第16話

 家についたのは夜の六時半だ。当然のごとくローガンはいない。今日は帰りは朝方になるかもしれないと言っていたし、そもそも普段通りに帰ってくるとしても、ローガンがまだ市場にいる時刻である。

 そうして、ローガンの宣言通り七時になっても帰っては来なかった。本当に朝にしか帰ってこないのだろうか。仕方がないから夕食は一人で食べることにした。

 晩の食事はローガンが言ったとおり、鍋の中にクリームシチューが十分な量入っていた。言われたとおりに火にかけて、沸騰するまでかき混ぜながら待つ。やがて湯気が立ちぼこ、ぼこりと泡が下の方から上ってきた。クリームシチューの香りがキッチンに広がる。

 パンは朝焼いたものであろう残りがかごの中に数個、山積みになって入っている。そこから二個ほど取って、シチューをよそった皿と一緒に置いておいた平たい皿の上に並べる。

 その二つの皿を自分の席の机に置いて、アンゼリカは席に座って黙々と食べ始める。

 一人で取る食事ほど寂しいものはないと思う。昼食はずっとそうだから特に何も思わないが、今までローガンと一緒だった夕食を一人で食べるというのは、なんだかとても虚しかった。もし反狼の牙にいれば、こんな虚しい思いはしないのだろうか。そんな風にさえ思えてしまうほどに。

 ローガンは今何をしているのだろう、とぼんやりと思った。調べごとと言っていたが、何を調べているのかはアンゼリカには教えてくれなかった。ローガンは今何をしているのだろう。何を食べて、誰といるのだろう。

 ふと、あの日ローガンの服から香った香水のにおいを思い出した。そうして、急激な不安に襲われる。もし、もしも。ローガンが調べものなんかじゃなく、あの香水の女性と一緒にいるとしたら。そんな想像がアンゼリカを支配した。

 ローガンがアンゼリカに嘘をついていない、とは言い切れない。アンゼリカとて、ローガンに嘘をついているのだから。それにローガンだって、大人の男の人だから、私みたいな子供より、色っぽい大人のお姉さんが好きだったりするんじゃないのかしら? そう思うと悲しくなった。

 だってローガンは一度だってアンゼリカを愛していると言ってくれたことはない。好きだ、とすら言ってくれはしない。アンゼリカがローガンを愛する気持ちに変わりはない。例えその形が歪んでいるとしても、アンゼリカはローガンを愛している。だけど、ローガンは?

 愛する人からは、愛されたいと、そう感じるのは当然だと思う。アンゼリカの愛がいくら異常だと言っても、その感情は異常ではないはずだ。レオナも言っていたではないか。愛とは、相手からの愛を望んでしまうような欲でもあると。

 ローガンに愛されたい。いっそ嘘でも良いのよ。ローガンが一言、私に「愛している」と言ってくれるならば私も安心できるの。今は分からないのよ、あなたが私をどう思ってくれているのか。分からないの、不安なの。


 ああ、と、ふと気付いた。だからだろうか。知りたがるのは。ローガンのいろいろな表情だったり、ローガンが思っている感情だったりを知りたいのは、分からないものを暴きたがるのは、知らないことが怖いからなのだろうか。

 確かに、無知は恐怖だ。分からないものは怖い。己の理解を超えるものは怖い。人々が異形を恐れ、迫害するように。恐怖でなくとも、人は知らないもの、分からないものに不快感を覚えるのではないだろうか。

 だから、そう、だからだ。ローガンが一言、アンゼリカに愛しているとさえ言ってくれたなら、アンゼリカは躊躇うことなくローガンに愛を伝えられる。中身を赤裸々に明かしはせずとも、彼に「愛している」と心の底から言えるのに。


 頭がごちゃごちゃしてきた。一人は嫌だ。一人だと、つい、支離滅裂なことを考えてしまう。反狼の牙に通って、いろいろな人を知ったからかもしれない。アンゼリカの思考の幅が広がったと言えば聞こえは良いが、答えの出ない問いを己に投げかけるだけの作業はとても苦しいものだ。

 レジスタンスに通うようになって、ローガン以外の人の温もりを知って、アンゼリカは随分と、一人が怖くなってしまった。未だに一口も口を付けていないシチューはすっかり冷めてしまっている。

 何故かしら、今日はとても寂しいわ。アンゼリカが心の中で呟いても、当然ながら応える人はいない。反狼の牙の皆に、もうじき会えなくなると分かったからだろうか。

 いつもならローガンがいる夕食を、一人で食べているからだろうか。ローガンの思いが分からないからだろうか。酷く寂しくて、寂しくて、泣きたくなった。

 早くローガンに会いたかった。


 ――結局その日のうちに、ローガンは帰ってこなかった。アンゼリカは一人で夕食を食べきり、皿を洗って、風呂や歯磨きを済ませて、その日は早めにベッドに入った。これ以上起きていては、また余計なことを考えてしまいそうだったからである。

 朝、目を覚ませばすでに時計は九の文字を指していた。早めに寝たのに寝過ごしてしまった、と慌てて身支度を調える。この時間であれば、ローガンはすでに市場に行っているだろうか。昨日のこともあって、ローガンに会いたくてたまらなかったのに、なんてことをしてしまったんだろう。

