第6話 接近するロマンスと帰ってきた嫁の姉

 アイス屋さんの前を何度も行ったり来たりをくり返しているのは、迷子になっているせいではない。


 倉森将司はまるやち湖のほとりの駐車場に車を停め、タバコを吸ってじりじりと時がすぎるのを待った。なにをしているんだ、行くんならさっさと行け、と自分を叱咤しつつも、やはりその場から一歩も動けない。


 倉森はミニキャブバンに寄りかかり、ため息をつく。


 機材がいくらでも積み込めるこの車には、これまでだれかを乗せたことはない。倉森はよく道を間違えるし、自分の運転に自信があるとも言えない。だから他人は乗せたくない。それなのに、今はある特定の人間を助手席に乗せたくて仕方なかった。


 倉森はぶるぶると首をふる。乗せたい、のではなく――それでは誘拐犯みたいではないか――となりにいて、話しかけてもらいたいのだ。あるいは話しかけたい。あるいはだまってそこにいてくれるだけでいい。できれば地図を見ていてもらいたい。その人がとなりにいれば、自分は道を迷わずにすむかもしれない。


 もう一度ぶるぶると首をふって、倉森はタバコをポイ捨てした。それから一瞬考えて、吸い殻を拾って車の灰皿につっこんだ。今度、ガソリンスタンドで車内清掃を頼もう。あまりやらないから相場は知らないが、いくらかかってもいい。


 深呼吸して覚悟を決め、車で一分のアイス屋さんまで走らせた。




 日達涼子はもくもくと仕事をし、時間になると富田さんにあいさつをしてエプロンを外した。気をつけて帰ってね、と言われて、ありがとうございますと小さく笑う。


 ちょうどそのとき、ドアベルが鳴って涼子はふり返る。倉森と目が合って、思わずエプロンをくしゃっと握りしめて赤らんだ。


「どうも……」

 真っ赤になった涼子に気づきもせず、富田さんはにこにこと接客する。

「いらっしゃいませ。カレーにしますか、アイスにしますか?」

「あ、じゃあ、ええと、アイスを」

「はいはい。今、五種類から選べます」


 倉森はカウンター前までやってきて、涼子に会釈してぎこちなく笑った。

「お仕事、おわりですか」

「……はい」

「もしよかったら、アイスを一緒に食べてくれませんか」

 涼子は真っ赤になってなにも言えなかった。富田さんが目をぱちくりして、にやにやしているのを見て見ぬふりですます。

「ええと、でも……」

「一人で食べるのも、なんだか味気ないので」

「……はい」


 倉森はなにがいいかなと選びはじめた。ここのラインナップは、なかなか面白いですね。やっぱりおすすめは、バニラかイチゴ?

「トウモロコシが、私のおすすめです」

 涼子が言うと、倉森はそれをふたつ買った。



 ふたりは車を置いて、少し散歩をすることにした。通り過ぎていく風が気持ちいい。今日も八ヶ岳は淡い色の青空をバックにくっきり見えている。ただし、ペンション村の周りには森が囲んでいるから、アイス屋さんからはよく見えないが。


