第5話 シマウマを飼う女と会場の使用権

 梅山シンジは村役場に電話をかけた。

 あの草原は、だれが持っているんですか?


「草原って、どこのことです?」

 電話をとった女性は不機嫌そうな声で言った。

「原村なんて、どこもかしこも原っぱでしょう」

「ええと、ほら、まるやち湖のそばの、ペンション村のそばの」

「お答えできかねます」

「知らないってことですか?」

「お答えできかねます」

「じゃあ、だれに聞けばいいですか?」

「お答えできかねます」


 うーん。この電話をとった人、ノーマルモードではないのかもしれない。


 シンジはお礼を言って電話を切った。次に電話した時は、この人の機嫌がいいときがいいな。それがこの人のノーマルモードなはずだから。

「よおし、ご近所さんにきいてみるかあ」



 この時代、インターネットはおろか、スマホも携帯電話もありゃしない。調べたいことがあるならば電話をかけるか、足を使うか。


「あの空き地? さあ、たしか自然公園を作るって話じゃなかった?」

「ちがうちがう、ここらの地主さんがオーケーしないってうわさ」

「あれだけの土地を放置しとくなんてもったいないよね、せっかくペンション村を作ったのに」

「みんなで勝手に大改造しちゃおうか。住み着いちゃえば、無理やり追っ払うことはできないだろ」

「いいねえ、そうしよう。不法占拠だ!」

 イタズラっぽく笑うご近所さんににこにこ笑顔を返して、シンジはたずねる。

「で、その地主さんってのはだれ?」




 ペンション村の反対側に、木でできたおしゃれな家が建っている。四台分の小さな駐車場と、おちくぼんだ地形をカバーするようにこさえたテラス。かわいいその家は、カレーとアイスを売っている。ほとんどの人は、アイスが目当て。


 シンジはこれまで何度もやってきたアイス屋さんに、早紀ちゃんを連れて散歩に出かけた。ペンション村のはじっこからはじっこなのに、歩いて十分くらいしかない。地図で見ると横幅は短いから、当然か。それでも、たてに端から端まで歩いても、十五分くらいだろうけれど。


 早紀ちゃんはお店の店員さんと顔なじみらしく、元気? 最近、ねずみが出ちゃってさ、なんて世間話をしている。東京とちがってゴキブリが出ないからまだいいけど、ねずみは実害があるから困るよね。


 シンジは目をきらきらさせて五種類のアイスから選んだ。王道のバニラ、イチゴ、ここから趣向が変わってトウモロコシ、セロリ、ほうじ茶。

「おれ、ほうじ茶にしようかな。早紀ちゃんは?」

「バニラ」

「いいね、最高」


 店員さんは三角コーンに、ほうじ茶味のアイスとバニラ味のアイスをそれぞれ乗っけて渡してくれた。シンジは首を伸ばして、奥で作業をしている若い女の人を見つける。


「もしかして、あれ、日達さん?」

 早紀ちゃんと仲良く話していた店員さんは、ちょっとふり返ってうなずいた。

「そうよ、涼子ちゃん。最近バイトで入ってくれたの。連休中は助かったわー」

 早紀ちゃんはアイスを片手に椅子に座る。シンジはカウンターに立ったまま、そわそわと首を伸ばす。


「日達さんって、あっち側の土地を持ってる日達さん?」

 はっと涼子ちゃんが顔をあげて、シンジを見た。どことなくおどおどした、触ったら折れてしまいそうな、はかない感じの顔立ちと雰囲気。かわいい、とシンジは思った。早紀ちゃんほどではないけれど。


「そうそう。ね、涼子ちゃん。あんたもあのへん、よく歩いてるよね?」

「……はい」

 涼子ちゃんは三角巾でまとめた黒髪をゆらして、背中を向けて作業に戻る。シンジはにこにこしながらアイスをなめて、おいしいよ、と店員さんに笑った。それから早紀ちゃんの座るテーブルにつく。


