第5話

 その日もアンゼリカはいつものようにローガンと朝食を食べて、市場に行くローガンを見送り、いつものように部屋で本を読んでいた。ローガンに頼みはしたが、まだ新しい、面白そうな本は見つからないらしい。未だに本棚の中身は変わっていなかった。

 アンゼリカは今日も、かのラブストーリーを読むことにした。向かい合った男女が表紙に描かれた黒いカバーの、縁取られた金箔を撫でる。悲劇的な内容、と称されるべきその本を、何となくアンゼリカは気に入っていた。

 暫く読んでいて、どれくらい時間がたっただろう。

 ふと時計を見ると針は十二の数字を指している。昼食を食べなくちゃ、と、ぼんやりと思った。椅子から立ち上がったその時、外から強い風がひとつ、吹いた。

「! っ、あ」

 開いた窓から強い風が吹き抜けて、アンゼリカは思わず手で髪を抑える。瞬間、風で何かが窓の外へ吹き飛ばされた。四つ葉のクローバーが押された栞だった。

「っ、駄目……!」

 慌てて栞を掴もうとするも叶わず、それは外へと飛ばされて見えなくなる。どうしよう、アンゼリカは泣きそうに顔をゆがめた。その栞はローガンから貰った、アンゼリカにとって大事な宝物だったのだ。

「取りに、いかなくちゃ」

 外に出てはいけない、と言ったローガンの顔が脳裏を掠める。しかしそれでも、アンゼリカは止まれなかった。少しくらい大丈夫、と己に言い聞かせ、小走りでクローゼットに駆け寄って扉を開く。

 逃亡の道中使っていた薄汚れたローブはまた国から出て行かねばならなくなった時のためにと、捨てられずにかけられていた。それを背中の翼を隠すように羽織って、半ば勢いのままに扉を開いて外に駆けだす。


 森の中は鬱蒼と木々が生い茂って、光が届かず湿って薄暗い。

 恐ろしくも感じる森の深部は、しかし色素が薄く紫外線に弱いアンゼリカには、光を遮る木々の暗闇はむしろ好都合であった。

 小屋の外に出るのは優に二年ぶりだ。考えなしに森に出て、小屋へ無事帰ることができるのか、なんてことは考えることはできなかった。ただ必死に栞を探した。栞が飛んでいった方向に、走って走って。

 どれくらい走ったかわからない。栞を捜して彷徨っていると、突然耳に人の声が入り、アンゼリカの体は硬直した。こんな所に人なんて、固まっている間にも声は近づいてきて、慌てて木陰に隠れる。ローブを手で抑えて、小さく蹲った。人に見つかってはいけない。異形とばれたら終わりだ。

 ざくりと草と土を踏む足音が近づいてくる。アンゼリカの華奢な肩は震えを抑えることが出来ずに小刻みに揺れる。音が次第に大きくなる。それと共にアンゼリカの心臓がばくんばくんと鳴り響く。

「なんだ、これ。栞?」

 ――先程までただの危険な雑音だった声が、突如アンゼリカの耳に意味を持つ言葉として飛び込んできた。声変わりの途中のような、少年の声だった。

「何か拾ったのか? ルゥ」

 もう一つ、先程の少年より少し幼い子供の声が聞こえた。ルゥ、と呼ばれた少年が答える声がまたアンゼリカの耳に届く。

「は、金になりそうもねぇがらくただよ。ただのクローバーの栞だ」

「なんだそれ、何でそんな物がこんな森の中に?」

「さあな。まあこんな森の中に人なんているはずねぇし、町から風で飛ばされてきたんじゃねえか? 今日は風が強いからな」

 私の栞だ、と、アンゼリカは確信した。

 少年達の手に、あの大事な栞があるのだ。焦りがアンゼリカを襲う。このままでは、捨てられるかもしれない。いや、それならまだいい。持って行かれてしまえば取り返せない。

 背後を見て、ローブでしっかりと翼が隠れていることを確認する。危ない橋だが、最早手段は選んでいられなかった。隠れている木の、ちょうど背面に少年達は居るようだ。アンゼリカは意を決して、勢いよく立ち上がり木陰を飛び出した。

「! 誰だ!」

 突如目の前に飛び出してきたアンゼリカに、少年が叫んで持っていた拳銃の銃口を向けた。それに萎縮しそうになるも、ローブを握りしめて震える足を胸中で叱咤する。少年の顔を見ることは出来なかった。俯いたまま、震える声を絞り出す。

「……その、栞。私の、なの……返して」

 返事がない。恐る恐るアンゼリカは顔を上げる。少年の顔がアンゼリカの赤い瞳に映った。黒髪に、狼のような鋭いアンバーの瞳、そして。

 ごつごつとした水晶が無数に生えた、顔の左半分。


「……異形?」


 思わずこぼしたアンゼリカに、少年が一つ舌打ちした。

「ル、ルゥ、どうしよう」

 この黒髪の少年がルゥらしい。その隣にいる、彼より小柄な焦げ茶の髪の少年が震えた声で名を呼んだ。ルゥがもう一度舌打ちして、アンゼリカを睨み付ける。その瞳に宿る感情は間違いなく、自分と異なる者に対する警戒だ。そこでアンゼリカは彼らの誤解に気がついた。