「まるやち湖まで歩きますか」

 倉森が言うと、涼子は首をふった。

「見てもらいたいものが、あるんです」




 梅山シンジはなにもかもがうまくいくと信じていたので、まだ会場の使用許可が降りていないにもかかわらず、次の行動に出ていた。


「もしもし? 大工さんですか。ちょっと小屋を建ててもらいたいんです。それから映画のスクリーンを」

「はあ? 小屋だ?」

 電話をとった大工は不機嫌な声で返した。おっと。この人、ノーマルモードではなさそうだ。たぶん今だけ。


「映写小屋ですよ。あのね、野外映画祭をやるんです。最高でしょ?」

「いつごろからはじめりゃいいんだ? 秋からならなんとかなるが」

「いえいえ、だめです。夏までには完成してないと。ほかの季節じゃ、寒くて映画どころじゃないでしょ」


 大工はフンと鼻を鳴らした。

「ほかの大工に頼め。おれは今から、一軒家を建てるんでいそがしい。そのあとも施主が何人かひかえてる」

「わかりました。ほかの人って、だれかいい人います?」

「知らんよ、勝手に調べろ」


 シンジは肩をすくめて電話を切った。受話器を下ろした途端、折よく電話がかかってきたので、そのまま受話器をあげた。


「はい、もしもし。ペンション『ザクザク』です」

「チャオー、シンジ。早紀とよろしくやってる?」

 シンジはぱっと顔を明るくした。

「こんにちは、お義姉さん!」



 ちょうどそのとき、ペンション『ザクザク』の前を倉森と涼子がふたり並んで歩いていたのだが、シンジは電話に夢中で気がつかなかった。



「さっき日本に着いたとこよ。そっちに行こうと思ってるんだけど。泊めてくれない?」

「もちろん! ていうか、まさに来てほしかったんですよ、お義姉さん!」

「その、お義姉さんってのはよしてちょうだい」

 電話の向こうから、あきれたような声がする。

「あたしはあんたの姉じゃない。あたしのことは、リサって呼んで」




 涼子は倉森と一緒に土手をあがった。ふたりともアイスで片手がふさがっているので、お互いを助け合いながらなんとかのぼる。


「大変だな。本当にお客さんなんか入るだろうか」

「ごめんなさい。私、ちょっと近道したんです。向こうに行けば、もう少し歩きやすい道があったんですけど」


 真っ赤になりながら涼子が言った。倉森は頭をかいて、すみません、とはにかんだ。

「このあたりには詳しくないもんで」

「茅野の方ですよね?」

「いや、もともとは富士見の人間ですけど。すみません、となり町なのに、土地勘がなくて」

「いえ、なにもない村ですから。私は、生まれも育ちも原村だけど」

「雰囲気がちがいますよね。なんだかここらは、時間の流れがゆっくりしている」


 涼子は頬を染めてほほ笑んだ。

「空気も、きれいでしょう。標高が高いから、色の見え方とか、下とはちがって見えますよね」

「ええ、ほんとに。そうか、標高のせいなのかな」


 どこかで、きゅんと鹿の鳴き声がした。その声に、ふたりともびくついたりはしない。涼子はアイスの最後のひと欠けを口に含んで、紙をポケットにつっこんだ。

「こっちです」


 涼子は平坦な草原を歩いていき、やがてあの、野外映画の候補地を通り抜けた。その先は木々が深くなっていき、草原というよりも林や森に近くなっていく。右側には八ヶ岳がのぞめ、左側には自分がやって来た町が見おろせる。その向こうには、山々が連なっている。


 倉森は『サウンド・オブ・ミュージック』の場面を思い起こしていた。主人公が子どもたちとドレミの歌を歌う、あの丘の場面だ。


 映画にとって、美しい風景はそれだけでいいシーンになり得る。この大自然の中で映画を観るだけで、映画の印象がだいぶ変わるはずだ。そう思ったからこそ、倉森はシンジの提案に乗り、野外映画祭に協力する気になったのだ。


 だが今、ここにこうしていることは、映画祭とはなんの関係もない、と倉森は自覚していた。この人と会っているのは、映画のためなんかじゃない。


 どこかから犬の鳴き声が聞こえた気がした。涼子はぴたりと立ち止まり、不安げに倉森を見上げた。

「いまからなにを見ても……驚いたり、人にしゃべったりしないって、約束してくれませんか」


 倉森はどきどきした。こんなにかわいらしい人とふたりきりで、だれもいない森の中に立っている。親御さんに顔向けできないような事態だ、と突然申し訳なくなってきた。それくらい、意識してしまっていた。


「ええと。ぼくは、秘密は守れるほうです」

「本当に?」

「中学のころ、天狗に会ったんですよ。もう少しで、自分も天狗になれそうだったんだけど」


 涼子はきょとんとして倉森を見上げた。倉森はどぎまぎしすぎて、思ってもいなかったことまで口走っていた。


「それを、これまでだれにも言わなかった。一度もです。だから、秘密は守れます」

「……でも、今、私に言っちゃったじゃないですか」

「そうですね」


 つばを飲み、倉森はなんとか笑顔を作った。

「だけどあなただって、ぼくに秘密を打ち明けようとしてくれているんでしょう?」


 涼子はじっと倉森を見つめた。黒目がちの、小動物のような顔。色白で、触れたら折れてしまいそうだ。はかなくて、臆病で、だけどきっと、芯は強い。白樺みたいな人だ、と倉森は思った。