「どう、収穫はありそう?」

「大丈夫、大丈夫」

 シンジはにこにことアイスをなめた。

「それにしても、おいしいな。また食べに来ようね、早紀ちゃん」




 日達涼子は生まれも育ちもこの村で、ただし生家はペンション村よりも標高の低い、村役場のほうにある。そちらではもうちょっと村は町くらいに栄えていて、スーパーもガソリンスタンドも学校も保育園も図書館も普通にあるから、そこまで田舎暮らしをしている感覚はない。もちろん、車がなければどこにもいけない、というのを田舎特有と呼ぶのであれば、間違いなく田舎ではあるけれど。


 涼子は村にある唯一の保育園に通い、村にある唯一の小学校に通い、村にある唯一の中学校にも通って、無事に卒業し、実家に居続けた。


 かわいいけれど、人付き合いは苦手。森の中で一人たたずんでいるか、動物の世話をするのが生きがいだ。


 学生のときは生き物係を率先して引き受け、家ではおばあちゃんの飼っているにわとりにえさをやり、免許を取ってからは農業大学校に毎日のように出かけて、一般公開されているヤギや牛をながめては、にまにましている。


 そんなふうにプー太郎生活を満喫していたけれど、ある日とうとうお父さんに言われてしまった。働くか、結婚するか、どっちかにしなさい。


 時代的に言って、娘にはさっさと結婚してほしいのが親心のスタンダードだ。ところがこの村には昔から外の若者が集まって、ペンションやカフェなどの自営業をやりたがる女の人も多かったものだから、涼子の親も娘にそれくらい自立心を持ってほしいと思っていた。それで、涼子が働くほうを選んだとき、ホッとした。


 涼子はいつも農業大学校へ行きたがる。だからバイト先を選んだときも、やっぱり農業大学校のそばのペンション村だった。まあ、いいんじゃないか、と両親はうれしそうにした。それで涼子も心おきなくアイス屋さんでバイトができた。


 なんせ涼子には秘密があったのだ。だれにも不審がられずに、毎日ペンション村に出入りしなければならない、秘密が。




 仕事を終え、エプロンをつけたまま中古のフィアットに乗り込もうとした涼子の前に、「やっほー」と陽気なシンジが顔を出した。いつもなるべく人間と関わらないように生きている涼子は、突然目の前に若い男が接近してきて、ぎょっとしてキーを取り落とす。


「あはは、ごめんごめん。はい、どうぞ」

 拾って渡されたキーを握りしめ、涼子は目を落とした。

「……なにか、ご用ですか」

「うん、あのさ、土地の使用許可をもらいたいんだ」

「土地?」

「うん、さっき言ってたでしょ。あっちのほうの、土手の向こう。あすこで映画をかけたいんだ」


 涼子の眉がぴくりと動いた。不穏な動き。

「映画って?」

「一日一本。日替わりでさ。夏のあいだだけ、映画祭をやれたらなって思うんだ。きっとお客さんも来るし、楽しいし、最高だと思って」


 涼子は頭に巻いたままの三角巾を脱ぎ、キーと一緒に両手で握りしめた。

「……私に言われても」

「お父さんが土地を持ってるんでしょう? だから、きみから言ってみてくれないかなって思ったんだ。もちろんおれもあいさつには行くつもりだけど」


「……映画って……たくさん、人を呼び込むってことですよね?」

「うん、そうなるかな」

「そうしたら……人が、あのあたりを踏み固めてしまうってことですよね。土を。草を。あんなにすてきな場所を、コンクリートみたいにかちかちになるまで、人が歩くってことですね」


