最終話-夏空と君と私と、感情の話
探し物はここにあったのに、どうらや随分遠回りをしてしまったらしい。
夏休み中盤。
早めに部室に着いた私は、いつものパイプ椅子に腰掛けると鞄から大学ノートを引っ張り出した。
蝉の声が五月蝿く鳴り響く。蒸すような狭い部室と、窓枠で四角く切り取られた青い空。うんざりするほどよく見た、夏。
景色はこんなに見慣れたものなのに、そこに居る私たちの関係は随分と変わった。夏は何度だって巡る。同じ景色で、同じ感傷を連れて来る。こんなに白く光る入道雲にだって、もうとっくに飽き飽きしているはずだ。
夏は何度だって巡るけれど、私たちの間に同じ時間が巡ることは──もう、ない。
時計の針は右にしか回らないし、刷りたてだった部誌の香りは古紙のそれに変わってゆくだけだし、一度変わった関係性が戻ることもない。
この学校では、三年生の引退の日が明確に定められてはいない。それぞれの部で適当に、夏が終わるまでに引退すれば良いことになっている。
つまり、物語の幕は自分で引かなければ──この部室の扉は自分で閉じなければならない、ということだ。
夏休みは中盤。
──終わり方を、探している。
◆
「おはようございます。今日は早いんですね」
後輩が部室の扉を開ける音で我に返る。
早めに来て執筆をしようと思っていたのに、どうやら物思いに耽けるだけで時間を過ごしてしまったらしい。
「おはよう、後輩くん。アイス買ってきてくれた?」
「頼まれてませんね。まぁ頼まれても買ってきませんが」
今日も後輩は素っ気ない。
酷いなぁと文句を言う私に対して無視を決め込んだ後輩は、いつものようにパイプ椅子に座ると、文庫本を一冊、取り出した。
「何読んでるの?」
「井伏鱒二の『黒い雨』です」
「いつにも増して暗くない?」
「放っといてください。この間までは漱石の『こころ』を読んでましたし」
「それも別に明るくないよね」
そんな本ばかり読んでいて気が滅入らないのだろうか。少なくともこんな快晴の夏の日に読む本ではない。
「そういう先輩はどうなんです? 執筆が捗っているようには見えませんが」
「私? 私はいいんだよ。暑いし」
「言い訳になってないですよ。早く書き上げてください。校閲するものがないと暇なので」
「やっぱり自分で書く選択肢はないのね」
「当然です」
後輩の態度にこの間感じたような違和感はまるでない。あまりにいつも通り過ぎて、夏に誑かされているようだ。
それが、後輩が自力で答えに辿り着いた結果なのか、或いは本当に気圧のせいだったのか、私には分からなかった。
夏は暑い。当たり前だ。だから、執筆は捗らない。──抜けるような青空とか、やたら立体的な入道雲とか、五月蝿く鳴る蝉の声とか、暮れの凪とか、夏が訪れるたびに襲う謎の郷愁とか──描写しやすいことこの上ない季節では、ある筈なのだが。
この感傷だってそうだ。知らないうちに色んなものを知ってゆく後輩に対する、今までのお節介が過ぎたのかもしれないという後悔だとか、夏の暑さにじりじりと削られてゆく残り時間への焦燥感だとか。そういうのが蟠りになって胸を掻いているのだ──と言ってしまえばそれらしいが、実際のところただの身勝手な恋慕でしかない。とんだ描写詐欺である。
──閑話休題。
「…………後輩くんは、物書きに向いてるよね」
私は、ぽつりと言った。
「何ですか、急に。……書きませんよ。書けませんし」
「知ってる」
これだけの感情を知っていて、しかもそれらはまだラベリングされていなくて、名前に縛られていなくて。
ありのままの形で感情が存在している彼が、もしも小説を書いたら──きっと、どんなに素敵な文章が書けることだろう。
形が違えば才能とすら呼ばれたかもしれないそれを、しかし、後輩は、やっぱり使うことはないだろう、そう思った。原稿用紙の上で丸裸にされるには、あまりにも鮮烈な感情たちだったから。
「ねぇ、後輩くん」
「何ですか」
「────私、引退するなら今日がいいな」
後輩は、少し驚いたように目を見開いて──そして、少しの間、何も言わなかった。
「……そう、ですか」
呟くようにそう言って、目を伏せる後輩。
蝉の声の裏に、私は後輩の声を聞いた。一年半も一緒にいれば、無言から感情を受け取るなんて容易いことだ──と言いたいが、やはり、冬を経て後輩の感情は分かりやすくなった。きっと当人の中ではまだ名前はついていないのだろうが、自分が何かを感じていることは自覚するようになったのだろう。後輩の中で蠢いているそれの流動が、ひしひしとこちらに伝わってくる。
無粋にも、敢えてそれらに名前をつけるとしたら──惜別、切なさ、哀しさ、といったところだろうか。
そんなふうに思ってもらえるほどの何かを、私が彼にできたとは思えないし、冬の頃の自分を未だに許せてはいない。それでも後輩がそんな感情を抱いてくれることは、全部が全部間違いではなかったということを示している気がする。
