第2話 三億円の入ったカバンと失踪した宿泊客

 その事件は当時の日本を震撼させ、時が経ってからも折りをみて人々の話題にのぼる、伝説的な犯罪史として記憶に残った。


 十二月六日、ある銀行に脅迫状が届いた。三百万円を用意しなければ爆破するという内容である。予告現場には警官五十人で待ちかまえたが、結局犯人はあらわれなかった。


 そして十二月十日。銀行から、工場従業員のボーナス約三億円を運ぶ現金輸送車を、一台の白バイが止めてこう告げる。


「あなた方の上司の自宅が爆破され、この車にも爆破物を仕掛けたという犯人からの連絡があった。調べさせてくれ」


 現金輸送車の後方へ回った警察官が叫び、乗っていた男たちは仰天する。


「爆発するぞ! 早く逃げろ!」


 見ると、煙が上がっているではないか。男たちはもんどりうって車からはなれたが、白バイの男は輸送車に乗り込み、そのまま車を発進させた。


 銀行員はそのとき、こう思った。「自分たちが爆発に巻き込まれないよう、車を遠ざけるために走り去ったのだ。あの警官はなんと立派なのだろう」と。


 そしてあとには、煙をあげ続ける発煙筒と、クッキー缶でそれらしく改造した偽白バイが残された。




 なにもかもが計画どおりにいかなかった。


 そう、なにもかもだ。


 デンパは自分をいじめる不良たちに、司法によって裁かれてほしかったのだ。小説のために考えた完全犯罪をむりやり実現させられるはめになったとき、デンパは考えた。毒を食らわば皿まで。こいつらを、このクズどもを、自分もろとも日本の大悪人に仕立て上げ、必ず罪を負わせてやる。それが自分にできる、精一杯の復讐だ。


 だからデンパは、不良三人組(そのうち一人は、女連れ)が面白半分に強盗事件を計画したとき(計画したのはデンパだが)なるべく些細なミスを増やして、警察に自分たちを見つけてもらうため心を砕いた。


 まず、現場に残す残留物を不自然のない程度に増やした。白バイや発煙筒から容疑者をあぶり出すなど、警察なら簡単にやってのけるはずだ。逃走するときに乗り換える車は盗難車を使うが、不良たちが私物を車内に放置したのを見て、こいつらは阿呆だと思った。これで警察はより犯人を追いやすくなった。


 デンパは偽白バイに、こっそり不良の一人がかぶっていた帽子をくくりつけた。クリーニング店に出したばかりのレインコートも残したし、不良の女のイヤリングも落としておいた。


 完璧だ。これだけ証拠が残っていればさすがに見つからないわけがあるまい。どんな阿呆でも、必ずデンパとそのいじめっ子たる不良たちにたどり着くはず。


 そして、なにもかもが計画どおりにいかなかった。


 女のイヤリングは発見されただけで特になんの捜査の進展にもならず、レインコートがクリーニングに出されていた事実に警察が気づいたのは、事件から三年後。たのみのつなの帽子は、警察官たちがおもしろがって交互にかぶったせいで、汗による血液型鑑定を不可能にした。車内の私物、発煙筒、白バイ。何もかも、一ミリたりともデンパといじめっ子たちに近づきはしなかったのである。


 なんたる失態。なんたるずさん。

 デンパは怒りにふるえた。


 自分はこのまま、つかまりもせず、不良たちにこき使われる日々をおくらねばならないのか?