 シンジはきょとんとして首をかしげた。涼子は手の震えを押さえるために、ぐっと三角巾とキーを握りしめている。


「ええと……でもほら、映画を観るのは楽しいし」

「私は……賛成できません。いやです。やるならほかの場所を探せばいいでしょう」


 きつい言い方になってしまったと自分で気づいて、涼子ははっとシンジを見上げた。シンジはにこにこして、首をかしげる。


「きみ、すごくいい人だね。あの草原と森が、ほんとに好きなんだねえ」


 涼子は真っ赤になって目をそらした。車のドアを開け、乗り込む。シンジはフィアットの屋根に手を置いてにこっと笑った。


「おれもあの場所が大好きなんだ。だから、あそこで映画をかけたら最高だなって思ってる。ちょっと考えてみてくれない?」

「どいてください。車、出します」

「おっけー」


 シンジはにこにこしながら手をふった。フィアットが切り返して、村役場とは反対方向に走り出すのを不思議そうに見送る。


「あっちに行ったら、草原に行っちゃうけどなあ。あ、あの子もあの場所が好きなのかな?」


 そうだったらすてきだと、シンジは思いながら自分の家のペンションに歩き出した。あの場所を知っていれば、映画を観るには最高のロケーションだって、だれだって思うはずだから。




 長野の県木でもある白樺は、白くてなめらかな木肌を持った、美しい木だ。樹液は煮詰めると甘いシロップになるけれど、楓の木とちがって大量の樹液が必要になるから、だれもシロップなんか作らない。寿命が短くて、木が成長しきって倒れるのは七十年くらいと言われている。そんな白樺は、焚き付けにはちょうどいい。密度がなくてスカスカだから、ばんばん燃えてしまう。いきおいがよすぎて、すぐに燃え尽きてしまうから、長持ちする暖房向けの火にはならないが。


 涼子は白樺の木が好きだった。森、と聞けば木肌の黒っぽい広葉樹の木々を思い浮かべるが、林、という言葉には、白樺の立ち並ぶ光あふれる草っ原が目に浮かぶ。


 涼子は車の免許を取ってすぐのころ、よく白樺の森まで走らせた。木々に囲まれていると、動物に囲まれているのと同じくらい、なんだかほっとして、いつまでもそこにいられる気がした。実際、人付き合いの苦手な涼子には、鳥や虫や葉ずれや風の音の中でじっとしているほうが、家にいるよりずっと居心地がよかったのだ。


 涼子は最近二十一になったから、免許を取りたてのときは三年前ということになる。その日、白樺湖まで車を走らせた涼子は、近くまで移動動物園が来ていることを知らなかった。



 その動物園はお客に動物たちを見せるため、朝から大忙しだった。動物が逃げ出さないための柵を立てて、えさを用意し、何時からですかと聞きにくる、気の早いお客さんに受け答えたりしていた。


 その時期、移動動物園には新人の飼育員が一人いて、彼はシマウマの柵を立てるよう言付かった。高さの調節がわからないが、おそらくシマウマの肩より高ければ大丈夫だろう。そんなに広さはないし、まさかサラブレッドのように助走をつけて飛び越えられはしないだろうし。


 しかし、新人君は根本的な部分で間違えていたのだ。シマウマは、「ウマ」とはつくが馬ではなく、ロバの仲間だった。


 新人君が組み立てた肩の高さまでの柵を、ロバの仲間のシマウマは、ろくに助走もつけずに跳躍力だけで超えてみせた。そしてだれに見とがめられることもなく、シマウマは走った。


 馬ではないからまっすぐ一直線に走ったりはしない。気まぐれに失速したりよろめいたりしながらも、白樺湖に向かって進み、移動動物園からみるまに遠ざかっていったのである。


 文字通り道草を食いながら白樺湖の浅瀬までやってきたシマウマは、じゃぶじゃぶと湖に入っていって水を飲み、満足すると草を探した。ふらふら、よろよろ、気まぐれに歩いたので、足跡は複雑になり、おそらくだれも判別できない道順になった。


 シマウマは白樺の立ち並ぶ森で草を食みはじめ、満足げにしっぽをふった。そしてふいと顔をあげ、ぴたりと止まった。目の前にぎょっとして動けないでいる、十八歳で、免許を取りたての、おどおどしてはかない顔立ちの女が立っていた。



 シマウマは臆病で気性の荒い性格だ。本来ならば人に馴れず、よって家畜にされた歴史もない。しかし、シマウマはこの人間に対し、本能的に自分と同じものを感じた――臆病で、自分以外の生き物に警戒し、おどおどしている傾向を。