──私は後輩に気取られぬよう、小さく息をついた。この期に及んで幕のひとつ引く勇気も出ない私に──そして、やっぱり何も言わないのに、名の無い感情を痛いほどこちらに向けてくれる、後輩に。
「…………ん。今日で引退する。それでねぇ、明日からOBとしてちょっかい出しに来る!」
「……先輩?」
「へっへっへ、嬉しいでしょう。そうでしょうそうでしょう。いやぁ本当は引退したいんだけどね? 仕方なくね?」
「あの、先輩」
「どうした後輩くん。もっと喜びを表現してもいいのよ?」
「先輩」
後輩は、頭痛でもしたかのようにこめかみを押さえる。
そして、今までで一番盛大なため息をつくと、言った。
「受験勉強してください」
「うっ」
場が凍りつく。……場というか、主に私の心臓が。
急速に室温が下がったことにより、外気との温度差で部室唯一の窓ガラスがパリーンといい音を立てて割れた。
「後輩くん! あんまり心臓に悪いこと言わない!! この窓どうするのさ!?」
「窓……? どうにもなってませんが」
室温のみならず、後輩の視線も冷たい。
「うぅ……良いんだ、受験失敗したら後輩くんが専属物書きとして雇ってくれるから」
「何ですかその職業。雇いませんし」
ですよね。
渾身の半分冗談が見事に滑り撃沈する私を尻目に、後輩は涼しい顔で文庫本を開く。……特に期待はしていなかったが、もうちょっと寂しがってくれてもバチは当たらないと思う。
「……真面目な話、就職してからも今みたいに小説を書く体力が先輩にあるとは、俺には思えないですけどね。大人しく大学通ってあと四年書いたら良いと思いますよ」
「うーん、正論」
「縁があればまた校閲してあげますから。俺の成績で行きそうな大学でも目指してください」
「後輩くん去年の私より成績良いじゃん……」
しれっと鬼のようなことを言う。
何を隠そう、やるべきことがあると筆が捗り過ぎる物書きという種族には、受験勉強は全く向いていないのだ。
「……じゅ、受験の話なんてやめやめ! もっと……もっと、先の話しよ!」
会話の流れを変えるべく、私はパイプ椅子から立ち上がると思い切り窓を開け放つ。
「先輩は小説家になりたいんですか?」
「え? うーん、どうだろう。一生文字が書けたらそれでいいかな。後輩くんは? 将来なりたいものとか」
「俺ですか。……俺、高校入ったときは別に、特別本が好きだったわけじゃないんですよ。だけど今は好きです」
「そうなの?」
私は思わず目を丸くする。てっきり、ずっと本が好きで読んでいるのかと思っていた。
一年半一緒にいても、まだまだ知らないことはあるものだ。
「目の前で書けない書けないって唸ってる人を一年半見てましたからね。読んでると書き手の苦悩が見えるようになりました。本って面白いですね」
「性格悪いってよく言われない?」
「言われません。友達いないので」
諸刃の剣だった。
「まぁ、ですから、好きな物書きの文章がずっと読めたらいいとは思ってますね」
「そっか」
後輩の好きな作家──小林泰三と言っていたか。
物書き、という言い回しに抱いた違和感と期待は敢えて見なかったことにして、私は窓枠に肘をつく。
私に勇気が足りないから、或いは後輩が引き留めるように感情を向けてきたから、今日が最後だなんてことはない。これから秋が来て、冬を経て、春に向かってゆっくりと静かに終わってゆく。
それに甘えて、夏の端で水彩絵具を溶くかのように、また感情を曖昧にする。
それでいい。後輩は感情を自覚した。私は身勝手な感情をぶつけた。その変化は必ずしも良いものではなかったかもしれないし、その責は私にあるのかもしれない。
それでも、この狭い部室で二人抱いたそれは──綺麗では、あったのだ。
だから、それでいい。勝手な話、後輩がくれた感情で私は許された気になっていたし、過程は酷いものだったけれど後輩と私の願いは叶っていた。
まぁ、やっぱり少し、色んなところにぶつかり過ぎてしまったとは思うけれど。
私は窓の外を見たまま、言った。
「そういえば、後輩くん。私もね、文芸部に入って好きになったものがあるよ」
「そうなんですか。ちなみに何です?」
後輩の方を振り返る。
「夏。──私、この季節が好き」
後輩は、ただ「そうですか」とだけ言った。
心地良い沈黙が、暫く部室を漂った。
蝉の声が聞こえる。
草の香りと湿気を含んだ風が通り抜ける。
「好きだよ」
夏が。この部室が。この一年半という時間が。
──貴方という人間が。
「俺もですよ」
──その声が、ひどく優しく響いていた。
夏空と君と私と、感情の話。 木染維月 @tomoneko
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