第4話 天狗になりそこねた映写の息子

 倉森将司は、茅野駅からほど近い小さな映画館で映写を担当していた。


 車を少し走らせれば丸い諏訪湖があり、七年に一度の御柱祭で有名な諏訪大社もある観光地だ。あちこちにペンションが乱立していて、外からのお客は多い。もともと地元の人間ではなかったが、映画館が複数なければ市として成り立たないというので、懇願されてやって来たのだ。


「おまえは映画からは離れられない男なんだよ」


 昔、父親に言われた時はむっとして、しばらく家を離れたこともある。若かったのだ。結局父親の言葉どおり、映画屋を継いでフィルムをつないでいるのだから、大人の言うこともあながち検討はずれと馬鹿にはできない。


 その日も倉森は映画を回していた。映写の仕事は孤独だ。何百回と同じ映画を観ていると、だんだん気が狂いそうになる。後年公開された『ニュー・シネマ・パラダイス』を観て、「これはおれじゃないか」とえらく感情移入をしたものだ。


 映画をかけて、画像の揺れやピンぼけのチェックをしていると、電話がかかってきた。その日の最後の上映で、夜中近い。チケット売り場の人間はとっくに帰っていた。こんな時間に迷惑な、と舌打ちしながら倉森は電話をとった。


「はい、こちらスピカ劇場」

「もしもし、原村でペンションを経営している、梅山って者です。野外映画をやりたいんだけど、お手伝いしてもらえませんか?」


 倉森は頭をかき、小さくため息をついた。

「野外映画?」

「はい、いい場所がありましてね。うちの近くの、森と言うか、草原と言うか。とにかく最高の場所で」

「無理です」

「え?」

「無理」

 倉森は電話を切った。エンドロールが終わると、客を帰して仕事を終えた。


 翌日、スピカ劇場に若い男がやってきた。満面の笑顔で。

「どうも。ゆうべ電話した、梅山シンジです」


 倉森は頭をおさえた。厄介な輩に目を付けられてしまったようだ。


「ええと……」

「原村で、ペンションをやっています」

「ああ、はいはい。思い出した」


 あの、若い連中が集まっているペンション村か。

 倉森はまだ二十代後半だったが、そう思った。


 うわさはきいている。あれこれイベントを企画してはいるが、どれも長続きしないとか、思いつくだけで責任感がないとか、まあとにかくいいうわさではない。


「そっちって、たしか標高が1200くらいなかった?」

「うちのとこで1300かな」

「夜になるとだいぶ寒いんじゃないの」

「でも、めったに雨も降らないんですよ。水をやらないと芝生も枯れるくらいで」

「あんまりうまくいかないと思うけど」

 やんわりと断わるつもりで言ったのに、男は、ははっと笑った。

「それをやり遂げたら、最高だと思いません?」


 どうやら口で言ってもあまり効果はないらしい。納得させるには、現地に行って、地形と機材の説明をし、お金の話をして、大人の対応であきらめてもらうしかなさそうだ。


「わかったよ。じゃ、今度の休館日に見に行くから」

 にこにこしながら説得を続ける男に、とうとう倉森はそう言った。とにかく、まとわりつかれちゃ仕事にならない。

「本当ですか? やった! 倉森さん、思ったとおりいい人ですね!」

 梅山シンジはぶんぶんと握手をし、映画を一本観て、満足そうに帰っていっ

た。


 倉森はため息をついた。

 大人の対応であきらめてもらう、か。

 いつのまに、父親のような考え方をするようになってしまったものだ。




 倉森の実家はとなりの町の映画館に隣接していた。

 とにかく『ニュー・シネマ・パラダイス』と同じなのだ。朝から晩まで映写室にこもる父親に、あれこれ機材の扱いを教わり、火事にはいたらなかったもののフィルムに火がついて大あわてになったこともある。


 それでも子どものころは映画が好きだった。映像さえついていれば、音がなくともいつまででも観ていられたし、字幕が読めなくとも関係なし、食い入るように映画を観続けた。いずれ自分も映画をかけられるかと思うと、わくわくした。


