第3話 主人公の生い立ちと決定されたお金の使い道
梅山シンジは人並みはずれて前向きな男だ。
見た目だけならば、メガネをかけた、田舎暮らしの似合わなそうな頼りない風貌の持ち主だ。中肉中背、どこにでもいそうな優男。どちらかといえばオタク的な見た目、と言えばイメージもしやすかろうか。
彼の生まれ育った家は典型的なカタブツ真面目サラリーマン家庭。両親はあまり笑わず、愛は冷えきり、ただ世間体と日々の暮らしのためだけに同居生活を営んでいるような夫婦だった。
そんな親に育てられたならば、普通は同じように育つものだ。常識に従っていい学校に入り、いい会社に入る努力をし、出る杭として打たれぬようひかえめに、しかし何事もそつなくこなし、良妻賢母の女性と出会い、謙遜という美徳をもってして「その他大勢」の一人として恥ずかしくない人生を送る。
しかしそういう人生を、梅山シンジは送りたいと思ったことがない。
かといって、送りたくないと思ったことも、やはりない。
彼はとても前向きな男なので、なにかがいやだとか、なにかが間違っていると思ったことがついぞなかった。ただ、にこにことして、興味を持った方向にふらふら進み、すべての良さを見いだす。それはまるで、遊園地に来てあれもこれもと遊具に吸い寄せられ、いちいち全力で楽しむ小学生のようだった。
息子の前向きすぎる傾向にいち早く気づいた父親は、彼をもう少し男らしく、自己主張する人間に方向転換させようとはかった。父親は息子のお気に入りのおもちゃである七色のスリンキーをとりあげて言った。
「外で遊んでこい」
スリンキーとは、バネの形をしたおもちゃである。手に通して腕輪にしたり、両手で端をつかんで「びよよーん」と遊んだり。階段のてっぺんから片側を下の段に落とすと、一段ずつバネを使っておりていく様子がシンジには面白くてしかたがない。
まだ小学生にもなっていないシンジは、父親がなぜこわい顔をしてスリンキーをとりあげるのかわからなかった。たぶん二十歳を超えた今現在でもわからなかっただろう。父親もよくわかっていなかったのではないか。
ともかく子どものシンジは無邪気に言った。
「やった! お父さんが一緒に遊んでくれるの?」
「いいや、父さんは忙しい。外に行けば、だれかいるだろう」
この時代は少子化とは無縁である。一歩外に出れば子どもが大勢いて、我が子一人外に出してもさほど心配する親はいなかった。シンジは父親を見て、スリンキーを見て、また父親を見て、にこっと笑った。
「はーい!」
それからシンジは外が真っ暗になるまで楽しく遊び、家に帰ってきて父親がスリンキーを返してやると、きょとんとした顔をした。
「それ、お父さんが欲しかったんでしょ? いいよ、あげる」
それを見て母親は久しぶりに大笑いし、父親は顔を赤らめた。欲しかったわけじゃない、と怒鳴ると、シンジはますますきょとんとして、首をかしげた。
「じゃあ、どうしてさっき、階段から落として遊んでたの?」
梅山シンジには反抗期も特になく、ぴりぴりムードの受験期になってもにこにこへらへらし、テストで悪い点を取ろうが、告白した女子にフラれようが、いつでもけろっとしていた。そんなシンジは、たびたび同級生にいぶかしがられた。
「なんでおまえ、いっつも笑ってるわけ?」
言われるたび、彼はにこっと笑って首をかしげる。
「わかんないけど。むしろなんで、みんなは笑わないの?」
それは彼の最大の謎だった。生きているだけでこんなに楽しいのに、どうしてみんなは怒ったり、泣いたり、悲しんでいるのだろうか。ちょっと見方を変えればとりたてて問題はないと思われるようなことであっても、くよくよ悩む人間の多いこと。
しかしそう思っていても、それについていらついたり、ほかの連中は馬鹿だなどとさげすまないのが、梅山シンジの梅山シンジたるゆえんだ。
彼は決して人を悪く思わない。