 涼子はぎこちなく笑った。倉森も笑った。そして近くで、犬の鳴き声がした。いや、犬ではない。倉森は目をあげ、もう少しで腰を抜かしそうになった。


 シマウマが犬のようにワンワン鳴くことは、あまり知られていない。




 シンジは買い物から帰ってきた早紀ちゃんに、リサから電話があったことを伝えた。元気そうだったよ。空港からかけてきたんだけど、直接こっちに来るって。


「は? なんで」

「さあ。はやく早紀ちゃんに会いたいんじゃない? 仲のいい姉妹だよね」


 リサは早紀の三つ離れた姉である。シンジを気に入って、この村でペンションを経営する若者を募っていると知らせてきたのもリサだ。


 妹をいつも心配しているが、自分は国を飛び出してあちこち移動しているので、こちらからは電話をかけることさえできない。向こうから電話をしてくるのも、半年に一度か二度、あればいいほう。日本に帰ってくるのは実に四年ぶり。


「だって、空港からだったらまずは実家に帰ればいいでしょ。なんでわざわざ、私たちの家に?」

「きっと早紀ちゃんにはやく会いたくて仕方ないんだよ」

 シンジはにこにこして言った。本当に、仲がよくって最高だよね。


 早紀ちゃんはため息をつく。夫も姉も、他人の言うことなんて聞きやしない。だからこのふたりは気が合うのだろう。自分のことしか考えない子どもは、子ども同士で遊ぶのがいちばん気楽そうだもの。


 いつもは大きな子どものめんどうをひとり分みていればよかったけれど、姉が来るならそれがふたり分になる。


「で、何時に着くって?」

「今夜には。なんか、向こうで買ったバイクごと入国したらしいよ。楽しみだね」

「それってどういう状況なの」

「とにかく迎えはいらないって言ってたよ」


 早紀ちゃんはまたもため息をつく。今のうちにもう一度スーパーまで行って、バナナを買い占めにいくとしよう。姉が滞在するということは、房で買っても足りなさそうだ。




 倉森は人生において、女性にアタックしたことがまるでなかった。


 反抗的な少年時代から今にいたるまで、恋愛至上主義と言わんばかりの「で、女はいるのか」という質問に、はらわたが煮えくり返るほどむかついていたし、その質問が一生かけて(結婚するまで)つきまとうのにも辟易していた。


 自分に女がいたかいないか、なにをどこまで経験したかしないか。それをどうして他人に申し開きをせねばならんのだ、そしてそれを報告することが、なぜ生きている者の義務かのように、ごく当たり前に求められるのか。


 わけがわからないしわかりたくもなかった。

 どうせろくな理由ではない。


 倉森は人生で一度さえ、女性に興味を持ったことがなかった。かといって男に興味があるというわけでもなく、ただただ恋愛感情にうとかったのだ。


 しかし世間一般的には、そんな人間は人として認められない。四十年もたてば世の中には「アセクシャル」だの「ノンセクシャル」だのといった「恋愛感情や性的欲求を持たないセクシャリティ」というマイノリティ用語も流布されるようにはなるのだが、まだまだ広く知られているとは言いがたい。


 そういうわけで倉森は「女に臆病な男」というわかりやすくも正しいとは言い切れないレッテルを貼られ、三十間近まで生きてきてしまったわけだが、セクシャリティというものは流動的だと言われている。


 つまり、生きているうちに変わるのだ。恋愛感情を抱いたことがなかったのに、なにかのきっかけで、急にだれかに恋をする。人間とは、なにかひとつに決められた存在ではなく、日々変化していくものらしい。


 それで倉森将司は、人生ではじめて、一人の女性に恋をした。



 見た瞬間、出会った瞬間、経験したことのないような電流が身体中をかけめぐった。古くさい表現であることはわかっている。ともかく倉森は雷に打たれたのだ。映画の登場人物たちのように、恋をしたのである。


 恋をすれば、もう少しどぎまぎして、ポカばかり引き起こし、見るも無惨な恥さらしになるであろうという、ネガティブな予想はあまり当たらなかった。とにもかくにも、相手は同じ人間だ、と自分に言い聞かせ、アイスをおごり、散歩をし、秘密の共有という、かなり親密な関係さえ築くことに成功した。


