第10話 かつての少女は不満を糧に立ち上がる

 春谷雫は不満だった。

 とてもとても不満だった。


 なぜ、満を持して東京から帰省し、実家を継いだとたん「これで毎日のように観に行けるぞ」と楽しみにしていた映画祭がなくなってしまったのか。


 こんなのはおかしい。

 間違っている。


 理不尽だ。




 春谷雫は八ヶ岳の麓、原村で生まれ育った。ペンションを経営する両親のため、子どものころは勉強そっちのけで家を手伝い、客の多い夏と連休は特に仕事にかり出された。


 観光地で育った人間にとって、カレンダー上の休日とはすなわち「稼ぎどき」の意味がある。


 ゴールデンウィーク?

 盆休み?

 シルバーウィーク?


 それらの言葉は「働け」の合図だ。



 しかし働かなくていい時期もある。それが冬だ。


 なぜなら原村にはゲレンデがない。スキーやスノーボードをしにくる客はわざわざここを宿泊施設に選ばない。それで雫は友人たちや飼っている犬と心ゆくまで遊びほうけることができる。


 冬休みになると、家から4キロはなれた原村小学校まで、大人に車を出してもらってよく出かけた。


 小学校の校庭は周囲がぐるりと高くなっており、お椀のような形をしている。冬になるとそこに水を流し込む。水は外気に触れたとたんに凍りつき、スケート場の完成だ。子どもたちの体育の授業にぴったりおあつらえ向き、というわけである。


 冬休みは校庭が解放されるからすべり放題になる。もっとも、雫は家の近くのため池にすべりに行っては、観光客に「落ちないの?」と心配されていた。ラッキーにも落ちたことはないが、正直言っていつおぼれ死んでもおかしくない遊びである。



 原村にはとりわけてペンションの多い集落がふたつあって、「ペンション村第一」と「ペンション村第二」という、わかりやすい分け方がされている。第一に属する雫の家は、標高1350ほど。夏は朝市、夜には星空市が開かれ、まあまあ盛況だ。


 しかし、自転車で五分はなれた第二のほうが、本当ならば雫の好みだ。なにしろここには八ヶ岳自然文化園がある。


 プラネタリウムは観光客向けで、値段が高くて入れたものじゃないが、アスレチックやドッグランには友達とよく遊びに行った。近くにはアイス屋さんがあるし、なにより、夏には映画祭がある。


 家族や友達と、何度観に行ったかわからない。車で五分の近場に、わりと最近できた日帰り温泉で一服し、その足で自然文化園の駐車場に止めてレザーシートや毛布を運び、目をきらめかせて映画を観まくった。


 去年はやったような話題作から、リバイバル上映までさまざま。『スターウォーズ』も『千と千尋の神隠し』もここで観た。そして映画が大好きになった。




 そんなふうに地元でのびのびと暮らした雫だが、若者は往々にして都会にあこがれを抱くものである。


 こんな田舎の、町ですらない村で一生を終えていいものか。


 後悔しないか?


 答えは否。一度くらいは外に出たほうがよかろうと、両親もしぶしぶ認めた。雫は喜び勇んでボストンバッグに荷を詰め込み、「大学入学」という免罪符を手に、原村を飛び出した。




 映画が好きな雫は、映画館でアルバイトをはじめた。当時の住みたい街ナンバーワンに光り輝く吉祥寺には、シネコンの台頭で絶滅の危機に瀕していた単館シネマがまだ生き残っていた。


 観光地で生まれ育った雫にとって、バイトで土日や連休が潰れることに抵抗はなかった。友達に「遊ばないの?」と聞かれ、まじまじと相手を見つめて「働かないの?」と返したことさえある。


 勤め人が遊びに行く、その瞬間にサービス業の者が働かざずしてどうするか。


 しかしあまりにも連日バイト申請を入れたため、なんと社員さんのほうから「遊ばなくていいの?」と心配されてしまったのには驚いた。


「学生時代は一回しかないんだよ? 好きなことできるのは学生時代と老後だけって言うでしょう?」


「なんですかそれ。はじめて聞きました」

 雫は言った。社員の長内おさないさんはちょっと笑って首をかしげた。


「でも、本当にそうだよ。社会人になったら仕事ばっかりなんだから」

「そうなんですか? 両親見てるとそんな感じしませんけど」


 それは皮肉ではなく、心からの言葉だった。


 両親はよく釣りに行ったし、仲間とキャンプにも行く。親の知り合いは趣味で廃材建築を建てまくっているし(曰く、小さめの家を建てるときのコツは車輪をつけることらしい。なぜかと聞くと、「移動式です」ということにしておけば固定資産税なるものがかからないそうだ)猟友会で親睦を深めている人の目的はたいがい趣味だ。


