太郎は。


 と思ったけど弥太郎に「ほんのちょびっと後悔してる」と言うているので、ませやろな。と思った。指が痛いしイラつくから赤子も刺すよな。あほか、たわけ。告白のあと白けた空気に任せて発砲してしまうし、かなしいな。


 でも、ええ小説でしたよ。最後の気力を絞りつくしてもほんまの告白に至らんというのがなんとも切ないね。腹の底から絞り出せるものがなかった、そういう熊太郎の生涯はがらんどうやったね。フェイク。


 現代のわれわれの踊りが、熊太郎の魂の乾きを癒すことはできたんやろか。

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