 けれども、ある程度若さが峠を越えそうになると、少年は父親に対して反抗したくなるものだ。そうじゃない連中もいるだろうが、とにかく倉森将司はそうだった。父親と大げんかした末、ぼこぼこに殴られて、とりすがる母親をふり払った。


「映画なんかくそくらえだ。おれは絶対継がないぞ」

 吐き捨てるように言うと、父親はそうかい、と息子を突き飛ばした。

「じゃあ、出て行け。どうせ帰ってくるだろうがな。おまえは映画からは離れられない男なんだよ」


 倉森は父親のバイクにまたがり山へ走った。二度と帰るかと思った。中学三年生の夏である。


 そこで倉森は、天狗と出会った。




 倉森は一人車を走らせていた。ぶつぶつ呟きながら、地図を確認する。どう考えても道を一本間違えた。くそ。


 セロリ畑のど真ん中を突っ走り、森の中へ入っていく。ここらにはため池がやたらとある。カーブを超えると、八ヶ岳が正面に待ちかまえていた。女性が横たわったように見える山の稜線は、地元の人間から「いい女でしょ」とにやにや言われたことがある。「あんたは、これいないの?」そう言って、にやにや小指を立てられた。


 どいつもこいつも助平め。


 標高1200メートルの立て看板を見つけて、そろそろ右へ曲がらねばと地図を確認する。農業大学校の敷地を抜けて、そのあとは左に曲がって。まったく、こんな場所でよくも観光客を呼び込めるもんだ、と地図の読めない男はぶつくさ言いながらハンドルをきった。


 結局、迷いまくって約束の湖のそばに車を乗り付けたのは、予定から十五分も遅れた時刻だった。ジムニーによりかかってタバコをふかしていたメガネの男が、にこにこしながら手をふってくる。倉森はエンジンを切りながら、湖にしちゃえらく小さいじゃないかとつまらなく思った。これじゃ、ため池だ。


「どうもどうも! 梅山です」

「倉森です。すみません、慣れない道で迷ってしまって」

「あはは、そうじゃないかと思って待ってましたよ。ちょっと寒いでしょ?」

「あ、上着を持ってきてますんで」

「えらい!」

「映画館の連中に持っていけと言われて」


 それにしても、たしかに寒い。たかだか十五分か二十分の距離なのに、これほど気温が変わるとは。


 季節は五月。連休が終わって観光客もひいている時期だった。梅山は「こっちです」とにこにこしながら湖(と呼ばれているため池)を回り込んでずんずん森に入っていく。ふと見ると、やっと桜が咲いている。倉森は足を取られないようにしながら眉をひそめた。


「結構歩くんですか? お客さん、入りますかね?」

「大丈夫、大丈夫。ペンション村から土手をのぼればすぐだから。でも、機材とかを運ぶんなら、この道からいかないとダメかもなあ。ま、それはおいおい考えましょ」


 のんきなやつだ。倉森の中では、こんな馬鹿げた映画企画ははじまってすらいないというのに、梅山の中では着々と進んでいる。


 どう言ってこの男にあきらめてもらうか、そればかり考えていた倉森は、梅山が立ち止まって「ここですよ」とにこにこすると、ああ、と素直な声を出してしまった。


「ああ……ここなら、たしかにいいかもしれない」




 父親に反抗して家を飛び出した倉森少年は、山にぽつりぽつりと置かれた外灯の下でバイクを止めた。むしゃくしゃして、奇声をあげながらガードレールを蹴った。しまいに足を痛めてうずくまり、「だっせえ」と呟く。


「ほんとにだせえな」


 倉森はぱっと顔をあげて立ち上がり、声の主を探した。幽霊なんて信じちゃいなかったが、この暗さは本能が恐怖を呼び起こす。


「ここだよ、目の前」

 倉森ははっとした。自分が乗ってきた父親のバイクに、長髪をくくった小男があぐらをかいて座っていた。缶ビールをちびちびすすり、紙くずのように丸めて道路わきに投げ捨てる。


「だれだ、おまえ。いつからいた」

「さっき。おまえ、若いな。まだ十歳くらいか?」

「は? 馬鹿にしてんのか」


 反抗期の倉森は学校でも荒れていた。だれもかれも気に入らない。初対面の小男ならなおさらだ。勝手に人のバイクに乗りやがって。


 ……こいつ、どっからあらわれたんだ?