 ぱたぱたと廊下を走ってダイニングまで駆ける。扉の奥からはパンの香ばしいにおいとコーンスープの香りがして、アンゼリカは首を傾げた。明かりもついているようだった。

 扉を開けると、いないと思っていたローガンがスープをよそっているところだった。

「おはよう、アンゼリカ。今日はお寝坊さんだったね」

 ローガンが微笑みかける。今日は市場のはずだが、もしかするとアンゼリカが起きるのを待っていてくれたのだろうか。

「ローガン、おはよう……っ」

 昨日こみ上げた切なさを思い出して、ついアンゼリカはローガンの背中に抱きついていた。ローガンは少しびっくりしたように目を見開くも、すぐに優しく微笑んで、今日のアンゼリカは甘えん坊さんでもあるのかな、と彼女の頭を撫でた。

 アンゼリカはしばらくの間こうして甘えていたかった。だが、もしかしたらローガンは自分のために、市場に行くのを遅らせてくれているのかもしれない、と思い立って、そっと彼の背から離れた。ローガンは少し名残惜しそうに彼女の髪を指で一度梳いて、しかし何も言わずにアンゼリカを席に誘導した。

 席に着けばいつも通りの朝食が始まる。ローガンが「美味しく召し上がれ」と声をかけて、アンゼリカが「ありがとう」と応える。アンゼリカはまずパンに手を伸ばして、ローガンは食前の祈りを捧げてから同様に食事を開始する。本当に、いつもと同じであった。

「アンゼリカ、今日は少し出かけよう」

 朝食を半分ほど食べた辺りで、ローガンがそう提案した。それはいつもとは違っていた。

 今日は普通の平日で、いつもならばローガンは市場に出て行くはずだ。

「出かけるって、市場はいいの?」

「今日は軍がこの町で、あるイベントをするみたいでね。商売どころじゃないから、市場は今日は閉まってるんだ」

 アンゼリカが首を傾げて問いかけると、ローガンはそう答えて微笑む。

「だから、アンゼリカとどこかに行きたいなって。アンゼリカも、『久しぶり』に外に出たいだろう?」

「う、うん。……いいの?」

「ばれないようにローブを羽織って、気をつければ大丈夫さ」

 悪戯っぽく言うローガンは前々からその気だったのだろうか、アンゼリカと行きたい場所があるんだ、と言って笑った。アンゼリカも微笑んで、そうね、と同意した。

 ローガンとどこかに出かけるのは、この小屋に居を構えてからは初めてではないだろうか、と思う。その事実はどうしようもなくアンゼリカを高揚させた。しかも今回は逃亡のためなどではなく、完全に娯楽のためだ。

 なんだかデートみたい。アンゼリカにもそういったものへの憧れは勿論あった。考えれば考えるほどわくわくしてきて、胸がどきどきした。

 昨日はあんなに悩んでいたのに、現金なものだと自分でも思う。それでもローガンとデートなんて、はしゃいでしまってもしかたがないでしょう? そう、誰にでもなく言い聞かせた。

「ローガン、私、とっても楽しみよ!」

 アンゼリカが元気よくそう言えば、ローガンはそうだね、と言って笑う。アンゼリカは高揚した気分のまま朝食のバケットを囓った。今日は反狼の牙に行けないわね、と頭の隅で思いながら。



 汽車などは、使うにはリスクが高すぎるので徒歩で行くことにした。

 途中で休憩を挟みつつも歩いて歩いて、小屋がある森を反狼の牙のアジトの反対方向に抜けて、森が見えなくなるほど歩いて、着いたのは小さな丘だった。人気はなく、自然に咲いたであろう小さな花々が咲いている。木々はちらほら生えているが林と呼べるほどの量でもない。人間に侵されていない空間には、静かに穏やかな時間が流れていた。

 朝に小屋を出たが、そこに着く頃にはすでに太陽は真上にまで上がっており、アンゼリカはローブを引き寄せる。光に弱い彼女の目には、少し眩しかった。

 そこは見渡す限り草原が広がっている。アンゼリカはこういった景色を見るのは初めてだった。逃亡中は人目を避けなければならなかったので、このような開けた土地は避けて深い森や路地裏ばかりを通っていたから、草原などには行けるはずがなかったのだ。小屋に住むようになってからも、あの場所でアンゼリカが行けるのは深い鬱蒼とした森の中か、反狼の牙のアジトとして使われていた瓦礫まみれの廃墟か。それだけだ。

「綺麗な、場所ね……」

 だからこそ、その景色はアンゼリカを感動させるには十分だった。半ば呆然とその丘を眺めアンゼリカは溜息混じりに呟く。ありふれた感想だが、そんな言葉しか出てこなかった。その景色はきっと飾らない、素直な言葉が似合うと思った。誰にも邪魔されない、人の干渉を受けない世界。どこまでも自由にのびのびと、動植物たちが息づく場所。

 そんな彼女に、ローガンは笑ってその手を取った。

「そうでしょ? でも行きたかったのはまだ先。ついておいで」

 言って、ローガンがアンゼリカの手を引いて歩き出す。クローバーを食んでいた野兎が、人間の訪問に気付いて慌てて飛び去った。

 歩いていくと小川が見えた。光を反射してきらきらと輝く水面にアンゼリカが見惚れて立ち止まったのを、ローガンがくすりと笑って手を引く。引っ張られて我に返り、またアンゼリカは歩き出した。

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