第1話

『わからないもの』の正体を暴くことに、一体何の意味があるというのだろう。暴いて選り分けて名前をつけて、優劣を善悪を定めることに、意義があるというのだろうか。

 本当に正しい物なんて、わからないくせに。


 普通とは違う怪しい形をしていること。また、そのさま。異様の古語的表現。異形、と辞書で引けば、そのような簡単な説明文の横に言葉が続いている。

 狭義では、人間以外の化け物の形容。そう続けられた一文を指でなぞり、少女はつまらなそうに溜息を吐いた。年のほどは14歳くらいだろうか、彼女は辞書を閉じ、そのまま机に手をついて立ち上がる。少女の白いワンピースがひらりと揺れた。小さな衝撃が木製の粗末な机に伝わり、机の上に置かれた白いティーカップの中のミルクティーが波紋を立て、危うく零れそうになる。

 しかし少女は気にせず辞書を両手で抱え上げた。大人用の、大きく分厚い辞書は少々彼女の小さな手には重たいらしい。

 先ほどまで座っていた小さな木の椅子が邪魔だったので足でどかした。足でどかすなんて、行儀が悪いと怒られてしまうかしら。でも、ばれなければ大丈夫よね。少女は一人言い聞かせて辞書を抱え、部屋の隅の本棚へ向かう。小さな部屋なので、机と本棚の距離はそうない。少女の小さな数歩で到着した本棚の、一番下の段に辞書をしまった。


「異形って、化け物のことなのね」

 辞書の一文を思い出し、少女は一人呟く。

「それじゃ、私は人間じゃなくって、化け物なのかしら」

 赤い瞳を、どこか遠くを思い出すように伏せた少女の、白いワンピースの両の肩紐の一つが、肩から滑り落ちた。その肩胛骨のあたりからは、鳩のような白く大きい羽根が生えている。


 とんとんと軽快な音を立てて緩やかな階段を下りていく。白い鳩の羽根が生えた少女アンゼリカからは先程までの物憂げな雰囲気はどこかに消えており、普段の彼女らしい快活な足取りで進んでいく。

 彼女が、一人の同居人とともに住まうこの家はさして広くはない小さなログハウスである。木製の粗末な造りではあるが、香しい森の匂いがするこの家がアンゼリカは好きだった。

 階段を下りきり、廊下を少し歩いて突き当たりの角を曲がれば小さな木の扉の前に出る。扉の奥からはパンの焼ける匂いがした。同時に、彼女の好きなコーンスープの匂いも嗅ぎとって、知らず頬が緩む。先程よりもさらに軽い足取りで扉までの数歩を辿り、勢いよく扉を開けた。

「お早うアンゼリカ、今日も元気だね」

 扉が開く音に、部屋にいた男が振り向く。キッチンに立って包丁を握る男はサラダを用意していたところだったらしく、片手に赤く熟れたトマトを持っていた。

「おはよう、ローガン。ねぇお腹すいたわ!」

「もう少しで用意ができるから、座って待っておいで」

 ローガンに言われるままに素直にアンゼリカは食卓の己の椅子に座る。いい子だね、とローガンは笑って青い目を愛しげに細めた。



 『異形』と、そう呼ばれる人間が現れるようになったのは、ここ数十年のことだ。

 普通の人間の腹から稀に、人間の形はしているものの翼が生えていたりだとか、体中が石で覆われていたりだとか、獣の耳や尻尾が生えていたりだとか、そういった普通ではないモノが生まれ出るのである。原因は不明。何らかの有害物質が妊婦の体に取り込まれてしまったのだとか、悪魔が人間の腹を借りて降臨したのだとか、科学的なものから非科学的なものまでいろいろな説が飛び交った。科学者は生まれた異形の赤ん坊を研究サンプルとして調べたが、成果は得られなかった。彼らはその外見の他には、遺伝子にも細胞にも異変は見あたらなかったのだ。

 人々はこの、わけのわからない存在に嫌悪を覚えた。異形を生み落とした母親は――妊娠中にどれだけ健康であったとしても――皆、出産してすぐに死亡したことも、また異形への恐怖を煽った。異形として生まれた者達が、迫害対象になるのにそう時間はかからなかった。


 アンゼリカもまた、迫害を受ける異形の一人であった。母親はやはりアンジェリカを生んですぐに死んだ。母親は娼婦で、父親はわからない。おそらく母の客の一人であったのだろう。

 アンゼリカの背中から生えた白い鳩の羽根はよく目立った。そして、彼女の色素の抜けた白い髪と赤い瞳によく映えて、恐ろしいまでに美しかった。

 異形の多くは、生まれ落ちた瞬間に殺される。守ってくれる者はいない。異形が生き延びられることがあるとすれば、生まれてすぐに物好きな金持ちの目にでも留まり、奴隷かペットとして飼われるくらいなものだ。アンゼリカは後者だった。物心ついた時にはすでに檻の中で、金持ちを悦ばせるための鑑賞用動物であった。その檻が壊れたのは、数年前のことだ。