「ああ、馬鹿にしてるぜ。だってほら、このバイク。ガソリンが切れちまう」

 男はふところに手を差し入れて、もう一本缶ビールを出してプシュッと開けた。ぐいと飲みながら、バイクのガソリンタンクを指でコツコツたたく。

「おまえ、帰れねえな。かわいそうに」


 倉森はあわててバイクのエンジンをふかした。男はひょいと降りて、にやにやしながらビール缶を傾ける。エンジンをかけた瞬間、バイクはプスンプスンといやな音を出し、またがってアクセルを踏み込むと、エンジンブレーキがかかったようにのろのろと動き出した。それも二十メートルほど進んだところで、いまわの「プスン」を言い残して完全に止まる。


「くそっ!」

「ははは。まあ、業だわな」

 小柄な男はまたもやビール缶を簡単にひねりつぶすと、千鳥足で倉森のそばへ歩き、バイクをぽんぽんたたいた。

「まだ寿命はおわっちゃいねえさ。しばらくおまえとは付き合いたくないんじゃねえのか? ぶりぶり怒ってるやつなんか、願い下げだとさ」

「なんだよ、おまえ。さっきっからえらそうに。どこからわいて出た?」

「おれはお山に棲んでいる」

 男は倉森をしげしげとながめて、にやっと笑った。

「ちょうどいい。おまえに修行をつけてやろう。おまえ、天狗にならねえか?」




 倉森はしばらくその場所をためつすがめつして、じっと立ち止まったかと思うと、小高い場所へかけあがり、見おろして、ああ、ともう一度言った。


「いいかもしれない」

「そうでしょ」


 梅山はにこにこしながら倉森のとなりに立った。倉森はふところからタバコを出した。一本くわえると、梅山がすかさずライターに火をつけて差し出す。「どうも」と言いながら火をつけ、すうっと吸い込んで、煙を吐き出す。


「よく見つけましたね、こんなとこ」

「ほんとに近所なんですよ。ほら、あっちのほうから、うちまで五分くらい」

 背後をうかがって、倉森はタバコをくわえた。


「なにも見えないな」

「ちょっと土手になってるからね。ペンションの光はここまで届いてこないし、夜は本当に真っ暗になるよ。映画をかけるにはちょうどいいでしょ?」

「それより、この傾斜が最高だ。円を描くようにして椅子を置けば……いや、椅子じゃなくて、石段がいいな。スパルタの円形闘技場みたいに」

「それで、あの場所にスクリーンをはって。結構大きなスクリーンがはれると思うんだよね。お金なら用意できるよ。夏に毎日、映画をかけよう。千人だって座れる広さだ」

「千人? いったいどんな映画だよ」


 倉森は鼻で笑った。くるりと背を向けて、丘を登りはじめる。梅山はだまってついてきた。平坦な草っ原に出て、少し歩くと視界にペンション村が見えてきた。


「これか」

「そう。うちはあれ」

 梅山はにこにこしながら指差した。なるほど、たしかに近所だ。この立地なら夏場に観光客は必ず来るから、野外映画を面白がって観に来る客は充分見込める。どうせ田舎のペンションなんて、夜にはほとんど娯楽もないのだ。