「見られたのは誤算だった。だが、相手は女一人だ」

「っま、待って、私はあなたの、敵じゃないわ」

「……命乞いか? だがただで帰すわけには……」

 ルゥが言いかけて、それはアンゼリカがローブを脱いだことで遮られた。

 その下を見てルゥの瞳が見開かれる。光の加減で金色にも見えるルゥの瞳にしっかりとアンゼリカの白い鳩の翼が映った。

「……お前も、異形か」

 ルゥが漸く銃を下ろした。そのことに密かに安堵の溜息をつきつつも、アンゼリカが頷く。眉間の皺はそのままだが、ルゥは先程より幾分か柔らかい声でまた口を開いた。

「なら、いい。……悪かった」

「なあ! あんたの翼綺麗だな、鳩かな?」

 アンゼリカが答える前に、ウルソンが元気よく質問を重ねてきた。アンゼリカが自分達と同じだと分かって安心したらしい。元来人懐こい人物なのだろう、笑顔で両の熊の腕を振り回しながらアンゼリカに駆け寄ってきた。

「髪も真っ白なんだな、綺麗だな! あ、おれウルソンっていうんだ。このむすってしてる奴はルゥな。あんたは?」

「ア、アンゼリカ」

「アンゼリカか! 名前も綺麗だな!」

「そのへんにしてやれウルソン。……栞だったな」

 ルゥが栞をアンゼリカに手渡す。アンゼリカの手に戻ってきた栞は、多少土は付いているものの傷はなく、軽く払って土を落とせば綺麗な状態に簡単に戻った。

 今度は隠すことなく安堵の息を吐いて、栞を胸に抱きしめる。よかった、と、思わず呟いた。

「……随分大事にしてるんだな」

 唐突に聞かれて、アンゼリカは声に視線を投げた。声をかけたルゥは、物珍しそうな目でアンゼリカを見ている。ローガン以外からの人の視線は二年ぶりだ。なんだかきまりが悪くなって、アンゼリカは少し身動いだ。

「……いけない?」

「いや、そういう意味じゃないが……あー、気に障ったなら悪かった」

 アンゼリカの様子に気がついたらしく、ルゥが目をそらして頬を掻く。二人のぎごちない様子に、何やってんだよ。とウルソンは呆れたように溜息をついた。

「悪いなー、アンゼリカ。ルゥ、気難しいんだけど悪い奴じゃないんだぜ」

「余計なこと言わなくていい」

 軽口を叩くウルソンをルゥが軽く小突く。それから、真面目な顔をしてアンゼリカに向き直った。瞳や雰囲気に警戒はもう感じないが、眉間の皺はそのままだ。

 もしかしたら癖なのかもしれない、とアンゼリカは思った。眉間に皺を寄せていたら癖になると、ローガンが言っていた気がする。

「アンゼリカ、お前はどうしてこんな所にいる? ローブこそ小汚いが、服装はやけにしっかりしてる。囚われてたり追われてたりするわけじゃないんだろう」

「……? 私、森の小屋に住んでいるのよ。ルゥ達も近くに住んでるの? 私、私以外の異形なんて初めて見たわ」

「小屋だと? どうやって生活しているんだ。異形と隠して他の奴の中で生活するなんて限界があるだろう」

 アンゼリカの質問には答えず、ルゥはまた質問を重ねた。それに少し不満を覚えるも、ルゥは気がついているのかいないのか、返事を促すようにアンゼリカの目を見る。

 ルゥのアンバーの瞳が、森の木から僅かに漏れた光を受けて金色にきらめくので、狼に見つめられているような感覚を覚えて少したじろいだ。威圧されるような、飲み込まれそうな、そんな目だった。

 実際にはアンジェリカは狼など見たことはないのだが、漠然と、集団を統べる王者は、こんな目をしているのかもしれないと思った。

「……私は、ここに来てから、外に出るのは今日が初めてよ。いつもは小屋に籠もってるの、外に出ちゃいけないって言われてるから。生活は、ローガンがいるから問題ないわ。ローガンは異形じゃなくて、普通の人なの」

 その目に気圧されつつもアンゼリカが答えると、ウルソンが首を傾げた。

「それって、ローガンって奴に捕まってるんじゃないのか?」

「っ! 勝手なこと言わないで!」

 あっさりと言い放たれたその言葉を聞いて、かっと、アンゼリカは頭に熱いものが駆け上るように感じた。

 ローガンがアンゼリカを捕らえているなんて、とんでもない侮辱だ。愛するローガンが悪く言われるのは我慢ならなかった。赤い瞳をきつくして、ウルソンを睨み付ける。

「ローガンは私を助けてくれて、守ってくれてるのよ! ローガンを悪く言わないで!」

「えっ、で、でも、外に出してもらえないんだろ? 捕まってるんじゃ……」

「違うわ!」

 もう一度一喝すると、ひっ、と小さく悲鳴を上げてウルソンはルゥの後ろに隠れる。勇ましい腕を持っている割に、気は大きくないようだった。その様子を見て、アンゼリカの怒りも幾分か収まる。はぁ、と溜息をついて、しかし「二度と言わないで」と釘を刺すのは忘れず、話を切り上げようとした。

