第20話
「お帰り、アンゼリカ」
ローガンはいつも食事をしているダイニングで、椅子に腰掛けて己の剣を研いでいた。
いつも通り優しく微笑む彼は、アンゼリカが教会を飛び出してどこかに行ったことを怒るつもりはないようだった。初めてルゥ達と会ったあの日、アンゼリカが外に行ったことを知った彼は怖いほどに迫ってきたのに。
アンゼリカは、もったいぶるつもりはなかった。椅子に腰掛けるローガンに歩み寄る。
殆ど確認に近い質問を、彼に投げかけるために。
「ローガン」
「どうしたの、アンゼリカ」
「レジスタンスのアジトの場所を、軍に教えたのはあなたでしょう?」
ローガンは微笑みを崩さなかった。それは肯定を意味する笑顔だ。そうだよ、と。そう言って、彼は笑った。
「……弁解しないのね」
「したって意味はないだろう、アンゼリカ。君はもう確信を持っているんだから」
剣を持ったまま、彼は立ち上がってアンゼリカの横を通り過ぎて、部屋の真ん中に立つ。舞台上の役者のように腕を広げて、彼女に微笑みかけた。
「国は随分と、反狼の牙という異形の反乱集団に手を焼いていたらしいね。アジトの場所を教える、といったらものすごい勢いで食いついてきたよ。褒美のお金も大量に貰った。アンゼリカ、指輪とベールは気に入ってくれた? あれはね、そのお金で買ったものなんだよ。とても良いものを買ったんだ。その二つで褒美のお金を使い果たしてしまうくらい」
にこやかに語るローガンはいつも通りだ。いつも通りの優しい笑顔で、悪魔の告白を並べる。あの日アンゼリカを檻から出したのは王子様ではなかった。初めから、彼は王子様ではなく、魔王だったのだろう。初めから、そうだ、知っていたではないか。アンゼリカはそんな彼を愛したのだ。
思わず、笑みがこぼれてしまう。微笑みを浮かべたアンゼリカを見て、それとは反対にローガンは不思議そうな顔をした。
「……それで、今度は私を国に差し出すのかしら、ローガン」
「そんなわけないじゃないか! 昨日言った言葉は本当なんだよアンゼリカ。僕は君を愛しているんだ」
アンゼリカの言葉に、ローガンが心外だとでもいうように首を振った。次いで、その顔は切なそうに歪められる。
「……僕はね、アンゼリカ。君はもうここに戻ってこないだろうと思っていたよ。一人ではどうしようもないだろうが、それでも君の大事な彼らを殺した僕の元に戻るくらいなら無謀だって冒すだろうと」
「……そうね。ルゥ達と一緒に行く選択肢もあったわね」
「なんだ、生き残りがいたのか」
ローガンが肩を落とした。剣がかしゃりと音を立てる。首を傾げて、ローガンはアンゼリカを見た。
「だったらどうして戻ってきたの? 仇の所になんか」
ああ、ローガンは分かっていない。
分かっていないからこんな事が言えるのだ。アンゼリカはまた、笑ってしまった。何故だかとてもおかしかった。
「……ローガンは、相変わらず分かってないのね。まだ気付かないのかしら」
アンゼリカがローガンに足を一歩踏み出した。ローガンが虚を突かれた顔をする。
構わず距離を詰めていくアンゼリカの足取りに迷いはない。一歩、また一歩と進んで、遂にローガンの目の前にアンゼリカは立った。背伸びをしてローガンの肩に触れ、その肩を引き寄せて、彼が屈む形になったことで漸く、アンゼリカがローガンの唇に己のそれを合わせられる距離になる。
アンゼリカの白い羽根が揺れた。
「ローガン、私はね、あなたのこと愛してるのよ」
ローガンが目を見開いた。無防備な唇に、触れるだけのキスをして、アンゼリカは微笑む。
「ルゥ達は好きよ。だけど、私が愛しているのはローガンなの。私はずっと、ローガンしか愛してないのよ。あなたになら、私、殺されても利用されても構わないの。あなたとなら不幸になっても構わないの」
ローガンは私を天使と言ったわね、あの日、檻から出したあの日に。でもそれは間違っていたわ。
アンゼリカは心でそう呟きながら、微笑んだまま殆ど口を止めずに語り出す。
「ねぇローガン、私がどうして反狼の牙のアジトに通っていたのか教えてあげましょうか。私はね、あの日あなたが私の外出を問い詰めたとき、とても怖かったわ。いつもと全然違うあなたが恐ろしかったわ。だけれどね、同時にとても嬉しかったの。あなたが私の行動で、そんな風に感情を荒げたことがとても喜ばしかったの。だからね、私は反狼の牙に通ったのよ。あなたに秘密で。あなたから逃げたかったわけじゃないわ。何度も何度も積み重ねて、あなたがそれを知ったとき、どんな風に私を責めるのか知りたかったの。……同時に、あなたに嫌われるのが怖くて、隠したのだけれど。……ねえ、歪んでいるかしら? 矛盾しているかしら? それでも、これが私の愛なのよ。……ふふ、私ね、教会で言った『いつか』が、こんなに早く来るとは思わなかったわ」
ローガンがあの廃教会で愛を誓ってくれた。今、それが本当なのだと言ってくれた。その愛のためにウルソン達を殺したローガンもまた、アンゼリカと同じようにうつくしい人ではなかったのだ。それがたまらなく嬉しかった。
今なら胸を張って言えるのだ。私は、ローガンを愛している。心の底から愛している。
歪んでいるとか、間違っているとか、そんなことはどうでもいい。これが自分の愛なのだと、そう胸を張って言えるなら、それで構わない。ねぇレオナ、そうでしょう? 何より、もうローガンに隠していることはないのだから。
ローガンが目を見開いたまま、口を一度、開いて、また閉じた。何か言葉を探しているようだった。
少しの沈黙が流れる。
「……アンゼリカ、僕の話を聞いてくれないか」
ローガンがアンゼリカを抱きしめて、小さくこぼした。アンゼリカは返事の代わりにその広い背中に腕を回す。
「僕はね、アンゼリカ。ずっと君を愛していた。あの日、君をあの屋敷の檻から出した日から、そして今も、愛している。……だけど、それを君に告げられなかった。君が僕を好きだと言ってくれても、応えられなかった。なぜだか分かる?」
アンゼリカが答える前に、ローガンはまた口を開く。
「きっと僕は、君に愛していると告げてしまえば、あの日を繰り返してしまうからだよ」
あの日、とは、彼があの屋敷でかつて彼の恋人であった娘を殺し、その家族を殺し使用人を殺したあの日であろう。ローガンがアンゼリカから少し体を離して、彼女の頬を撫でる。
「アンゼリカ、君は自分の愛が歪んでいると言った。だけどね、僕の方がもっと歪んでいるんだよ」
僕は病気なんだ、とローガンは笑った。その青い目には涙が浮かんでいた。
「僕はね、アンゼリカ。誰かを愛おしいと思えば思うほど、その人を殺したくて壊したくて堪らなくなる、そんな病気にかかっているんだ。生まれた頃から」
ローガンが腕を少し動かすと、また剣が軽い金属音を鳴らした。彼は静かに、語り出す。
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