第18話

 息が切れる。己の心臓の音が煩い。片方の靴が脱げた事など気にならなかった。ただ走って、走って。向かうのは反狼の牙のアジトであるはずの場所だ。整備されていない地面は鋭い石があちらこちらに転がり、走るルゥとレオナの靴が脱げた裸の足を容赦なく傷つける。しかしそんなことに構ってはいられない。彼らは走らねばならなかった。早く、早く、あの場所へ。

 今日はルゥとレオナが遠くに行って情報収集をする日だった。当番制のその仕事は最低でも丸一日はかかるため、昨日からアジトを離れていた二人は、しかし今、全力でアジトへの道を急いでいた。ローブは羽織っているものの、風で捲れて彼らの姿を隠す役割を果たしていない。人気がない時間帯とはいえ、それは自殺行為とも言えた。だが彼らはそんなことにも頓着している暇はなかった。その情報を、聞いてしまったからだ。

「……っ軍の、兵器実験って、何だよ……!」

 ルゥが走りながら吐き捨てる。レオナは答えることが出来ずに唇を噛み締めた。


 二人が掴んだ情報は、今日この日に、彼らの住処である森とその奥の廃墟で軍の新型兵器である鉄の塊を走らせ、起動実験をするというものだった。

 強力な火砲を搭載した旋回砲塔と頑丈な装甲を装備した、履帯による高い不整地走破能力を持った軍用車両。『戦車』と名付けられたそれを、あの森で走らせ、あの廃墟に大砲を撃ち込むというのだ。そんなことをされればどうなるか、容易に想像が付く。今あのアジトには、反狼の牙のメンバーの殆どが集まっているはずだ。

 どうして、もっと早く情報を掴めなかったのか。どうして、こんなことになったのか。どうして軍はあの場所を選んだのか……後悔や疑問は山ほどある。だが今はそんなことを考えている暇はなかった。ただ急がなければならなかった。間に合うとは思えない。だがもしかしたら、皆、何とか逃げ切っているかもしれない。もしかしたら、軍の実験が延期になるかもしれない。もしかしたら、そんな情報はデマかもしれない。そんな、可能性の低すぎる『もしかしたら』を、それでも信じて走る以外、ルゥ達に出来ることはなかった。それは祈りに近かった。それでも、そうでもしなければ走るどころか、立っていられなかった。殆どやけくそに、二人は走った。レオナに至っては涙目になっている。いつも気丈な彼女のそれをルゥには指摘することは出来なかった。自分も、気を引き締めていなければ泣いてしまいそうだったからだ。

「無事で、いてくれ……っ!」

 絞り出した声はみっともなく震えた。赤い赤い夕日がルゥ達を照らす。怖いくらいに真っ赤な空はあまりに不吉で、それも彼らの不安を煽った。

 ルゥの脳裏に映ったのは、熊の両手の、お調子者で少し気弱で、とても優しい弟の笑顔だ。その笑顔を守りたかった。

 そうだ、初めは革命なんて考えちゃいなかった。ただ生きたかった。それだけだったんだ。弟を、仲間を、そして自分を、守りたいだけだったのに。


「……っ畜生……!」


 ああ、どうして、こんなことになってしまったんだっけ。

 もう思い出せないんだ。俺は、何がしたかったんだっけ?



 熱い。

 熱くて熱くてたまらない。

 腕を動かそうとして、自分の腕がもう無いことに気付いた。

 普通の人とは違う腕。熊の形をした腕。自分が、ずっとずっと苦しんできた、その原因。だけれども、無くなってしまったら、それはそれで寂しいな、と、ウルソンはぼんやりと考えていた。

 人は存外丈夫らしい。両腕が吹き飛んで、顔は焼き爛れているのが分かるのに、ウルソンは未だに意識を保っていた。痛くはなかった。ただただ、熱い。炎に焼かれているみたいだ。

 ――それは突然だった。

 見たこともないような大きい鉄の塊が、地面を抉って木をなぎ倒してやって来たかと思えば、それはレジスタンスのアジトである廃墟に、なにか黒い球体を撃ち込んできた。

 黒い球体は爆発して、廃墟を瓦礫よりももっと粉々にしてしまった。それは一瞬だった。今日は、ルゥとレオナ以外のメンバーがアジトに集まっていた日だった。間が悪かった、としか言いようがない。