 シマウマは思った。これはきっと仲間だ。だから警戒しなくてもいい。


 たぶん。


 涼子は思った。なんてきれいなんだろう。白地に黒のしましま模様。白樺とおんなじだ。白樺とシマウマが、こんなに似ているなんて思いもしなかった。



 涼子はそっと、シマウマのとなりに座り込んだ。シマウマは警戒することなく、涼子のそばで草を食み続けた。やがて家に帰る時間になったので、涼子は立ち上がって車に向かった。するとシマウマは群れについていくかのように涼子のあとを歩いた。


「一緒に帰る? でも、あんたの住める場所はないんだけど」


 シマウマは真っ黒な瞳で涼子を見つめるばかりだ。涼子は胸がドキドキした。動物の世話は大好きだが、こんなになついてこられたのははじめてだった。


「わかった。おいで。がんばって、乗ってごらん」


 免許を取りたての涼子は、まだ自分のフィアットを買ってもらっていなかった。その日、おじいちゃんの屋根つきの軽トラに乗ってきていた涼子は、シマウマをなだめながら荷台に載せて、カバーを下ろして中を隠し、車を発進させた。


 家にいちばん近い、白樺の森にこの子を放し飼いにしてあげよう。できるだけ人がいない、空き地がいいな。


 そんな場所にひとつ見当があった。父親が土地を持っている、まるやち湖のそばの、木立のある草原だ。ペンション村には近いけれど、奥のほうならば木々が深いし、だれも立ち入ったりはしないだろう。


 そういうわけで、涼子は三年前からこっそりシマウマを飼っている。



 ところで移動動物園の関係者はというと。白樺湖まで進んだあとそれっきりになっているシマウマの足跡を発見して、彼らは胸を痛めた。大事なシマウマは溺れ死んだのだと判断し、新人をしかり、そのあとしばらく喪に服した。




 次の日も涼子はアイス屋さんのシフトが入っていた。


 季節的にお客さんは少ないけれど、掃除をしたり、庭の草木の世話をしたり、やろうと思えば仕事はいくらでもある。夏になったら細かい仕事はできなくなるほど忙しい。だから今のうちに、覚えられる仕事は全部こなさないといけない。


「やっほー、こんにちは!」


 おやつの時間の三時になると、またあのお客がやって来た。にこにこして、何も考えていなさそうな、どこか頼りない風貌のメガネの男。


「いらっしゃい、梅山君」

 オーナーの富田さんが、昨日と同じく接客してくれる。涼子はホッとして台所の仕事に集中するが、梅山さんは首を伸ばして涼子に声をかける。

「こんにちは、涼子ちゃん」

「……いらっしゃいませ」


 富田さんは「もっと愛想良く答えてよー」と冗談っぽく注意したけれど、梅山さんはにこにこ笑って「大丈夫、大丈夫」と答えた。


「涼子ちゃん、今日は仕事、何時まで?」

「え?」

「このあと時間ないかな。昨日、スピカ劇場の倉森さんに電話したんだ。地主さんの娘さんのためなら、特別に映画を回してくれるって。どう?」


 富田さんは目を輝かし、涼子の腕をたたいた。

「いいじゃないの! それって貸し切りってこと?」

「そう。涼子ちゃんにぜひ観てほしい映画があってさ。相談したら、まだフィルムを返してないから見せられるって言ってくれたんだ」


 富田さんはにこにこしている。梅山さんもにこにこしている。

 涼子は気が進まなかった。そのいちばんの理由が、ひとつある。


「私……でも、映画って、観たことないんです」


 富田さんも梅山さんも、口をあんぐり開けてしまった。

「うそでしょ?」

「それほんとの話?」

「……はい」


 顔が真っ赤になるのが自分でわかった。


 人ごみが苦手だから、映画館には近よらなかった。テレビの光もなんとなく苦手で、外で星空をながめているほうがずっといい。それで涼子は、いつも学校の友達と話題があわなくて、気づけばいつもひとりぼっち。


