第8話
廊下を曲がった所で、母の姉―――――伯母の香織と会った。
香織は、涼の腕を掴むと母屋を気にして声を顰めながら
「どこに行ってたの。泥だらけじゃない。
そんな恰好で向こうに行ったら、また松恵さんに叱られるわよ。
とにかく着替えてらっしゃい」
さっき起きた、妹の義姉と甥の騒動を思い出し深いため息を吐いた。
涼は、まっすぐな視線を母屋に向けたまま静かに口を開く。
「ごめん、香織さん。手を離してくれない?
すぐに母さんの所に行かなきゃならないんだ」
妙に大人びた物言い。
掴んでいた手を離すと、涼は香織を仰ぎ見た。
妹に良く似た端正な顔立ち。
綺麗な黒い瞳が、強い決意の光に輝いている。
不意にあどけない笑顔を浮かべた。
「用事が済んだら、すぐに着替えてくるよ」
そう言い残すと、母屋に向かって歩き出す。
その小さな後姿を、香織はただ黙って見送った。
「涼!あんたどこに行ってたのよ」
座敷に足を踏み入れた途端、松恵のヒステリックな声が奥の間から響いてきた。
濡れタオルを顔に押し当てた姿で、ドスドスと畳を踏み鳴らし
鬼の形相で近づいてくる。
「まぁ、何て汚い恰好をしてるの。
そんな泥だらけの足で歩き回らないで頂戴」
松恵は露骨に嫌な顔をした。
「佐紀!すぐに涼をお風呂場に連れて行って。
頭から水でもかけてやれば、少しは目も覚めるでしょ」
そう言って、意地悪く笑った。
そんな伯母の言葉を無視するように、涼は横たわる母の傍らに腰を下ろした。
顔に掛けられていた布をそっとはずす。
母の白い顔は、まるで眠っているように穏やかだった。
涼は袋から草履を取り出すと、枕元に揃えて置いた。
「何してるのよ」
今にも噛み付きそうな勢いの松恵を制するように、低い声が響いた。
「姉さん」
涼は視線だけを上げ、声の主を見た。
父の司だ。
普段は鋭く光らせている目も、今日は充血して潤み妻の死を前に
大きな体が一回り縮んだように見える。
「今日でお別れだ。涼の好きにさせてやってくれ」
有無を言わせぬような気迫と、周りの人達の同調するような雰囲気に
松恵は口元を歪めた。
「そうやって甘やかすから、手がつけられなくなるのよ」
松恵はそう毒づくと、不機嫌な顔で母屋を出て行った。
涼は、視線を母の顔に戻すと、ほっそりとした頬にそっと触れた。
その肌の冷たさが、指先を伝ってゆっくりと涼の体に染み込んでくる。
それは認めざるを得ない、母の死。
「母さん…ごめんね」
不思議と涙は出なかった。
楽しかった思い出だけが蘇ってくる。
母の頬から手を離すと、縁側へ出た。
幾重にも重なった黒い雲が晴れ、白い月が顔を覗かせる。
まるで母の微笑みのような淡く儚い光が、縁側に立つ涼の裸足の足を
優しく照らした。
不意に吹いた風が愛おしむように、前髪をさらさら揺らす。
月を見上げる涼の双眼には、温かい光が煌いていた。
唇がゆっくりと動く―――
「ありがとう…さようなら…」
― 完 ―
月兎忌憚 一ノ瀬 愛結 @akimama7
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