第10話

 アンゼリカは最近、よく考え込むようになった。そうローガンは思っていた。アンゼリカも年頃の女の子だから、いろいろ思うところがあるのかもしれない。

 アンゼリカは本を読むのが好きだ。と、いうよりは本を読む以外、彼女が小屋で一人の時に楽しめる娯楽が無いからなのだが。本を読んで、いろいろな物語を知るに従い、自分の事を見つめ直したりしているのだろう。そういえば、もう未読書が無くなってしまったとアンゼリカが言っていた。新しい、良い本を買ってあげよう。もしそれがアンゼリカの疑問を解決してくれたならば、彼女が考え込むこともなくなるだろう。

 ――そう思って、ローガンは今日の開店時間を少し遅らせて、本を売る店の前まで来ていた。

 アンゼリカの目下の悩みは愛について、らしい。最近彼女が気に入っていた本は、確か悲劇のラブストーリーだったはずだ。恋に落ちた身分違いの男女が、最期には心中して物語は幕を閉じる。あの物語は、正直なところローガンはあまり好きではなかった。

 物語の男女は、崖から二人、手をつないで落ちるのだ。その終わり方がローガンは気に入らなかった。手をつないだ程度では、落ちている最中に離れてしまうに違いない。それよりもっと良い方法があるはずだ。例えば、男の方は長い剣を持っていたのだから――


 これ以上はいけない。ローガンは一人頭を振った。周りの客が不思議そうにローガンを見るが、そんなことはどうでも良かった。最近、考え込んでしまっているのは自分とて同じ事だ。気をつけなければ。

 ――あの日を繰り返すわけにはいかない。

「何か良い本はありましたか?」

 見かねた店主が声をかけてくる。まだ決めかねているのですよ、とローガンが微笑んで答えると、そうですか、と言ってまた本棚の整理を再開した。

 アンゼリカの考え方に影響を与えるものだと思うとなかなか決められず、結局その日本は買わなかった。仕方がないので店を出て、いつもの場所でいつもより遅い時刻に開店し、いつも通りの時間に店を閉める。日も暮れた頃片付けも終わり、さあ帰ろう、と鞄を手に持ったとき、ローガンに近づく影があった。

「あの、ローガンさん、ですよね」

「? はい、そうですが」

 声に振り向くと、そこにいたのは二十代前半ほどの女性だった。

 艶やかな肩までの金髪を揺らして、恥ずかしそうに頬を染めるその女性は、一般的に美人と形容して問題ないだろう。ただ、ローガンの興味をひくものではなかった。

「あの、私……いつもここでアクセサリー、買ってるんです」

「それはありがとうございます」

 ローガンが微笑むと、女性はさらに頬を染める。ここまでわかりやすければいくらなんでも女性の意図は察せられる。面倒だな、と心の中で呟いた。

「それで……この後、お時間ありますか……?」

 女性が上目遣いにローガンの顔を見る。ドレスの、大きく開いた胸元をさりげなく強調するように手を組んで、一歩ローガンに近づく。恥ずかしそうな表情とは裏腹に、案外大胆なアピールだ。そこらの男、例えばあの八百屋の親父のような性格の男ならば簡単に引っかかっていただろうか。ただ、やはりそれにもローガンは惹かれない。むしろ、必要以上に近い距離にある女性の香水の臭いがただただ不快だった。

 アンゼリカは、もっと清純な、控えめながらも甘い香りがするというのに。そんなことすら思える。

 彼が惹かれるのは、たった一つあの白だけだ。あの日、彼女がローガンに微笑んだ、あの日からずっと。

「申し訳ありませんが」

 紳士的に、優しい手つきで、しかし明確な拒絶の元に、ローガンはやけに近い距離にあった女性の肩を押し返した。

「僕の帰りを待ってくれている天使を、放っておくわけにはいきませんから」

 女性は随分と自分に自信があったのだろう。微笑んで、あっさりと女性を拒絶したローガンを呆然と見る。ローガンはそんな視線を気にもとめずに、さっさと鞄を手に市場を後にした。

 女性の相手をしたせいで、少し帰りが遅くなってしまうかもしれない。懐の懐中時計を開いて時間を確認し、ローガンは溜息をついて歩くスピードを速めた。無駄な時間を使ってしまった。そう思うと苛立ちも沸き上がってくるが、苛立っても何も変わりはしないだろう。それよりも、この苛立ちを小屋に持ち帰って、アンゼリカを怖がらせてしまう方が問題だ。

 一旦落ち着こうと足を止めて、深く息を吐く。手に持つランタンの中の火が揺れて、ローガンを照らす光が一瞬歪みまた元に戻った。

 日中でさえ光を遮って薄暗いこの森は夜には真っ黒と呼べるほどの闇が広がり、ランタンがなければ手元すら見えない。勿論そんな森に人などいない。おそらく森の奥の小屋に住むアンゼリカと自分以外はいないだろう、とローガンは思っていた。