 しかし、相手の秘密が、まさか自分の少年期の秘密と張りあうほどのとんでもなさだとは思いもしなかった。


 倉森はシマウマをぼう然と見つめながら、そう思った。




「シマちゃんです」

 涼子はおずおずと言った。ああ、そうですか、と倉森は答える。


 そうだ、シマウマだもの。なんて覚えやすいネーミングなんだろう。さすが自分の愛した人だ。


 シマウマは白樺の木々にまぎれるようにして、黙々と草を食んでいた。ときどき顔をあげ、犬のように吠えたかと思うと、涼子のとなりに立つ倉森を警戒するようににらみつける。


 いや、にらんでいるのかはわからない。動物の表情など、倉森にはわかりっこない。天狗ならばわかったかもしれないが、倉森はなりそこないだ。


「あの……びっくりしましたか?」

「ええ。いえ。うん、だいぶ」

「でも、思ったより大きくはないでしょう。ほら、サラブレッドより少し小さいくらいですから。これがゾウとかだったら、もっとたいへんだったと思います。エサ代とか、すごそうだし」


 この子はいったいなにを言っているのだろう。ゾウよりはましだ、それはたしかに。だが、今目の前にいるのはシマウマだ。犬でも猫でも牛でも豚でもヤギでもなく。それだったら農業大学校に引き取ってもらえばすむ話だ。


 だが、これはほかでもない、シマウマだろう?



「ええと……どうして、ここにシマウマが」

「迷子になっていたのを引き取ったんです。ひとりぼっちで、さみしそうで。なんだか……私みたいだったから」


 倉森はどうしようかと考えあぐねた。正式な持ち主はサーカスか動物園か。警察に届けたら、愛する人は窃盗の罪に問われてしまうのか?


「いつから、ここで飼っているんです?」

「三年くらいになります。冬は、使っていないビニールハウスにこっそり移すんです。おじいちゃんの軽トラを借りて」


 三年。よくもまあ見つからずに隠し通せたものだ。そしてそれほど時間が経っているのならば、正式な持ち主はおそらくシマウマの死を確信しているに違いない。ということは、このままだまっていても問題はなさそうだ。


「だけど……お父さんが、最近この土地を売るって言っていて。公園になるらしいんです。ペンションに来た観光客とかが、遊びに来れるようにって。ほら、このへんって星がきれいでしょう。プラネタリウムとか、作るらしくて」


 涼子は目に涙をいっぱいためてシマウマを見つめた。なでたりはしないが、けっこう近くまで寄って、首をかしげて見つめている。シマウマも頭をもたげ、しっぽをぶんぶんふって涼子を見つめている。


「この子、白樺の森が似合うんです。ここなら草もいっぱい生えてるし。でも、いつかは……だれかに、見つかってしまうかも」


 そうしたら、動物園に連れて行かれてしまうだろう、と倉森も思った。これほどシマウマを愛しているのに、離ればなれにされてしまうのだ。はじめて人を愛しはじめた倉森には、そのつらさが身を引き裂くようにリアルに感じとれた。



「涼子さん」

 倉森が呼びかけると、涼子は顔をあげた。はじめて想い人の名前を口にした倉森は、顔が熱くてしかたなかった。


「その……どうすればいいのか、ぼくにもまるでわからないけれど。一緒に、考えさせてください。一緒に考えてほしいから、ぼくに打ち明けてくれたんですよね?」


 涼子は真っ赤になった。そうか、と呟いて、顔に手を当てる。

「そう……ですね。私、倉森さんに助けてほしかったんだ……」


 倉森は身体中が熱くてしかたなかった。なんとか落ち着きを取り戻し、笑顔をこねくりだす。自分は、この子のためにできることをなんでもしなくては。そうせずにはいられない。これが恋か。


「一緒になんとかしましょう。きっとなにか手はあります。だから、心配しないで」

 涼子は倉森を見つめ、それからにっこりと笑いかけた。


 倉森は帰りに三度、事故を起こしかけた。

 それくらい、意識してしまっていた。




 その日の深夜近く、ペンション『ザクザク』の前に、ご近所中に響くような爆音とびかびか光るライトをきらめかせて、一台のバイクが停まった。黒のレザージャケットとハイヒールブーツの女がサイドカーに乗せた鹿を抱え上げ、バイクから降りる。


 ベッドから飛び起きたシンジと早紀ちゃんは、玄関に出てライトの光に目を細めた。鹿を背負った女が、ピアスだらけの顔をほころばせてにかっと笑う。


「たっだいまー!」


 シンジはにこにこ笑った。

 早紀ちゃんはあきれつつも、ちょっと笑った。


 地上最強の女が、帰ってきた。

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