「で、資金はどれくらいある」

 いつのまにか倉森の敬語は抜けていた。別にかまいやしないだろう。これからは仕事仲間になるのだし、年下に敬語というのも倉森のポリシーではない。


「ええっと、どれくらい必要かによるけど」

「そうだな、まずは邪魔な木を切る。そして椅子代わりに石段を置く。スクリーンはちゃんと屋根つきにして、映写小屋も建ててもらう」

「わお」

「なんだよ。そんなに金はないってか?」

「いやいや」

 梅山はうれしそうに笑った。

「話が本格的になってきて、めちゃくちゃ最高だなって思ったんだ」


 倉森は肩をすくめた。

 これだから若いやつは。


「大工を呼んで、話をつけよう。おっと、その前にこの土地の使用許可がいるんじゃないか? そのへんはどうなってる」

「使用許可?」

 梅山はぽかんとした顔をした。まさかこいつ、何も考えていなかったのか。


「人様の土地に、勝手にスクリーンやら映写小屋やら建てられるわけがないだろうが。この土地はいったいだれの持ち物なんだ?」

「ええと……考えたこともなかったな。いつもの散歩コースだったから」


 倉森はため息をつき、足元にタバコを捨てた。この時代にはポイ捨てをやめましょうという教育はなく、しかるべくしてポイ捨てが悪いという共通概念もなかった。


「じゃ、土地の許可をもらったら、また呼んでくれ。大工と話すときには映写からもいつくか注文がある」

「えっ。じゃあ、手伝ってくれるんだ?」

 梅山は顔を輝かせた。ずっとそのつもりでしゃべっていたくせに、しゃあしゃあとしたやつだ。


「正当な対価は払ってもらう。おれは一介の映写だ。会場設営は、そっちで負担してもらうからな」

「もちろん、もちろん」

 車に戻る倉森に、梅山はにこにこしながらついて行った。あははと笑う、その声が森中に響く。


 まるで天狗笑いだ、と倉森は思った。




 天狗と名乗ったその男が、世間一般で言うところの「妖怪」なのか、実際のところ今でもわからない。もしかしたら、本当に天狗だったのかもしれない。もしかしたら、子どもをからかっていただけかもしれない。もしかしたら、どこかで頭をぶつけて、ありもしない記憶をこさえてしまったのかもしれない。


 それでもあの夏、たしかに倉森少年は天狗と暮らしたのだ。



 天狗は哲文と名乗り、倉森をこづいたりにやけたりしながら、修行と称して山を駆け回らせ、裸足で川を歩き、ときには将棋に付き合わせた。


 天狗と名乗っているわりには、わりと現代的なトタン屋根の山小屋に暮らし、Tシャツとすり切れたジーンズ、便所サンダルという格好で、妖怪らしさは欠けらもない。伸び放題の髪はうしろでくくり、朝になるとぼりぼり腹をかきながら、くああとあくびをかいてひげを剃る。


「おまえ、やっぱり普通のおっさんだろ」

 何日めかに倉森がむっつりした顔で言うと、哲文はにやにや笑って缶ビールをプシュッと開けた。朝っぱらから、この天狗と名乗る男は酒を飲んだ。


「そう思いたきゃ思っとけ」

「だって、顔が赤くないし」

「ほお、たしかにな」

「鼻も長くないし」

「わりと男前だろう、ちがうか?」

「背も低いし」

「天狗は普通、背が高いのか?」


 倉森少年は肩をすくめた。そうあらたまってきかれると、わからない。しかしそれでもこの男を「天狗じゃない」と切って捨てられないのには理由がある。


「じゃ、修行をするか」

 哲文はにやにや笑って立ち上がる。ビールを片手に庭に出て、倉森へ不敵な笑みを向けるのだ。

「そら、かかってこい」


 倉森は最初、こんなアル中に負けるわけがないと思った。教師にも父親にも、相手を手こずらせるくらいには喧嘩をしてきた。哲文は小柄だし、どう見ても筋肉質とは言えない。はじめてやつが「かかってこい」と言ったとき、山小屋に泊めてくれた恩を感じて手加減をしようかと思ったくらいだ。


 だが、今は全力でかかっていく。そして気づいたときには、ぽーんと体が投げ飛ばされているのだ。哲文はビールを持っているから、いつも片手で。


「今日はまあまあだな」

 いつもどおりに片手で投げ飛ばされたあと、倉森は歯ぎしりをしながら哲文をにらんだ。哲文はひょうひょうとして、ふむとあごに手をそえ、考えるふりをして笑う。


「そうだ、今日の修行はバイクを押してガソリンスタンドまで走ることにするか。そうすりゃ、いつでもおれから逃げ出せる」

「逃げ出したりなんかしねえよ」

「ほお?」

 哲文はにやにや笑った。そのにやにや笑いが、反抗期の少年にイライラをつのらせる。


「てめえをぶん殴るまで、ここにいる」

「ふん、ま、いいだろう。しかしそれはそれ、これはこれだ。靴をはけ。ガソリンスタンドまで十五キロあるぞ。日が暮れる前に、走れ!」



 それでも結局、夏の終わりに倉森は、ガソリンを満タンにしたバイクで山小屋を逃げ出すはめになったのだ。


 哲文がそれを言い出したのは、倉森が山小屋に来てひと月が経とうというころだった。もうすぐ学校がはじまり、母親は本格的に取り乱すだろう。警察にだって捜索願を出すかもしれない。父親は、そんなもん出すなと言うだろうが。