 首を動かして、何とか周りの様子をうかがおうとした。しかしそれは無駄であった。

 首は動いても、ウルソンの目はもう何も映してはくれなかった。


 何故ばれたのか。分からない。

 何故王はこのアジトをここまで容赦なく破壊することを選んだのか。分からない。

 もう何も、分からない。

 ただ一つ分かるのは、この国の王は反狼の牙を、異形を、きっと人間とは見ていなかったのだと言うことだ。


 ああ熱い。酷く熱い。目頭が熱いのはきっと大砲のせいだけではない。

 悔しい。あんな鉄の塊に、あんな一瞬で、反狼の牙が、おれ達が今まで積み上げてきたものを奪われてしまうなんて。

 どうしようもなかった。ああ、どうしようもなかったのかもしれない。所詮おれ達みたいな子供が集まった集団が、世界を変えるなんて無理だったのかもしれない。

 悔しいよ。酷く悔しい。ルゥ、ルゥ。ごめんな、ルゥ。

 ルゥが積み上げてきたもの、壊されちゃった。

 ルゥとレオナは助かったのかな。ここにいなかったから、あの黒い鉄球に殺されることは無かっただろう。どこかで軍人に捕まっていなければいいな。逃げ切ってほしいな。

 ルゥがいるなら、まだ、反狼は死んでないよ。

 だってルゥだもんな。反狼の牙を作り上げてきたのはあんただもんな。

 ルゥは真っ直ぐで、強くて、優しい、おれの自慢の兄ちゃんだよ。

 多分、ルゥならまた立ち上がれるよ。

 なぁ、ルゥ。


 あんたが変えた世界を、おれも見たかったな。



 夕焼けが古びた教会を照らした。天井の穴から漏れた赤い光がアンゼリカの顔を照らして、その眩しさに目を覚ました。

「アンゼリカ、おはよう」

 並べられた長椅子の一つに座りアンゼリカを膝に抱えていたローガンが、微笑んで寝ぼけ眼のアンゼリカの頭を撫でる。

 いつからこうしていたのだろう。泣き疲れて眠ってしまったのだろうか、そんなことを、アンゼリカはぼんやりとした頭で考えた。

 ――もしかしたら、今日のローガンの告白やプロポーズも夢だったのかもしれない。そんなことも思った。しかしそれを彼女の左手の薬指に嵌められた、赤い宝石がついた銀の指輪が否定する。

 キスを交わした後、ローガンが彼女に嵌めてくれたものだ。その指輪を見ると、なんだかむず痒いような恥ずかしいような、そんな気持ちになる。しかし確かに幸福感に満たされて、アンゼリカは少し頬を染めて微笑んだ。

 そんなアンゼリカを見ながら口元に笑みを浮かべるローガンに、そういえば、とアンゼリカは朝に疑問に思っていたことを聞いてみた。

「ねぇローガン、今日、軍がするっていうイベントってどんなのだったの?」

「アンゼリカ、興味があったのかい?」

「興味っていうか、お祭りなら市場は盛り上がるはずじゃない? でも市場も閉まるっていうから、どういうことするのかなって」

「ああ、そういうことか」

 ローガンは相変わらず優しく微笑んだまま、それはね、と答えを紡いだ。


「軍の、兵器実験だよ。森を通って、奥の廃墟を焼き払うんだ。僕達が住んでいる小屋までは来ないけれどね。だけど森はぼろぼろだろうから、引っ越さないといけないね」


 しかし、こともなげに発せられたその答えは、アンゼリカには衝撃的すぎるものだった。

「……焼き、払う?」

「そう。どうやらその廃墟は『不穏分子』の溜まり場になっていたようでね。彼らの処分もかねての、一大イベントだよ。昼頃に行われる予定だったそうだから、もうそろそろ終わっている時間じゃないかな」

 さぁっと、アンゼリカの血の気が引いた。普段から色素が薄く白い肌がさらに色を失う。脳裏に浮かんだのはルゥやウルソン、レオナ達の顔だ。不穏分子、とは反狼の牙のことに違いない。

 殆ど反射的に、ローガンの膝から飛び上がった。長椅子の背もたれにかけられていた己のローブを取って、被りながら教会を飛び出る。勢いよく開けられた古びた扉は壁にぶち当たってへしゃげた。

 ――ローガンはそれを止めなかった。アンゼリカが跳ね起きたときに彼女から落ちたベールを拾って、鞄に詰める。

 淡々と片付けて、帰る準備をしながら、ふと彼は顔を上げてステンドグラスの聖母を見上げる。

「ごめんね、アンゼリカ」

 彼のその表情を、ただ聖母だけが見ていた。

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