 いや、結論はまだはやい。



 不良たちは不法に拾得した三億円――正確には、2億9430万7500円――を手にして、羽目を外して散財するであろう。それを血眼になって犯人を捜す警察が見逃すはずもない。


 不良たちはまず、2億9430万7500円をばらして隠すことにした。そうせよと、デンパが進言したからである。


「見つかったら言い逃れできない。だから別々のところに置いておいて、だれかがつかまったらほかの人間が残りを持って高飛びすればいい」


 不良たちとその女は、それはいいアイディアだと感心した。それで、とりあえずボスである男が端数の7500円をポケットに収め、残りを5000万ずつ分けた。だれかが失踪した時のために、金のありかは伝えあうことにした。不良三人と、その女に5000万ずつ。残り5000万は不良たちがとりあえず使う。ほとぼりが冷めるまで、その金で遠出をするつもりらしい。


「これはおまえの分だ」


 そうして、すべての計画立案者であるデンパには4430万円が渡された。




 デンパはこの金を持ってそのまま警察に駆け込んでも良かった。

 けれども彼はそうしない。


 数ヶ月のあいだ、不良たちの完全犯罪を成し遂げるため、ろくに映画館にも足を伸ばせなかったのだ。どうせブタ箱に入るなら、その前に映画を観なくてはいけない。彼はその年公開された『2001年宇宙の旅』と『猿の惑星』を、あと三回ずつは観ておかないと気がすまなかったのである。


 しばらくするとSF映画は黄金期に入った。


『時計仕掛けのオレンジ』、『日本沈没』、『スターウォーズ』、『スタートレック』。素晴らしくも心躍らせる名作の数々。デンパが自首するタイミングはみるみる失われていき、みるみる時がたってゆく。


 5000万円を車に乗せて遠出をした不良三人と女はしばらく音信不通だったが、町で偶然再会した同級生からあるニュースをきく。彼らは危険な海沿いの道を猛スピードで走り、スリップして崖に落下。そのまま5000万円とともに燃え上がり、そろって成仏したらしい。


 デンパの復讐は思わぬところで成し遂げられた。


 そして彼のもとには、2億4430万円と、三億円事件の迷宮入りの報が残った。




 デンパは裕福な家庭で育ったので、2億4430万円が手元にあったからといって、使わずとも生きてこられた。というよりも、使う機会を失い続けたと言うほうが近い。


 彼は生来、気の弱い人間なので、復讐する相手がいなくなった以上、警察のご厄介になるなんておそろしくてとてもできない。


 三億円事件の被害金は保険に入っており、奪われた工員へのボーナスもつつがなく支払われ、だれ一人、なにひとつ傷つかない事件として人々の記憶に残ることになる。被害を受けたのは、いつまでたっても犯人を検挙できない警察と、無実の罪を問われた被疑者たちである。しかしそれは警察の失態であるので、デンパはそれほど罪悪感を抱かなかった。警察の捜査能力が甘いことにだれよりもいきどおりを感じていたのは、ほかでもないデンパだったのだから。


 そうやって、十数年のあいだ2億4430万円を押し入れにつっこみ、そんな金など存在しないかのように生きてきた。だが、そろそろ肩の荷を降ろしてもバチは当たるまい。


 デンパは雑誌で良さそうなペンションを探し、中古の車を裏のルートで手に入れた。


 自分の家から遠くはなれた山奥で、忌まわしい札束を埋めるつもりだった。




「このへんの森って、だれも寄りつかないこわい場所とかあるんですかね」


 ペンションに泊まった日の翌朝。外には霧が広がり、窓を開けただけで寒い外気にくしゃみが出た。八月だというのに布団と毛布をきっちりかけた状態で寝たデンパは、かなり朝の目覚めが良かった。三億円事件が起きて以来の快眠かもしれない。


 デンパは洋食の献立を前にしながらオーナーにたずねた。犬連れの家族は沢登りをすると言って楽しげにはしゃぎ、老夫婦は八ヶ岳に登るらしく重装備を玄関に用意している。一人ひとりにコーヒーを注いで回っていたオーナーは、そうだなあとにっこり笑った。


