第6話

その日の朝、いつも臥せっていた母親が、珍しく起きていた。


「今日は調子がいいみたい」

顔色も良く、元気そうに見えた。


「病気治ったの?」


母と共に朝餉の卓に付ける事など、数カ月ぶりだ…

涼は朝から大はしゃぎだった。


「今日、学校から帰ってきたら公園に行こうよ。

 翔たちと秘密基地作ったんだ」

「そうね」

「約束だよ。授業が終わったら、飛んで帰ってくるから」


母は優しく微笑んで、玄関先まで見送ってくれた。


授業中は上の空で、何一つ頭に入ってこなかった。


帰ったらまず、一緒におやつを食べて、それから公園に行って

秘密基地を見せるんだ。

母さん、びっくりするぞ。

リフティングが上手く出来るようになったのも見てもらいたい。


あとは…


母と過ごす時間を想像するだけで、自然と口元が緩んだ。

授業の終わりを告げる鐘が鳴るのももどかしく、家路を急ぐ。


「ただいま」


勢いよく玄関を開けると、そこには母の姿があった。

お気に入りのうさぎの着物を着ている。


「あら、涼ちゃん。おかえりなさい」

「…母さん、出掛けるの?」


母の顔が曇った。

「ごめんなさいね。

 急用が出来てしまったの…なるべく早く帰ってくるから…」


「嘘つき!」

「涼…」

何か言い掛けた時、奥の部屋から母を呼ぶ声がした。


「――――…ごめんね。涼ちゃん」


母は何度も振り返りながら、奥の間へと歩いて行ってしまった。


涼は、まるで捨てられた子犬のように玄関に立ちつくしていた。

泣くもんか!

どんなに唇を噛みしめても、溢れ出る涙が止まらない。

あとからあとから頬を伝い落ちてくる。


若草色の鼻緒のついた草履が、俯いた涼の目に飛び込んで来たのは

その時だった。


これがなければ、母さんは出掛けられない。


子供の浅知恵だった。


乱暴に草履を掴むと、裏庭にある物置小屋まで走った。

小さなスコップを持ち出し、穴を掘る。


もうちょっと…もうちょっと…

涙が乾くまで、掘り続けた。

足元に深さ40センチ程の空間が出来た。


ランドセルの中に入っていた、ビニール袋を取り出すと

その中に草履を突っ込み、固く口を結んで穴の中に放り投げた。


丁寧に土をかけ、目印に落ちていた枯れ枝を一本立てる。

これで大丈夫。


急いで母屋に戻った時には、すでに母の姿は無かった。

違う草履を履いて、出掛けてしまったのだ。


そうだ、家にある草履は一足だけじゃない。

若草の草履を隠したところで、替え履きはある。


そんな事で、母を引き止めることなど出来る筈もなかった…



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