たぶん、ちょっと調子が悪いのだろう。たぶん、ちょっとむしゃくしゃしているのだろう。だから少し時間が経って、あるいは慣れて、ノーマルモードに戻るのを待てばいい。そうすれば、だれだって話しやすくて落ち着いた、気持ちのいい人間になる。
梅山シンジはそう信じていたし、だいたいにおいてそれは立証されていた。
父親と母親の仲は冷えきっていたが、ふたり別々に話せば人間的な悩みを持った、ごく普通の人だとわかった。いじめっ子だって、いじめられっ子がいないときに話せばわりといい奴で、にこにこしながらほかの遊びを持ちかけると、だんだんいじめへの興味をなくした。近所で恐れられている頑固じじいは毎日あいさつしていると「フン」とそっけないあいさつを返してくれるようになったし、生徒に嫌われている厳しい先生も、その多すぎる宿題のおかげでシンジは古文の文法が理解できるようになったのである。
人はみな、すべからく善だ。だれでも自分にとっていいと思うことをし、自分の大切な人には不幸になってほしくないと思う。それがうまくいかない時は、その人の本性ではなく、タイミングが悪かっただけ。気が合わない人間というのは、自分とのすれ違いが多かった人間というだけだ。
だから梅山シンジは、いつでもにこにこ笑っている。
この世には悪い人間などいない。きっとだれもがいい部分を持っていて、それこそがその人にとってのノーマルな状態なのだ。ちょっとうまくいかないときに、人は犯罪を犯したり、他人や自分を傷つける。
みんな本当はいい人ならば、シンジはこの世になに一つ、不安を持つ必要はない。
そんな男がモテるかと問われれば、答えは残念ながらノーである。
シンジは女の子が大好きだったが、女の子たちはシンジから遠ざかった。むかつく先生や気に入らないクラスメイトの話をするたびに「でもあの先生はこういうところがいいよね」とか「あの子は空気が読めないかもしれないけど、そもそも空気って読まないといけないものだっけ?」なんて発言をされると興ざめする。こちとら一緒に悪口を言ってほしいというのに、これでは自分が悪口ばかりたたく、いやなやつのようではないか。
だれかがどこかで言っていた。長持ちをするカップルは、好きなものが共通しているのではなく、きらいなものが共通しているのだと。
なんにもきらいなものがない梅山シンジは、そういうわけでさっぱり女子からモテなかった。そして、そんな自分にがっかりすることもなかった。女の子への愛と同じくらい、シンジは自分も大好きだったので、モテなくとも自分への愛は変わらなかったのだ。
そんなシンジが早紀ちゃんと出会ったのは、高校二年の夏である。
市民プールの監視員のバイトをはじめたシンジは、毎日が楽しくて仕方なかった。
夏休みを利用して、毎日のように来る家族連れや子どもたち。プールに飛び込む子どもに注意したり、鼻血を出した子にティッシュを持ってかけつけたり。休憩時間中には、落とし物をさがすという名目で、つかの間の貸し切りプールを楽しめる。
子ども連れの親の背中をおおい尽くす刺青をしみじみしながら観賞したり、人魚ごっこをする女の子たちのやりとりをながめたりするのは、日常とかけ離れていて面白い。遊んでいる人というのは、たいていノーマルモードだ。好きな人たちと、好きなことをして遊ぶ時間。最高だ。
タバコを吸う女子高生や、救護室でセックスをしましょうよと軽口をたたきあう日に焼けたヤンキーたちの中にあって、笑顔の少ない色白の早紀ちゃんはとても目立った。美人ではないが、淡々と仕事をして、必要最低限の会話にしか参加せず、仕事が終わればさっさと帰る。
なんだかいいな、と思ったシンジは、いつものように特に深く考えもせず、近づいていって好意を伝えた。早紀ちゃんて、いいよね。おれ、今まで周りにいなかったタイプだよ。高校はどこ行ってるの?