「このへんは全部森か草原だからね。だれも全部は把握してないんじゃないかな。ねえ、早紀ちゃん?」


 早紀ちゃんというのはオーナーの奥さんらしい。接客業にしてはぶっきらぼうな顔で、台所に立つ奥さんはデンパを見た。


「心霊スポットとかですか? このへんはそういうのないですよ。わりと新しい村だし。富士の樹海とかならたくさんありそうだけど」

「早紀ちゃん、行ったことあるの? 富士の樹海」

「ないよ。こわいもん」

「え、何がこわいの?」


 早紀ちゃんは旦那との会話を取りやめて、できあがったスクランブルエッグとベーコンをひょいひょいと皿に乗せた。

「はい、須崎さん、おかわりありますからね」




 朝食を食べ終えると、デンパは外に出て中古車の後部座席を開けた。足元にシャベル、ロープ、懐中電灯が毛布をかけて隠してある。できるだけ人目のない場所でことをすませたいが、土地勘がないのでどこが最適な場所かわからない。


「ま、なんとかなるだろ」


 さいわいなことに、まだ地球温暖化が進んでおらず、山間が切り開かれきっていないこの時代では、この村で熊が出たという話はなかった。なのでデンパはどこか山奥まで車を走らせ、ボストンバッグをかかえて森の奥深くまで入り込むつもりでいた。



 山の天気は変わりやすい。


 朝の時間帯、標高の高いこの地形。東京ではついぞお目にかかったことのない濃霧が広がっていた。老夫婦、それから家族と犬を連れたお父さんは勇ましくもライトを光らせながら車を出したが、デンパは尻込みした。


 二十メートル先もろくに見えないくねくねした山道を行くなんて自殺行為だ。それで霧が晴れるまでひとつ散歩でもしようと考えた。オーナーにたずねると、いい場所がある、とにこにこしながら教えてくれた。


「ペンション村のはずれに森があるでしょ。中に入っていくと草原があってね、ほんとに気持ちがいいよ。おれもよく一人でぶらつくんだよね」


 ちゃんと水をはじく上着持ってますか? と早紀ちゃんにきかれ、すぐ戻ってきますから、とデンパはもごもごしながら答えた。ボストンバッグをベッドの下に隠し、ペンションをあとにする。


 デンパはポケットから手を出して木々の中に入っていった。霧で湿った草に足を取られないよう、必死で土手をのぼる。枝をつかみ、なんとかのぼりきると、ゆるやかな林間が広がっていた。


 デンパは人けのない草原を歩く。開かれた傾斜地があって、なかなかいいと思った。まるで映画館のようではないか。ここに段々を作って、いちばん低い場所にスクリーンをはれば、立派な会場になりそうだ。まあ、夏でさえこんなに寒い場所で、野外映画なんてしてもだれも来ないだろうが。


 デンパはぐねぐねと歩き続けた。ひとりきりで霧のかかった草原を歩いていると、本当に映画の世界に入り込んでしまったかのような気がした。霧で見えない向こう側から、何があらわれても不思議ではない。


 デンパはぶるりとふるえた。その時、遠くできゅん、と鳴き声がした。地元の人間ならそれが鹿の鳴き声だとわかっただろうが、東京生まれ東京育ち、旅行にもろくに行かないデンパには、正体のわからない悲鳴に聞こえた。


 ――ペンションに戻ろう。


 少し方向感覚がわからなくなっていた。とにかく、背を向けて歩く。視界の端になにかがちらりと見えた気がして、立ち止まる。


 ――馬?


 いや、まさか。野生の馬なんて、このご時世にいるわけがない。それに馬かと思った影は、すぐに風景の中にとけ込んで消えてしまった。馬ならば黒か茶色一色で、そんなにすぐに視界から消えるわけがなかろう?