「……アンゼリカ、お前はどうしてそいつがお前を騙してないと言える?」

 しかしその思惑は、ルゥの問いかけによって崩された。アンゼリカの中で、また怒りがわき上がる。その雰囲気を感じたのかウルソンが震え上がったが、ルゥは眉間に皺を寄せたまま目をそらさずにアンゼリカを見据えた。

「……ローガンは、私を助けてくれたのよ。信用するのは当たり前でしょう。外に出れないのは仕方ないじゃない。私は異形だもの。人に見られたら危ないから、ローガンは私を守るために言ってくれてるのよ」

「じゃあお前、ちゃんとローガンとやらに、外の世界のことを教えてもらえてるのか?」

「? 当たり前じゃない。ローガンはいつも市場から帰ってきたら、私に今日あったことを教えてくれるのよ」

 ルゥが問いかけを重ねて、アンゼリカはその意図が読めず首を傾げた。そうか、と言って、ルゥがまた口を開く。

「ならアンゼリカ、お前、反狼の牙って知ってるか」

「反狼の牙……?」

「俺達のことだ」

 聞き慣れない言葉に思わず反復すると、ルゥが答えた。

「俺達は、異形と呼ばれる者達で集まって、革命活動をしている。罪もない、ただカタチが人と違うだけの者達が迫害される世の中を変えるためだ」

「……」

「俺達と同じ境遇であるお前に、関係ない話ではないと思うが。どうしてそいつはその話をお前にしないんだろうな。市場で働いているならそんな噂、いくらでも入ってくるだろうに」

 答えられずに黙り込む。そんなアンゼリカを見て、ルゥは溜息をついた。そしてアンゼリカに背を向け、懐から取り出したナイフで側にあった木の幹に傷をつける。短く、真一文字につけられた傷の意図が読めず、またアンゼリカは首を傾げた。ルゥの先程からの行動はアンゼリカにとって訳のわからないものばかりだった。

「俺達は明日のこの時間、またここを通るだろう」

 言って、ルゥは振り返ってアンゼリカを見据えた。

「……お前が、どうするかはお前次第だ。ただし、今日のことは他言するな。ここに来るなら、一人でだ」

 目を見開いて口を閉ざした彼女を尻目に、ルゥはナイフを懐に戻して紙袋を抱え直し、アンゼリカに背を向けて歩き出した。ウルソンは一度アンゼリカを振り返って、急ぎ足でその後を追う。アンゼリカはその場にしゃがみ込み、呆然とその姿を見送った。



「いいのかよ、ルゥ」

 後ろを付いてくるウルソンが、ルゥに問いかけた。

「何がだ」

「アンゼリカ、放っておいて大丈夫なのか、って」

「さぁな」

「さぁなって……」

 おれ、時々ルゥの考えてることわかんねぇよとぼやいて、ウルソンが溜息をつく。ウルソンが危惧していることはルゥにも分かった。アンゼリカが自分達のことを、共に住んでいるらしいそいつに漏らさないだろうか、ということだろう。

「……大丈夫だろ。あいつは漏らさねぇよ」

「なんで断言できるんだよ」

「アンゼリカは外に出ることは禁止されてる。俺達のことを言えば、あいつは自分が外に出たことを自白することになる。本当にローガンって奴が俺達の敵で、アンゼリカを捕らえてるならその時点でアンゼリカを罰するだろう。……そうなったらそうなったでアンゼリカも目を覚ますさ。もしもそいつがアンゼリカを守りたいだけの俺達の味方なら、あの道が知られても大して問題はない。拠点からは離れてるし、な」

「アンゼリカ、殴られるのか?」

 ウルソンが、今度は心配そうに質問を重ねる。

 ウルソンとルゥがかつて居たサーカスでは、見せ物であるウルソンが何か失敗をすればサーカスの主はいつもウルソンを酷く殴った。そんなウルソンは、彼女の身を案じずにはいられないのだろう。

「……もし漏らしたら、の話だ。それにそうなったらちゃんと助けにいくさ」

 ウルソンの頭を撫でて、幾分か声を和らげて言ってやると、ウルソンは安心したのか少し肩の力を抜いて小さく頷いた。アンゼリカが黙秘するにせよ漏らすにせよ、ローガンというらしい人間が敵だったにせよ味方だったにせよ、明日の、アンゼリカの行動がなければ何も判断できない状態である。勿論、十分に警戒しなければならない。アンゼリカがローガンとやらを連れてくる可能性も十分にあり得るからだ。

「明日、アジトから出る予定は無かったが……予定変更だ。明日はここで、アンゼリカを待ち伏せる。もしかしたら仲間が増えるかもしれねぇからな」

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