「私、二十歳だよ」
早紀ちゃんはあっさり答えた。こう言えば、高校生のあんたはドン引きするでしょ? とでも言いたげに。しかし、相手はあの梅山シンジだ。そう簡単にはめげない男である。ああ、そうかあ! と納得して、にこにこ笑った。
「だから大人っぽいんだね。あのさ、おれ、早紀ちゃんのこと好きみたい。付き合ってくれない?」
早紀ちゃんは断わった。高校生とそういう関係になるのはちょっと考えられない、と言って。だいたいあんたって、だれでも好きになるんでしょ。私が見てないとでも思った?
「そういうの、恋愛感情とは言えなくない? おととい来やがれってかんじ」
そのとき、人生ではじめてシンジは胸の痛みを感じた。ふられたことは数あれど、こんな痛みははじめてだ。ぷいと背を向けて行ってしまう早紀ちゃんを見つめ、思った。自分は、なんでおととい行かなかったのだろう? それからこうも思っていた。
早紀ちゃんは、おれがだれでも好きになるのをちゃんと見ていたんだ。
ますます、好きになった。
シンジはめげなかった。いつもであればふられた直後にけろりと忘れてしまうのに、そうはならない。ちょっとした休憩時間に話しかけ、アイスを買って一緒に食べようと誘い、帰りに追いかけて送ると言い張った。
毎日、毎日、そうした。夏休みはあっという間に終わった。市民プールのバイトは夏が終わると自動的に解散となる。しかし夏が終わってからも、ふたりは毎日会っていた。手をつなぎ、ごはんを食べて、映画を観に行った。
特に早紀ちゃんが気に入っていたのが『アニー・ホール』や『クレイマー、クレイマー』、『男はつらいよ』の寅さんシリーズ。摩訶不思議なSFやアクションではなく、淡々とした人間ドラマだ。そんなところも、地に足がついていてすてきだ。
そうやって一年が過ぎ、二年が過ぎた。
早紀ちゃんは笑顔が得意な人間ではない。
いつでも他人と一線を置いて、友達も最低限持たない主義だ。その日暮らしで生計を立て、なるべくなら家にいたい。人の多い東京は気がめいる。いつか田舎に行って、一期一会で人と接していられる仕事があるなら、それに越したことはないと思っていた。シンジはその想いをきいて、いつものようににこにこした。それって、最高だね!
シンジは高校を卒業した。大学には行かず、消防士になって二年間をすごし、お金を貯めた。田舎の家なら格安で手に入ると聞いたことがある。いつか買おうと思っていた。そんなとき、ペンション経営者を誘致している村がある、という話を早紀ちゃんの姉から聞き及んだ。
「早紀ちゃん! 一緒にペンションをやろうよ!」
早紀ちゃんの姉は、もちろんシンジに妹を連れて行ってほしいからその話を吹き込んだのだ。姉は妹が東京になじめていないことを知っていて、さっさと引っ越したほうがいいと考えていた。かくしてもくろみは成功した。
早紀ちゃんは友達が少ないが、数えるくらいの信用を置く人間の言うことには素直に耳を傾ける。この世でいちばん信頼している姉と、この世でいちばん気楽でいられるシンジの言葉に、すんなりとうなずいた。
シンジは早紀ちゃんとペンションをはじめるのにそれほど問題を感じていなかったが、周りの人間はそう思っていなかった。シンジと早紀ちゃんはまだ、事実上結婚していなかったのである。
「あ、そうか。結婚してないと信用ってされないんだね」
シンジは必要な手続きをするために出向いた村役場で、すっとんきょうな声をあげた。お役所の人間は困ったように笑い、「ええ、ですからおふたりで経営されるというのは、ちょっと……」と言葉をにごす。シンジは早紀ちゃんと顔を見あわせた。
「じゃ、結婚しようか?」
「そうだね」
特に深く考えないシンジではあるが、早紀ちゃんは現実主義者だ。現実的に考えて、シンジ以上に素直でウソをつかない人間はこの世にいないな、と思った早紀ちゃんに迷いはなかった。ロマンチックなプロポーズに対するあこがれもないので、村役場で職員の見守る中結婚を決める返事をしたときも、特に不満はなかった。