 その日のことを、アンゼリカは今でも鮮明に覚えている。何でもない日だった。其れは突如起こった。

 まず、屋敷の主の娘の首が飛んだ。その父親である屋敷の主の、でっぷりと太った男が叫ぶ前に、その首も刎ねられた。突然の出来事に、側にいた男の妻が失神した。倒れた妻の胸元に剣が突き刺さり、声もなく絶命した。メイドが異常に気づいて金切り声を上げ、その声に使用人が集まった。集まった側から首を刎ねられて血の池に沈んで、やがて美しい屋敷は、血の臭いが充満する真っ赤な地獄絵図と化した。

 その惨状を作り出した男にアンゼリカは見覚えがあった。彼は屋敷の娘の恋人だった男だった。先程まで、娘と楽しそうに話していた男が、突如屋敷のすべての人間を皆殺しにしたのである。もはや、生存者は剣を片手に握って肩で息をするその男と、檻の中の彼女だけであった。

 暫くぼうっと死体の山を眺めていた男は、漸く囚われた異形の少女の存在に気付いたように檻に視線をよこした。茶髪の奥から覗く青い目はどこか虚ろである。まるで自分が何をしたのかを理解していないような目だ。

「私も殺すの?」

 突然に、少女らしい高いソプラノが部屋に響く。

 その大量殺人の場には似つかわしくない、穏やかな声音だった。彼女の問いかけに漸く男の目が感情を宿した。青い目を少し見開いて、その言葉に驚いているようだった。

「……君は、」

 少し躊躇って、男が口を開く。

「君は死を、恐れていないようだ」

「どうして恐れることがあるの?」

 今度は笑みを浮かべ、再び問いかけた。

 彼女には死への恐怖も、男への恐怖もなく、それどころか目の前で残虐な大量殺人を犯したこの男に、一抹の愛しささえ感じていた。

「私は生まれた頃からずっとこの檻の中にいるのよ、そう、ずっと。生き延びたとしてきっと生きてもいけない。生き方なんてわからないし、生きる理由もないわ。ここで死ぬことになったとして、それの何を恐れるというのかしら」

「……そうか、それも、そうだ」

 少しの沈黙の後、男は納得したように頷いた。青い瞳はもう虚ろではなかった。

 男が剣の切っ先を払って血を振り落とし、そのまま剣の先を横に倒して、檻を横から切りつけた。存外、檻は簡単に切れた。もう一度角度を変えて横から斬りつければ、檻だった鉄の棒の並びは一部が切り抜かれてカランコロンと床に転がった。檻に、ちょうど子供が一人抜け出せるほどの穴が開いた。

「殺さないよ」

 男が微笑んだ。檻に一歩近づいて彼女に手をさしのべる。


「僕が君の生きる理由になろう。僕が君を生かしてあげる。一緒に行こう」


「……あら、それじゃまるで、あなたは悪い魔王を倒した王子様のようね」

 屋敷の娘が読んでいた絵本を思い出して、少女は言った。王子様は殺人鬼にはならないのだ。どれだけ魔物を殺しても、魔王を殺しても。お姫様を助けるためなのだから、その殺しは正当になるのだ。彼女には、その男がそんな、血みどろで美しい、素敵な王子様に見えた。

「それじゃあ君は囚われのお姫様か」

 そう笑んで、男の視線は少女の顔から翼に移った。背中から大きく広がる、白い鳩の羽根。彼女がここにいる原因。それを見て、男は笑みを深める。

「いや、お姫様よりは、天使かな」

 彼女が男の手を取って檻から抜け出た。初めて見る鉄格子のない景色は赤色に染まった殺人現場であった。少女がゆるりと己の羽根を見て、大げさね、と溜息混じりにぼやいた。

「この羽根、形だけは立派だけれど飛べないわよ」

「そうなのか、それは残念。それじゃ君は飛べない天使だ」

 血塗れの王子にはぴったりだね、と男は笑って、次いで「僕はローガンというんだ」と己の名を名乗った。


 それがローガンとアンゼリカの出会いであった。アンゼリカ、という名はローガンがつけた。天使を意味する言葉なのだと言った。君の羽根は天使のようだからと笑って、ローガンはアンゼリカになった少女の白銀の髪を撫でた。

 貴族の家を一つ皆殺しにしたローガンは、当然ながら指名手配の大罪人となり、ローガンはアンゼリカを連れて速やかに隣国へ移ることになった。

 そんな彼は、しかし、アンゼリカという荷物を抱えているとは思えないほど手際よく逃亡に成功した。慣れているようでもあった。人を殺したのは、あの時が初めてではないのではないか。そうアンゼリカは思ったが、今なお聞けないでいる。


 そして二人が隣国へ逃亡し、人目を避けるように森の奥にあった小さな小屋で暮らし始めて、二年になった。

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