『普く通ずる私たちの話』
https://kakuyomu.jp/works/1177354054893763081 2002年、高校2年生の天津燈子(あまつ すみこ)(すーちゃん)と市杵京子(いちき きょうこ)のお話。燈子は文芸部に、京子は茶道部に所属しています。
作中にも記述があるように、彼女たちは少々厳しい家庭で育ったが故周りと話が合わず、「自分たちは『普通』になれない」と思い悩んだ末に自分の方から(彼女たちの思う)『普通』を突き放すようになった──という、似た者同士の女の子です。
天津家は母親が、市杵家は父親が厳格です。とにかく二人とも世間の流行や動きに鈍いですし、彼女たちの方も、十七年もその状態で暮らしていたものですから最早流行如きに興味もありません。世間は移ろうのです。知識は定着するもので、少なくとも自分たちが生きている間はそうそう頻繁に変わることはないのですから、移ろうものなど知っても仕方ない、そう思っているのかもしれません。
燈子はいわゆる文学少女で、時代錯誤な三つ編みと丸眼鏡をしています。彼女たちの高校の制服はセーラー服なので、本当に昭和から抜け出して来たかのような様相です。セーラー服ってスカート折るんですかね。木染(わたし)が中高共にブレザーだったので適当なことを書いてしまいました。まぁ折るんでしょう、たぶん(適当)。
彼女はよく本を読みますし物語を書きます。他にやることがなかったのです。天津家ではテレビもゲームも使えないので。本は幼少期から好きでしたが、小説を書き始めたのは高校で文芸部に入ってからです。
彼女の家は父親よりも母親が厳格で、何をするにも大抵制限があります。自分の家が若干おかしいことには割と早くから気付いていたらしいです。天津颯葵という名の、五つ歳上の姉が一人います。
京子の方は父親が厳格な家に生まれており、茶道部にも父親に言われて入りました。いつも家にいる母親が厳格な燈子は無意識にいろんなことを抑圧して、自分の方から『普通』を突き放したふりをして生きています。しかし京子の方は、父親が家にいない時間が長いため、とりあえず父親に見つからなければいいと思っています。これが後々、二人の悲しい差に繋がってくるわけです(露骨な匂わせ)。
燈子と違って京子は一人っ子で、自分の家がおかしいと気付いたのはかなり最近になってかららしいです。おかしいおかしいとは言っても取り立てて問題にする程ではなく、しかしだからこそ彼女たちは生きづらいのですがね。
彼女たちの『高校生』という期間は、二人の人生でほんの一瞬価値観が重なり合う瞬間で、彼女らが出会うのがこれより前でも後でも友達にはなれなかったのだと思います。そして、出会えた彼女たちの人生に、お互いの存在は大きな影響を与えるでしょう。
彼女らの『普通じゃない』というのは、周りからの評価のメタ認知であって、彼女たち自身が『自分たちはおかしい』と思っているわけではないのではないか、個人的にはそう思っています。実際おかしいわけではないのですし。自分たちを肯定しているからこそ、周りの否定されたような気になって、周りとは上手く馴染めないのでしょう。
『普通』とは何か。この物語を書くにあたって、作者もいろいろ考えました。作者も変わり者の部類であり、燈子や京子と同じように『普通』になれなかった人間でもあります。誰よりも『普通』に焦がれていたような気がしますし、今でも、失われて戻らない時間を求めそうになります。
この物語は、『普通』の概念に振り回されたことのある、全ての人たちに贈りたく思います。