「おまえ、このまま天狗になるんなら、嫁をもらえよ」


 夜。冷蔵庫に頭をつっこんでビールをあさりながら、哲文は「シャツは洗っとけよ」とでも言うような調子で言った。

「は?」

「くそ、酒が足りねえな。ひとっ走り買って来るか」


 哲文は冷蔵庫の扉を乱暴に閉め、ふり返ってにやりとした。

「知り合いの娘だがな、なかなか器量はいいぞ。おまえは運がいい」

「待てよ、なんの話だよ。嫁?」

「ああ、言わなかったか? 生まれつきの天狗ってのは女に興味がない」


 思わず倉森少年は、ずささ、と哲文から後ずさった。天狗はからから笑い、心配するなと言いながら最後の缶ビールを開けた。


 倉森は、この男がビール以外を口にしているのを見たことがない。ずっと一緒にいるはずなのに、米もうどんもラーメンも、肉も野菜も、とにかく食べ物を口にするそぶりさえなかった。哲文はビールを買うついでに倉森の弁当を買ってくれたが、本人はつまみさえ手をつけない。腹はへらないのか、と訊くと、えらい天狗は水しか飲まねえのさ、と笑った。水じゃなくてビールだろと反論すると、ありゃあ、本当だ、と笑って酒をあおった。


「女にゃ興味はないが、だからと言って男にも手は出さねえよ。あっちがたたねえんだ、天狗ってのはさ。だから天狗の女のために、人間をさらって修行をつけて、むこ殿にしてやらなきゃならねえ」


 哲文はビールを傾け、ん? と首をかしげた。

「言ってなかったか?」

「聞いてねえよ! なんだそりゃ? じゃああれか、おれは競馬の種馬だってのか?」

 顔を真っ赤にして怒鳴ると、哲文はくつくつ笑った。

「ま、そういうこった」


 背筋がぞわっと泡立った。


 父親の決めた生き方をするのがいやで、逃げてきた。だけど結局、ここにいたら哲文の決めた生き方をするはめになる。突然それに気づいた。


「おれは帰る」

「ほお、ぶりぶり怒るのはやめたのか。父親に尻尾をふって庇護してもらうか?」

「うるせえ! 天狗の女なんかまっぴらごめんだ! 助平め、死ね!」


 倉森はバイクのキーをつかんで庭に出た。ドアに寄りかかってビールを飲みながら、哲文が「考え直せよ」とつまらなそうに言う。

「おまえ、なかなかすじがいいぞ。人間にしとくにゃもったいねえなあ」

「だまれ。どうせ天狗だってのも嘘っぱちだろ。さっさと下界に下りて仕事しろ、プー太郎」

 哲文のげらげら笑いを背中に聞きながら、倉森はアクセルを踏んだ。


 それ以降、哲文とは会っていない。




 今でもふとしたときに思い出す。


 あのとき逃げ出して良かったと思う反面、父親のもとで大人しく映写を継いだ自分にあきれる気持ちもある。しかしどちらにしろ、倉森は今の生活を気に入っている。自分の映画館と、職場の仲間。そして今年の夏は、野外映画祭の企画もある。


 忙しくなるぞ、と倉森は思った。忙しいから、とても女のことなど考えられない。おそらくもう何年かは、浮わついた話のひとつも自分にはまわってこないだろう。自分に結婚は向いていないかもしれない。それでも別にいいとさえ思った。


 だが倉森は、このあとすぐに将来を誓い合う女性と出会うことをまだ知らない。


 そしてその女性がシマウマを飼っていることも、まだ知らない。

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