そしてふたりは結婚し、無事にペンションを経営する運びとなった。
田舎で暮らすのもはじめてなら、ペンション経営もはじめての連続だ。となり近所のペンション経営者にときどき手伝ってもらい、いろいろなことを教わった。まきの割り方や火のつけ方、タイヤのチェーンのまき方、買いだめのコツ、ガソリンを長持ちさせる運転のコツ。
あらゆることを教わりつつ、ときどき一緒に食事を囲んで、日帰り温泉で裸の付き合いをし、若い者同士のパワーがありあまっているのもあって、あれをやろう、これをやろう、と語り合った。
早紀ちゃんもここでの暮らしが気に入って、黙々と庭いじりや大工仕事をしていたかと思うと、近所の奥様同士でジャムを作ったりドライフラワーを作ったり。楽しそうにしてお土産を持ち帰るのだった。
ふたりには子どもがいなかったし、経営に慣れるまではいなくてもいいと思っていた。仲間がたくさんいるし、お客さんが来れば家は活気づくし、なによりふたりの時間も大切にしたい。
そんなある日のことだ。客室の大掃除をしていたシンジが、いくぶん困ったような顔で、頭をぼりぼりかきながら早紀ちゃんのところにやってきた。
「なあに、そんな顔して。雨漏りでもあった?」
「ううん、そんなんじゃないけど」
シンジはちょっと考えて、いつものとおり、にこっと笑った。
「実はね、早紀ちゃん。すっかり忘れてたんだけど、お金を隠してたみたいで」
「なにそれ? へそくりってこと?」
「たぶん。でも、覚えてなくて。おかしいなあ」
早紀ちゃんはため息をつく。シンジはなにがあろうと悪びれない。だれ一人悪い人などいないと信じているから、自分だって悪い人ではないと信じきっているのだ。
この自信を、早紀ちゃんは少しばかり見ならいたいとさえ思う。
「で、いくら?」
「うーん、ちゃんと数えてはいないんだけど」
「だったら、なにか有効なことに使ったら? 私、別に欲しいものとかないし、たぶんシンジもそうでしょ」
「うん、そうだね。今の生活で満足してる」
「じゃ、仲間となにかはじめる資金に使えばいいと思うよ。いつもみんなで計画してるんでしょう?」
シンジは考えた。ペンション村の反対側にすむ山川さんは、マラソン大会を開くつもりだし、はす向かいの篠塚さんは、ジャズライブを定期的に開くつもりらしい。朝市にフリーマーケット、クラフト市。どれもみんな活動をはじめていて、シンジが今さら参加表明をしても、お金を出すだけで終わってしまいそうだ。
どうせなら、自分が思いついたことをやりたいな、とシンジは思った。みんなのやっていることは最高だから、自分もなにか最高なことがしたい。
じゃあ、なにをやろうかな。
おりしもその日はペンションにお客がなかった。久しぶりに、町へおりて映画でも観ようと早紀ちゃんに誘われ、シンジはにこにこしてうなずいた。ふたりで手をつなぎ、車を二十分走らせて、いちばん近い小さな映画館に行った。
そこでシンジは『風の谷のナウシカ』を観たのである。
映画が終わったあと、早紀ちゃんは大満足して旦那をふり返った。摩訶不思議な世界観だったけど、わりと良かったね、と笑いかけて、放心しているシンジに気付き、首をかしげる。はて、夫が放心するなんて。いつも空気が読めないくらいにこにこしているというのに、どうしたのだろう?
大丈夫? と腕に手をかけると、シンジは頬を紅潮させて、早紀ちゃんの手をつかみ、これ以上ないほどの笑みを浮かべて言った。
「早紀ちゃん、これ! この映画を、外で観よう! あの草原で、かけよう!」
こうして、2億4430万円のお金の使い道が決まった。
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