 ――だからこそ、人の話し声が聞こえたとき、ローガンは思わず耳を疑った。

 辺りを見回して耳を澄ます。ランタンは黒いコートを被せて光を消した。この暗い森の中でランタンの明かりは目立ちすぎる。声の主が何者か分からない以上、己の居場所を教えるような真似は得策とは言えなかった。

 どうやらその声はまだ幼い、少年のようである。そう大きな声ではなく、静かな森の中でも何を言っているのかまでは聞き取ることは出来ない。

 声は二つほどで、会話をしながら森を通ってどこかに向かっているようだ。どんどんそれは遠ざかっていく。

 声はやがて全く聞こえなくなってしまい、森はまた完全な静寂に包まれる。ローガンはそれ以上声を探すのを諦めて、地面に置いていたランタンを拾い上げてコートを取る。再びローガンの周りが乳白色の光に包まれた。

「……人が、この森を通ってくるなんて」

 この森は人の進入を今までずっと許さなかった場所だ。地元住民もこの森には立ち入らない。それは一種の暗黙の了解であった。何でもこの森は聖域として崇められる地であるそうだ。ローガンとアンゼリカが住まうあの小屋も、かつて巫女が年に一度この森に籠もって儀式を行うときのために建てられたものらしい、とは、ローガンが市場で商売をするうちに人の噂に聞いたものである。

 とはいえ、今となっては巫女などもいなくなり、儀式などは最早人々に忘れられて、もうこの森は聖域としての体などなしてはいない。ただ、「入ってはいけない、神様のお怒りを買ってしまう」と、そうとだけ、主に老人によって子や孫に半ば戒めのように伝えられて、皆殆ど理由も分からないままに森に入らないよう生活しているのだった。

 実に馬鹿馬鹿しい。己の宗派のことを抜きにしても、このような鬱蒼とした手付かずの森に神などいらっしゃるものか、と。それを聞いたときローガンは一蹴したが、人が森に立ち入らないのは好都合であった。アンゼリカの姿を他人に見られるわけにはいかないからだ。この森には人は立ち入らず、だからこそ安心してアンゼリカを家に残し市場に出て行くことが出来る。勿論、市場の人間はローガンがどこからやって来ているのかは知らない。おおかた勝手に適当な想像をしているのだろうとローガンは推測している。それも好都合であった。

 だからこそ、人がこの森を通った事は予想外だった。幸いアンゼリカと共に住む小屋とは反対の方向を行っていたようだが、こんなに近くに、他人の存在という脅威があるなんて。

 あれは誰なのか。それが問題だった。先程の声だけで推測できるのはせいぜいアンゼリカほどの子供であること、そうして複数人居るらしいということだ。まずローガンの頭は「ストリートチルドレン」という可能性を提示した。数日前の八百屋の親父との会話を思い出す。ストリートチルドレンならば聖域など知ったことではないだろう。……しかし、その可能性をローガンは頭を振って否定した。近頃はストリートチルドレンが市場から随分と減ったという話だったではないか、と。

 森は市場からそう距離があるわけではない。もしこの付近に彼らの根城があるならば、市場の被害はむしろ増えるはずだ。この森の付近に、盗みが出来るような場所はあの市場しかないのだから。

 ならば、と考えて、脳裏に浮かぶのは「反狼の牙」という単語だった。

 アンゼリカと同じ、異形。その集団は当然、身を隠さねばならない。この森は人は立ち入らず、身を隠すにはもってこいだ。ローガンがアンゼリカを隠すための蓑としてこの森を選んだように、異形の集団がこの森に潜伏していてもおかしくないのではないだろうか。

 勿論これは推測の域を出ない。手掛かりは子供の声だけである。だがもし異形ならば、もし仮にアンゼリカが見つかったとしても、迫害の心配はないだろう。


 しかし、アンゼリカの存在が彼ら反狼の牙に発覚し、そしてまた、アンゼリカが反狼の牙の存在を知ってしまうというのは、ローガンにとっては、絶対に避けなければならない事態であった。


 だってもしもアンゼリカが反狼の牙を知ってしまえば。

 革命を起こそうと活動している自分と同種の存在を知ってしまえば、彼女は、もしかしたら――


「……早く、帰ろう」

 言いようのない不安がローガンを襲っていた。

 早く帰って、アンゼリカを抱きしめよう。ただいまのキスをして、おかえりのキスをしてもらって、アンゼリカがいることを十分に確認できたならきっと、この不安もなくなるだろう。

 そう自分に言い聞かせて、足を速めた。

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