第19話

 アンゼリカは走った。体力があるとはいえない彼女はすぐに息を切らしてしまう。時々転びかけながらも、しかし彼女は走る足を止めなかった。途中ローブが捲れて彼女の顔が露わになる。夕焼けが容赦なく彼女の白い肌を焼いた。それも気にせず彼女は走り続けた。

 道は単純で、迷うことなくその森はやがて視界に映るようになった。まだ走って、走って。人気はなかった。軍の実験を知っているからだろう。危険な場所にわざわざ行くような物好きはいるまい。いたとしても、もう帰っているはずだ。軍のイベントが終われば残るのは破壊された残骸だけなのだから。


 ――森の入り口に着く頃には、夜も更けていた。月明かりしかない森は、一目で分かるほどぼろぼろに破壊されている。木々は木っ端微塵になり、地面は何か巨大なものが無理矢理通ったのであろうか、抉られてぐちゃぐちゃになっていた。鬱蒼とした森は木々がなぎ払われたせいで光を遮るものがなくなり、いっそ明るくすら感じる。

 頭が真っ白になる。足が竦んで動けない。アンゼリカは自分の体が小刻みに震えているのが分かった。こんな、森をここまで破壊してしまうようなものが、あのアジトに乗り込んだのだろうか。そう思うと体の震えが止まらなかった。

 どれだけの人があのアジトにいたのだろう。どれだけの人が犠牲になったのだろう。

 喉の奥に何か酸っぱいものがこみ上げて、思わず口を手で抑える。体がよろめいた。倒れそうになる体を何とか両足で支え、森を改めて見つめる。ここで立ち止まっていてはいけない。行かなければ。震える足を一歩踏み出した。行って何が変わるか、アンゼリカに何が出来るのか。何のために行くのか。アンゼリカには分からなかった。だが何故か、行かなければならない気がした。

 でこぼこになった地面をなんとか踏み越えて、アンゼリカはアジトがあるはずの場所にたどり着く。廃墟だったそこは、最早、瓦礫さえ粉々に砕け、殆ど更地と化していた。

 怖いほど静かだ。いつもの明るさも喧噪もない。人の気配はなかった。泣きそうになりながらも、アンゼリカは何とか進もうとした。誰か、生きている人がいないか。歩こうとして、何かが足に当たって下を見た。

 そこにあったのは、千切られた人の腕だった。

「……っひぃ……っ!」

 反射的に後退る。爆風で飛ばされたのだろう、その腕は見るも無惨に焼け爛れていた。

 その腕を、アンゼリカは知っていた。

 アンゼリカより遙かに色の濃いそれはアルフレッドのものだった。アンゼリカは泣きそうになって、しかし泣くまいと頭を振った。泣く資格は無いと思った。


 ――だってこうなったのは、もしかしたら。


 頭を振った。今は、その思考を止めたかった。進まなければと、義務感に似た何かがアンゼリカの足を動かした。

 視界に入るのは粉々になった瓦礫か、人体の一部か、だ。首や手や足、時に内蔵が転がるそこは、地獄絵図と言っていい。その殆どが焼き爛れて炭と化していたのは救いだったのか、アンゼリカには分からない。



 ――更地と化した、反狼の牙のメンバーが集まる広場であった場所に、へたり込む黒髪の少年と、立ちすくむ赤毛の少女の後ろ姿があった。漸く見つけた生きた人間の姿に、アンゼリカははっとして駆け寄る。ルゥとレオナであった。

「……アンゼリカ」

 まずアンゼリカに気がついたのはレオナだった。泣き腫らした目で、呆然とアンゼリカを見るレオナにいつもの気丈さは無い。ルゥもレオナの声でアンゼリカの存在に気がついたのだろう、ゆるりと振り向いた。

「……ルゥ、レオナ……」

「……アンゼリカ、お前は、このことを知っていたのか」

 ルゥの問いに慌てて首を横に振る。ルゥはそれを見て、そうか、とだけ言って、また俯いた。

 そこで気がついた。ルゥが、横たわるウルソンを抱きかかえていることに。ウルソンの幼い顔は焼き爛れて、半分は原形を留めていない。ルゥの瞳は淀んで、ぼんやりとウルソンだったものを見ていた。

「アンゼリカ、お前のせいじゃない」

 ルゥが呟くように零した。まるで自分に言い聞かせているようでもあった。

「俺が、甘かったんだ。どこかで情報が漏れた。……国は、どうしても、俺達が邪魔だったみたいだな」

「……ルゥ、あんたはよくやっていたよ……!」

 レオナが膝をついてルゥの頭を抱きしめた。ルゥはされるがままに、レオナに体を預ける。狼のようだった瞳は虚ろで、光を宿してはいなかった。

 アンゼリカはそんな二人に、かける言葉を持たない。口をつぐんで俯いた。ルゥが抱きかかえるウルソンの、熊の腕はなかった。きっと爆風でどこかに吹き飛んでしまったのだろう。腕がないと、本当に異形でない人間とも遜色ない。

「……俺達は、間違っていたんだろうか」

 ルゥがぼんやりと呟いた。


「俺達は、ただ、自由を求めていたんだ。それだけだったんだ。それだけなのに、それが罪なのか」


 レオナもアンゼリカも、答えることは出来なかった。レオナは泣いていた。ルゥの、石に覆われていない右目から、一筋の涙をこぼした。

 アンゼリカは、泣けなかった。泣いてはいけなかった。


 三人は手分けしてばらばらになった仲間達の体を拾い、簡易的にだが墓を作った。勿論、拾いきれなかった仲間の体もあるだろう。しかし、彼らにはそれ以上のことは出来ないのだ。それ以上のことが出来る力を、彼らは持ち合わせていなかった。

 終わる頃には日が昇りかけていて、白い朝日が三人を優しく照らしている。跪いて、墓に黙祷を捧げていたルゥが立ち上がった。レオナが黙ってその隣に立つ。彼らは、ゆっくりとアンゼリカに向き直った。

 ルゥがアンゼリカをじっと見る。月明かりがルゥの瞳にかかった。ただ、アンバーの瞳は、月明かりに照らされても金色には光らなかった。

「アンゼリカ、俺達はこの国から出て行く」

 ルゥはまっすぐにアンゼリカを見つめている。彼は人と話すときは目をそらさない、そういう人だ。

「お前は、どうしたい。これで最後だ」

「……最後まで、ルゥは私に選ばせるのね」

 アンゼリカが微笑んだ。ルゥは目をそらさない。相変わらず眉間に皺が刻まれているままだ。


「ルゥ、私、あなたのこと好きよ」

「そうか」

「レオナのことも好き。ウルソン達……反狼の牙の人達も、大好きだったわ、みんな」

「ああ」

「……私は、一緒には行けない」


 アンゼリカも、まっすぐにルゥの目を見て告げた。レオナが何かもの言いたげに口を開いたが、声を出すことなくそのまま口を閉じる。

 ルゥはその答えに、反論することも追求することもなく、ただ、そうか、とだけ言って目を伏せた。そうして己のローブを被り、アンゼリカに背を向ける。

「行くぞ、レオナ」

「……うん」

 レオナは一度アンゼリカの方を見て、ルゥ同様にローブを被って彼の後を追った。遠ざかる二つの影を、アンゼリカは見えなくなるまでそこで見送っていた。

 完全に影が見えなくなって、漸くアンジェリカも、二人が行った方向とは逆の方に歩き出す。向かうのは勿論、あの小屋だ。きっとローガンはすでに帰っているだろうから。

 アンゼリカには、確かめなければならないことがあった。

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