月兎忌憚

一ノ瀬 愛結

第1話

「坊ちゃま、涼坊ちゃま」


母屋の方から、自分の名を呼ぶ佐紀の声がする。


植え込みの側に座っていた涼は、体を小さく丸めた。

見つかれば、松恵の所に連れて行かれる。


そうなれば、否応なしに謝罪を強要されることは目に見えていた。

何も悪い事などしていない。


涼はぎゅっと唇を噛み締めた。



叔母の松恵は嫌がる涼の手を掴むと、引き摺るようにして

母親の横たわっている布団の傍らに連れてきた。


「さあ、最後のお別れをしなさい」


松恵の手が母の顔を覆っている白い布にかかる。


「やめろ!」


無意識に叫んでいた。

母の顔を見てしまえば、その死は現実のものとなる。

11歳の涼は、母親の死を受け入れられずにいた。


「母さんは死んでない。死んでない」


呪文のように、自分に言い聞かせる。

押さえつける手から逃れようと、振り回した拳が松恵の顔にヒットした。


「ぎゃぁ」

松恵は、大げさな悲鳴を上げて、後ろに倒れこんだ。

その隙をついて、裸足のまま縁側から庭に飛び出す。


「誰か、誰か、涼を捕まえて!」

ヒステリックな金切り声に追われるように、涼は全力で走った。


佐紀の声が遠ざかると、涼はのそのそと植え込みの影から這い出した。


庭の片隅に植えられている、大きな桜の木の根元に寄りかかるように座り込んだ。

今が盛りと咲き誇る水仙の甘い香りが、涼の鼻先をくすぐる。

母のつけていた香水にも似た、その香りに思わず涙が零れた。


「泣くもんか」

涼は、立てた膝を両手で強く抱えると、膝小僧に顔を押し付けた。


小さく震える、髪に、肩に、薄紅色の花びらがはらはらと舞い落ちる。


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