 いったいなにをもってして「好きなことは学生時代と老後にしかできない」という論理になるのであろうか。そもそも学生は学業が本分であろう? そして老後になったらよぼよぼで、好きなことなどできないのではないか?


 しかし長内さんは笑った。


「若いから、そう思うのかもしれないけどね。まあ、本当に連勤してかまわないんなら、こっちとしては助かるけど」


「かまいません、じゃんじゃんシフト入れちゃってください。カレンダー上の休みの日にぼうっとしてると罪悪感がやばいです」

「あはは、春谷さん、おもしろいね」



 そんな会話がなされたというのに、結局ゴールデンウィークのまん中の日に、一日だけお休みを入れられてしまった。


 雫はそわそわと落ち着かない。


 こんな日に遊びほうけていていいのだろうか。日帰りで実家に帰るべきか? しかし、まさかゴールデンウィークに高速バスに乗り込むなんて自殺行為だ。渋滞にはまる危険性が高すぎる。あずさ号に乗ればいい話かもしれないが、高速バスならその半額で帰ることができるので却下だ。金を稼ぐために金をかけてどうする。


 しかも駅よりバス停のほうが実家から近い。だが、どちらにしろ車で十五分飛ばす距離。忙しいときに送り迎えをさせるなんて万死に値する罪だ。


 ぐるぐると考えて、結局家には戻らず、一人暮らしの六畳一間で悶々と過ごすはめになった。翌日、長内さんはにっこりと「友達と遊べた?」と訊いてきた。


 人の気も知らないで、のんきな男だ、と雫は思った。



 実家以外で働いたことのない雫には違和感の連続だった。学生バイトはそこまでの責任を求められていないし、適度に休んでほかの人間と交代制にしろと要求される。なるほど人がたくさんいれば、そうした仕事のカタチが尊ばれるのだろう。


 とても素晴らしい生き方だ。しかしながら軽んじられているようにも感じるのは気のせいか。それとも雫が物心ついたころから働きすぎたせいであろうか。



 ああ、もっと働きたい。とにかく体を動かしていないと、惰眠をむさぼる悪鬼にでもなった気分だ。


 お客さんに営業スマイルであれこれご案内したい。スタッフと小気味の良い連係プレーで場内清掃をささっと終わらせたい。迷っていたお客さんにパンフレットを買わせたい。気持ちのいい笑顔でお帰りいただき、社員さんの確かな信頼を勝ち取りたい。


 別にお金を稼ぎたいわけではなかった。どちらかといえば、お金は少ないにこしたことはない。はじめからなければ、お金を使うときに良心の呵責を感じずにすむ――雫は倹約家だ――ただ、働くことが好きなのだ。これはもう、血肉に染み込んだ呪いといってもいいだろう。


 ただ、働くのなら自分のペースを持ちたい、というのも雫のモットーだ。


 忙しい時期ならばいい。やることが多すぎて、あれもこれもと優先順位を瞬時に決めながら働くのは大好きだ。終わったあとの達成感がすこぶるいい。悪いのはひまなときだ。


 雫は、ひまならなにもしたくない。その日の仕事はおわりにしたい。さっさと切り上げて、映画を観るなり風呂に入るなりすればいい。むしろどうしてみなそうしないのか。なぜ要らない仕事を探してまで時間めいっぱい働こうとするのか。お客がもう来ないとわかっているときにまで。なぜだ?


