第14話

 夜もどっぷりと更けて、森は深い闇が広がっている。

 ローガンはランタンも付けずに、森で耳を澄ませていた。彼は今日の商売を定時より早い時刻に切り上げた後、森の、以前彼が声を聞いた場所で待ちかまえていた。また、その声がやってくるのを、だ。

 ローガンが今日アンゼリカに遅くなると言ったのは、このためだった。ローガンはあの声の正体を、何が何でも突き止めなければならなかったのだ。

 もし仮に、その声がストリートチルドレンのものであったとしても、反狼の牙のものであったとしても、彼は何かしらの対応を考えなくてはならなかった。何故ならこの森にはアンゼリカがいる。小屋がその声の持ち主達に見つかってしまう可能性をローガンは危惧しなければならない。

 例えばストリートチルドレンであるならば、小屋を見つけて、その小屋に人がいないと判断すれば――正確にはアンゼリカがいるのだが、彼女以外に誰も居ない小屋はそう騒がしくはならないので誰もいないと勘違いしてもおかしくない――彼らは確実に、何か有用なものがないか盗みにはいるだろう。そうなれば、アンゼリカが危険にさらされることになる。

 また、反狼の牙のメンバーであったならば――事はもっと深刻だ。アンゼリカが、反狼の牙の存在を知ってしまう。それは絶対に避けなければならなかった。もしもアンゼリカが知ってしまえば、もしも彼女が革命に興味を持ってしまえば。彼女が、ローガンから離れ、反狼の牙のメンバーと共に行くことを選んでしまえば。

 そんなことは駄目だ。小さく震えたローガンの、腰に備わった剣がかちゃりと鳴った。

 兎も角、ローガンは声の主を突き止める必要があった。彼らが今日ここを通るという保証はない。もしかしたらたまたま遠くから来ていただけだったかもしれない。或いはストリートチルドレンでも反狼の牙のメンバーでもなく、ただこの森を通過点として通っただけの旅人だったかもしれない。

 出来れば最後の可能性であればいいと思った。もう一度、住処を探し直すのは実に手間な上にリスクが高い。


 ――どれくらい時間が経っただろうか。ローガンの耳に、昨日と同じ少年の声が聞こえた。

 今度はもう一つの声は女の声だった。

 ローガンは気配を消し足音を消して、静かに声に近づいていく。声はローガンの存在には全く気がついていないようで、構わず話し続けている。

 ある程度近づいたところで、少年達の会話内容が少し分かるようになってきた。

「今日はあんまり新しい情報は無かったな」

 一つの声がそう言った。

 情報を集めに出ていたのか、とローガンは思った。ここで、ストリートチルドレンの可能性は一気に低くなる。

「まあ仕方ないさ、そう簡単にはいかないもんだろ」

 もう一人の女の声がそう返す。これだけではどうも何者かまでは特定しようがない。だがどうやら組織的なグループの一員であるようだ。反狼の牙、その言葉がローガンの脳裏に浮かんだ。

 もっと何か無いだろうか。もっと、彼らが何者かを特定できるような。

 耳を澄ませて、喋りながら歩く彼らの後を密かに追う。彼らも大声で話しているわけではないので、所々声はとぎれて聞こえなかった。

 反狼の牙であるか否かは、姿を見ることが出来ればすぐに分かったのだろう。だが森はあまりに暗く、いくらずっとランタンを付けずにいて目が闇に慣れてきたといえど、流石に少しの距離がある声の主達の姿までは視認できない。だからこそ、見つからずに盗み聞きが出来ているのだが。

 今、ローガンがその声から得られる情報は聴覚のものしかない。声が、もっと明確な情報を落とすのを、ただただローガンは待ちかまえた。

 そして、それは訪れる。


「そういえばさ、アンゼリカだけど」

「アンゼリカ?」

「うん、あいつさ、いつ反狼の牙に入るんだろうな」


 ローガンはその声の会話に、雷土に撃たれたような衝撃を受けた。

 思わず立ち止まる。声の主が反狼の牙のメンバーだと分かったことも、立ち止まれば声を逃がしてしまうことも、ローガンにとっては些細なことであった。そんなことよりも、無視できない一言を、声は落とした。

 アンゼリカだって?

 アンゼリカは、きっと、間違いなくあのアンゼリカだろう。異形でアンゼリカという同名がいるなんて考えがたい。そもそも、アンゼリカ、とはローガンがかの屋敷で付けた名前で、『ローガン』という名前同様、前居た国の言語である。この国の者であるならば、もっと別な名前であるはずだろう。


 アンゼリカ、ああ、アンゼリカ、なんということだ。君はもしかしたら、あの日、問い詰めたあの日、君は誰にも会わなかったと言ったね。あれはもしかしたら、嘘だったのか。僕に嘘をついて、反狼の牙のメンバーと、他の異形と会っていたのか。

 先程の声の様子を聞く限り、アンジェリカは彼らと幾度となく会っているに違いない。

 幸い、まだ彼女は反狼の牙の仲間にはなっていないようだ。だが時間の問題かもしれない。あの声は、親しげにアンゼリカを呼んだ。アンゼリカ、君はもしかしたら、僕を迎え、僕に笑いかけ、僕に好意を囁くその影で、僕から逃げる算段を立てていたりしたのかい?