 デンパは自然早足になる。白樺がいくつも立ち並び、デンパを見おろしていた。あの一瞬見えた馬みたいなものも、こんな色合いをしていたような……。


 やがて小さな湖に行き当たる。いや、ため池だろうか? その先には灰色の道路が見えているから、あの道を辿っていけば自分の泊まるペンションに帰り着くだろう。


 ほっとして、デンパはため池のほうに足を進めた。道らしい道などない。草は露にぬれ、傾斜もきつい。あ、と思ったときには時すでに遅し。




 デンパは泳げなかった。中学生のころ、いじめっ子たちに水責めにされ、以来トラウマで冷たい水をあびると足がつる。


 デンパはそのまま池に落ち、おぼれ、しまいにはゆっくりと池の底に身を横たえて、なぜか浮き上がることもなく腐っていった。


 こうして三億円事件の黒幕は、だれにも知られることなくこの世を去った。




「すぐ戻るって言ったのに、全然帰ってこないね」


 早紀ちゃんが窓の外を見つめて言ったのは、昼が近づいたころ。霧はすっかり晴れ、青空がすっきりと八ヶ岳を魅せていた。オーナーはにこにこしながら外をうかがい、「きっと散歩が楽しくなっちゃったんだよ」と答えた。


「あんたはいっつもそれね。大事なお客さんなんだから、ちょっと探しに行ってきたら?」

「なんで?」

「迷って、帰れなくなってるかもしれないでしょ」

「ふうん。そんなことあるかなあ」


 早紀ちゃんはため息をつく。シーツを洗って、ばかでかい家をすみずみまで掃除して、庭を整えて、買い出しに行って。やることはいくらでもあるのに、この旦那ときたらなにをするにも楽しげで、ポジティブすぎる。


 まあ、だから結婚したのだが。


「探して来なよ。なんだかあの人、暗いし心配。今朝も心霊スポットありませんかなんて訊いてたでしょ。自殺する場所を探しにここまで来たんだとしたら、どうするの?」


「自殺する場所を探しに? そんな場所探してどうするんだろうね? 遺体を回収して、ちゃんと遺族に届けるボランティアでもしているのかな?」


 それなら、すごくいい人だね、とオーナーは輝く笑顔で妻を見た。早紀ちゃんは思わず吹き出し、そうだね、そうかもね、と笑った。


「じゃあ、なんでもいいから探してきて。私、いちおう車を見てくる。中で寝てるだけかもしれないし」




 結局その日、須崎さんはペンションに戻らなかった。次の日も、その次の日も。


 車に乗せられたシャベルとロープと懐中電灯を見て、早紀ちゃんが呼んだ警察は「自殺かもしれない」と言った。早紀ちゃんはそれで納得しかけたが、オーナーは首をかしげて「そんなわけないと思うけどなあ」と言った。「これだけで自殺認定するの? なんだか、短絡的じゃない?」


 須崎さんの乗っていた車は正式な手続きで購入していないことが判明し、持ち主の所在がわからなかった。免許証や財布も本人が持っていったのか見当たらず、来た日に持ちこんでいたはずのボストンバッグもない。


 結局、夏が終わっても須崎さんは戻らず、どこのだれかもわからないまま、残された車は警察に引き取ってもらうことになった。


「きっと、新しい人生をはじめたかったんだよ。このペンションに来て、露天風呂であの星空を見て、吹っ切れてヒッチハイクでもしたんだと思う。自殺なんかじゃないよ。むしろ須崎さんの新しい門出を祝わなくちゃ」


 ペンションのオーナー、梅山シンジはそう言った。早紀ちゃんも、たしかに須崎さんが新しい人生をはじめた可能性も、ゼロではないと考え直した。いなくなったからといってすぐに死に結びつけるなんて、映画の見過ぎと笑われそうではないか。


 それに、夫の言うことにも一理ある。

 この村の星空は、人の考えを変えてしまうほどの力があるのだから。


 きっと須崎さんは、自殺を思いとどまって遠くへ走り出したのだ。そうに決まってる。そう思っておかないと、縁起も悪いし寝覚めも悪い。




 そういうわけで、須崎さんことデンパの死はだれの目にも触れられず、ベッドの下に隠された2億4430万円は、その三年後に梅山シンジの手によって発見されることになる。


 見つけた彼の、最初の言葉はこうだった。


「あれえ! こんなところにへそくりなんか隠してたっけかなあ!」

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