「普段見えないところの掃除」なんか普段見えないんだからいいだろうが。雫は思う。さっさと帰らせてくれ。手持ち無沙汰の状態がいちばんきらいだ。



 雫の働きっぷりは社員さんだけでなくほかのバイトからも絶大な支持を得た。


 履歴書上はバイト経験がないにも関わらず、生まれたときからペンション育ちでお客さんの相手には慣れているのだから当然だ。特におばさまやおじさま方からはとても好かれた。ペンションに来る裕福なお客さんはたいていお年を召していたからだ。


 平日昼間の映画館は老人ホームさながらの光景だ。シニア割引で、ひまとお金を持て余した老人たちがわんさとやってくる。


 彼らはチケットカウンターに来て、「今はなにをやっているの?」と聞いてくる。観たい映画があるから来るのではなく、ひまをつぶせるならなんでもいいのである。これらの質問に、雫は完璧な接客でご案内する。


 そんなふうにして、雫は積極的に働きながらも、お金は特に欲しくないのでバイトリーダーににもならず、時給を上げることなく四年間、学生が終わるまで映画館で働いた。



 そんなある日、雑談の流れで社員の長内さんが岡谷の出身であることが判明した。


 なんてことだ、と雫は思った。雫が利用する新宿から発車する高速バスは、いつも岡谷行きである。おお、ご近所さん。


 長内さんは、中学生のころに原村に来たことがあるという。雫が大好きな野外映画祭の話をすると、長内さんはそこに食らいついた。


「そうそう、まさにスターダストシアターだよ、原村に行った理由は! いや、もう、最高だった。あれをいつも間近で観てたの? うらやましい」


 雫の中で、長内さんの好感度が急速にアップした。あの映画祭の素晴らしさをわかっているとは、素晴らしい。


「観に行ったのは『ジュラシックパーク』だったんだけどさ、もう三回も観てたんだけど、野外でやるって言うから、こりゃ面白そうだと思って行ったんだよ。いやあ、あれは圧巻だったね。すんごい臨場感」


「私もそれ、観に行きましたよ。同じ日だったのかな。日替わりで、同じ映画は三回くらいやりますからね」


「そうそう、チラシを穴のあくほど見つめたよ。どの日の映画を観たいかなってさ。まあ、親を説得して行く距離だったから、結局行けたのはそれ一回だったけどね。岡谷から原村は遠いなー」


 にひにひと雫は笑った。けれども少しさみしさも覚えた。吉祥寺の映画館は悪くないけれど、やはりあの公園の、あのロケーションで観る映画は最高だ。


 ああ、いずれ夏場に家に帰ったら、絶対に映画を観に行こう。一度観た映画でもかまわない。なんせスターダストシアターは、夏だけの特別なイベントなのだから。




 雫は東京ライフを満喫した。しかしたびたび、なつかしき故郷を思い出しては「帰りたい」とつぶやくのだった。


 ああ、あの、どこへ行くにも車が要る不便な村に帰りたい。星空がえぐいほどきれいで、暑さを知らない村に。雪は降れども標高のおかげで積雪にはそれほど悩まされないあの村に。ゴキブリの出ないあの村。


 コオロギ? アシナガ蜘蛛? 余裕だろ。ちがうんだ、まじでゴキブリだけは無理。ああいやだ、なんでこんなに出てくるの、怖いよキモすぎる、だれか助けて!


 野菜が不味いことも(特に東京のセロリのまずさったらない)、空気が汚いことも、一日中やかましいことも、夜が明るいことも、一年中せかせかしていることも、総じてなんとか我慢はできよう。しかしながら雫には夏場が耐えかねた。夏場に出てくるゴキブリにも我慢ならなかった。


 四年間を学生として学び、就職をする段になって、「東京へのあこがれをまっとうした」という理由から、雫は早々と実家に撤退した。親は、雫を娘としてよりも人材としてみていたので、自分たちのやり方を熟知している働き手の復帰を喜んだ。


 雫としても、どんなにひまでも時間単位で拘束されてしまう雇われの働き方よりも、緩急を自由につけられる実家の仕事のほうが性に合っていると思った。




 そして雫は帰省した。


 そして夏のあいだ、映画祭に足を運ぶつもりだったのだ。がんがん働いて、そのご褒美に星空のもと、映画を観る。ひまな夜に。それが最高の夏の過ごし方だった。もの心ついたときから、ずっと体に染み付いていた。


 そのつもりであったのに!




 映画祭が終わったなんて、断じて認められるものか。




 不満と怒りをみなぎらせつつ、雫はペンションの電話から東京にかけた。相手が電話を取ると、すぐさま申し開きをした。


「長内さんですか? 野外映画祭を復活させたいんですけど、手を貸してくれません?」

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