 ――勿論、まだ決めつけるのは早い。もしかしたら彼らが勝手に、なれなれしくアンゼリカを呼んでいるだけかもしれない。アンゼリカが僕に隠したのも、彼らに脅されたりなんかしたのかもしれない。

 全て可能性の話だ。推測の域を出ない妄想だ。ああ、だが早急に、確かめなくては。

 この目で確認しなくては。彼らとアンゼリカの関係を。

 もう声は聞こえない。ローガンは密かに決意して、鞄から取り出したランタンに火を付けた。彼の周りに光が宿る。

 ランタンを片手に、ローガンは歩く足並みを早めた。今の段階で、アンゼリカを問い詰める気はない。今は不確定要素が多すぎる。

 ただ、アンゼリカが今家にいることを確認したかった。声の会話によれば彼女がまだ反狼の牙に入っておらず、家にいることは明確なのだけれど、それでもこの目で見たかった。


 駆け足で家に帰った。ローガンが家にたどり着いたとき、小屋の明かりは灯っていなかった。


 まさか、とローガンは焦る。勢いよく扉を開けた。中はがらんどうで、人がいる気配はない。そう、アンゼリカがいなかった。

 アンゼリカ、アンゼリカ。まさか反狼の牙の所にいるのか。そういえば、あの声は多分拠点であろう場所に帰る途中だったんじゃないのか。もしもアンゼリカが今日この日に反狼の牙に入ることを決意したとすれば、彼らがまだ、アンゼリカが反狼の牙に入ったことを知らなくてもおかしくはない。まさか、手遅れなのか、アンゼリカ、アンゼリカ。

 ローガンはすぐさま小屋から出た。勿論、アンゼリカを探しに行くためだ。アンゼリカがもしも反狼の牙の所にいるならば、連れ戻すためである。腰に駆けた剣を抜いた。動転していても、ローガンの脳はどこか冷静であった。あの声が行った方向は覚えている。その方角に行こう。

 普通なら、声だけを頼りに拠点を見つけ出すなどできはしまい。だがその時のローガンは殆ど獣だった。彼の記憶力と五感とは冴え渡り、彼の野性的な第六感はとぎすまされていた。ローガンは殆ど迷わず、躊躇いを持たず、ただ己の記憶と感が指し示す方向へ走った。それはチーターのように俊敏に、大胆に走りながらも、気配を完全に絶っていた。暗闇では彼の姿を捕らえることは常人にはできまい。

 そして、彼は先程まで暗い森にいたおかげで、目は十分に暗闇に慣れ、それに加えて五感が冴え渡っていたことで、フクロウのように正確に森の姿を視認していた。


 ――その方角に走って走って、その途中で彼は白い影を森で見つけた。暗闇の中で本来ならば見えなかっただろう。しかし彼が見違えるはずがなかった。それは、それこそが彼が探していたアンゼリカだったのだから。

 反狼の牙の拠点に行かずともアンゼリカを見つけられたことで、彼は少しの安堵を覚えた。アンゼリカが歩いていっている方向は、確かに小屋の方向だ。ああよかった、アンゼリカは小屋に帰る気でいた。まだ彼女は反狼の牙に入ってはいなかったのだ。

 しかし同時に、彼はどうしようもなく確認してしまった。自分の目で目の当たりにしてしまった。アンゼリカが、自分の意志で反狼の牙に行っていることを。

 おそらくは、一度や二度ではないのだろう。彼女が森を歩く足取りはしっかりしていた。

 そう、慣れているのだ。一度や二度ではこの森をそんな風に歩けまい。そういえば、彼女が、栞を取りに、とはいえ外に出たことを知ったあの日。あの日から一ヶ月近く経っている。もしもあの日からずっと、平日ローガンがいない間に反狼の牙に通っていたのだとすれば。

 それは許し難いことだった。


 アンゼリカ、僕に嘘をついていたんだね。嘘をついてまで通っていた反狼の牙の拠点は、そんなにも居心地の良い場所だったのかい。

 なんて許し難い。


 ローガンは確かに強い怒りを覚えていた。いいや、怒り等という表現では生ぬるい。ローガンが抱えていたのは憎悪だった。それはアンゼリカに向けられたものではなく、その矛先は反狼の牙に向いていた。


 アンゼリカ、ああ、アンゼリカ。僕は君を責めないよ。決して責めはしないよ。君を放っておいていた僕もきっと悪かった。どこかできっと慢心があったのだろう。アンゼリカは僕を好きと言ってくれるから、それに甘えていたのだろう。君が与えてくれる好意に甘えて、僕は油断していたんだ。

 アンゼリカ、ずっと言えなかったことがあるんだ。


 僕は君を、愛したいと、ずっと思っていたんだよ。


 甘えるのはもう止めよう。アンゼリカ、僕も君に伝えることにしよう。大丈夫、今度こそは大丈夫。あんな事は二度と繰り返しはしない。

 アンゼリカ、君がほしいのは言葉だろう? 僕は君に嫌われたくはないから、僕の『真意』を君に言ったりはしないよ。中身を教えることは出来ないけれど、外側の言葉だけは君に与えよう。真心を込めて与えよう。中身を隠した言葉になってしまうけれど、君を愛しているのは本当なんだ。アンゼリカ、アンゼリカ。君に僕は今度こそ伝えるよ。だけど、その前にやらなければならないことがあるね。


 そこまで考えて、ローガンは微笑みを浮かべた。剣を持ったまま浮かべる笑みとしては、不気味なほどに穏やかな笑みだった。彼はそのまま、アンゼリカを追うことなく、そのまま、レジスタンスの拠点があるであろう場所に走った。

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