「でもさ、貸し切りだから。それならいいでしょう?」

 人ごみが苦手だなんてひと言も言っていないのに、なぜか梅山さんという人は涼子を気遣うようにそう言った。


「大丈夫。おれと倉森さんしかいないから。あ、あと早紀ちゃんも来るよ。本当は今日は休館日なんだってさ。仕事が終わったら、一緒に映画を観に行こうよ」


 涼子は迷った。断わるつもりだったけれど、富田さんの返事のほうがはやかった。

「いいわ、涼子ちゃん、今から行ってらっしゃいな。どうせやることなくてひまなんだし。楽しんでらっしゃい!」


 そう言われると、おどおどした涼子は断われない。結局「おれの車で行こう」と梅山さんに笑顔で押し切られ、フィアットを置いてジムニーに乗り込んだ。


「楽しみだね」


 助手席に乗った奥さんが、笑いもせずにふり返って涼子に言った。涼子はこくんとうなずきながら、笑顔に取り囲まれなくて良かったと思った。梅山さんはにこにこしすぎていて、人の苦手な自分にはちょっとばかり気が引ける。



 スピカ劇場の前で、男の人がタバコを吸いながら待っていた。駐車場に車を止めて、涼子はおどおどしながら梅山さんの奥さんのうしろを歩く。梅山さんがにこにこと男の人にあいさつをし、涼子を紹介する。


「こんにちは、はじめまして」

 言われて涼子は顔をあげた。その瞬間、ぽろりと男の口からタバコが落ちた。


「あれ、倉森さん、どうしたの」


 シンジは首をかしげて笑った。倉森と涼子は雷を受けたみたいに見つめあい、それからすぐに、ふたりそろって目をそらした。


「いや、失敬」

 倉森はタバコを拾い上げ、近くの灰皿にねじ込んだ。

「こっちへどうぞ、日達さん」

「あ、ありがとうございます」


 おどおどしながら涼子は倉森のあとに続く。


 どうしたんだろうね、とシンジは早紀ちゃんをふり返って首をかしげた。早紀ちゃんはめずらしくにやにや笑って、「さあてね」とイタズラっぽくウインクした。




 劇場はがらんどうだった。倉森は涼子をいちばんいい席に案内し、「では、かけてきます」とことわって映写室に引っ込んだ。梅山夫妻は後方の席で見守った。


 映画がはじまった。涼子はすぐに気づいた。公開されたとき、みんなこの映画の話をしていたではないか。ずっと観たいと思っていた。


 タイトルは『E.T.』。

 宇宙人をかくまって、友達になって、最後には宇宙へ還ってしまうのを見届ける。


 主人公のエリオットは涼子だった。ひとりぼっちで、やっとできたたった一人の友達は、人間じゃなかった。


 最後のシーンで涼子は気づく。お母さんや妹はにこにこ笑って宇宙船を見送るのに、エリオットだけはちがう。だって彼にはE.T.しかいなかった。永遠にお別れをしなければならないそのとき、エリオットはぼう然とするしかできなくて。


「涼子ちゃん? 大丈夫?」


 気がつくと、とっくに映画は終わって、劇場は明るくなっていた。心配する梅山夫妻と、もっと心配そうな倉森。


「ごめんなさい……私……」

 涼子はそれ以上なにも言えなかった。「帰ろっか」と早紀ちゃんが涼子の肩に手を置いた。

「私たち、ただあんたに映画を観てほしかっただけだから。さ、帰ろう」


 シンジが首をかしげて「そんなに泣くほど感動したんだね」と言った。早紀ちゃんはしらけた目で旦那を一瞥しただけだった。


 倉森はぎりぎりまで心配して見送ってくれた。「もしよかったら、また映画を観に来てください」と言われ、涼子は申し訳なさそうにうなずいた。


「誤解しないでくださいね。映画は、ほんとによかったんです」

 なぜか、この人にはおどおどせずに話せる、と涼子は思った。自分よりだいぶ年上だろうに、不思議と安心できる。


「もしよかったら……アイスを、食べに来てくださいね」

 倉森はうなずいた。梅山夫妻はにやにやして、じゃ、また、と倉森に手をふった。



 シンジはにこにこしながら思った。

 映画祭の準備は、着々と進んでいる。

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