第9話 ポジティブな男とはあきらめのよい男

 森の中で映画を観る。


 それがどんなものなのか、体験していない人に説明するのは難しい。


 家族や恋人や仲間同士で身を寄せあい、水筒のお茶を飲み交わし、サンドイッチやおにぎりをほおばりながら、映画を観る。


 標高1300メートルの木立の中だ。夏といえど、夜は寒い。レザーシートだけではおしりが寒くなるから、見に来る人たちはたいてい、座布団やクッションや毛布を車のトランクにつめてくる。


 子どもたちがわあわあいいながら両手いっぱいに布団を運び、靴を脱いで石段に寄りかかり、芝生の上に足を伸ばして毛布にくるまる。


 ときどき半そで半ズボンの都会のお客さんがいると、とても目立つ。子どもたちは笑う。あんな格好で、寒すぎるでしょ! そう言う彼らはきっちりジャンパーを着込んでいる。映画が終わるころには、半そで半ズボンのお客さんは寒さでがたがた震えている。



 最初は五十人で始まった映画祭は、少しずつ口コミが広まり、足を運ぶ人々もそれだけ多くなった。


 夏が終わると、倉森は一抹のさみしさを覚えた。はじまる前は、二十日間も夜遅くまで映写をやらねばならないのかとげんなりしていたのに、終わってみるとあんがいあっという間だ。


「お疲れ様でしたー!」

 その夜、シンジと早紀ちゃんはペンションから缶ビールを段ボールで持ってきた。六缶入りのケースが六つ。吐くまで飲むつもりか、と倉森は眉をひそめた。


 お客さんがぱらぱらと帰っていき、映写小屋の前で明かりをともしながら酒盛りをした。早紀ちゃんが電気の下で札束をかぞえ、シンジと倉森は盛大に乾杯し、涼子はここにいていいのかしらというふうにおどおどしている。


 そこへ「よお、間に合ったか」と言いながら哲文があらわれ、涼子はぱっと立ち上がって駆け寄った。


「シマちゃんは、シマちゃんは元気にしていますか?」

「おお、毎日草食ってるぞ。おれより大食漢だな」

「こんばんは、哲文さん。ビール、ありますよ」


 シンジがにこにこしながらビールを突き出すと、哲文は光のはやさでそれを受け取った。早紀ちゃんが「オッケー、合ってる」と言ってお金をレジにしまい込む。


「ではあらためまして、映画祭の成功を祝して!」

「かんぱーい」


 シンジは人生で最高の気分だった。お金ができたからはじめた企画だったけれど、ペンション村のご近所さんだけでなく、観光のお客さんも来てくれたし、うわさを聞いた村の外からの人もちらほら見かけた。


 映画を野外で見るのがこんなに楽しいなんて、実際にやってみなければわからなかった。もちろん、やってみたくて仕方ないから、やったのだけれど。


「そういえば、今朝お姉ちゃんから電話があったの」

 シンジのとなりに座りながら早紀ちゃんがビールを開けた。


 シンジの向かい側で、哲文が涼子と楽しげにシマウマ話で盛り上がっている。それをにらみつけながら、倉森がだまって酒をあおっている。その三角関係を見てにたつきつつ、早紀ちゃんはシンジを見た。


「空港からかけてたよ。今度はソビエトに行くんだってさ」

「え、ほんと? あの国って日本人も入国できるんだ?」

「さあ、知らない。でもお姉ちゃんなら入国するでしょ」

「あはは、たしかに」


 シンジは早紀ちゃんの空いた手を取って握りしめた。早紀ちゃんは倉森らに見られていないか、とっさに視線を走らせたが、シンジはまったく気に留めていない。大好きな人と好きなタイミングで手をつなぐのは、至極ノーマルな行動だと信じている。


「早紀ちゃん、ありがとうね」

「あんたががんばったんでしょ」


「ううん、そうじゃなくて。いつもありがとう。今日があったのは、早紀ちゃんのおかげ。本当にありがとう」


 早紀ちゃんは赤くなった。おそらくビールのせいではなく。

「あのさ……あんたって、いつもいつも……」

「え?」


 早紀ちゃんはほかの三人がシマウマ話で盛り上がっているのを確認して、小さなくぐもった声で言った。

「あんたって、だれでも好きになれるでしょ」


 シンジは目をぱちくりした。それ、昔も言われたような。

「うん、そうかもしれない」

 早紀ちゃんは笑った。あきれたみたいに。


「若いころは、そんなこと言われたら『最低』って思ったかもね。でも、今はすごくうれしい」

「なんで?」

 早紀ちゃんは肩をすくめてビールをあおった。


「だって、普通は『愛想がいい子』が好きとか『料理が出来る子』が好きって言うじゃない。でも、あんたは人を条件付けしたりしない。選択肢を狭めてから決めるんじゃなくて、目に入る人間全員の中から、私を選んでくれたってことでしょ」


 ぐびぐび飲んで、はあっとため息をつき、シンジを見ておでこをつついた。

「最高に、光栄です」


 シンジはにこっと笑った。なんだかめちゃくちゃうれしい。

「おれ、早紀ちゃんのこと大好きだよ」

 早紀ちゃんは笑った。

「うん。わかってる」



「これでもう本当に、終わりなんですね」

 涼子が言ったひと言が、突然空気を切りさいた。


 シンジは倉森と顔を見あわせた。スクリーンを見おろして、ああ、とつぶやく。

「本当に、最高だったね」


 倉森はシンジに手を差し出した。シンジは目をぱちくりさせ、それからビールを足元に置いて、倉森の手を取った。ふたりはお互いに握手した。


「ありがとう」

「うん、こっちこそ」


 そうして、その夏は終わった。

 映画祭も終わった。




 そのはずだった。




「おっはよー。いやー、スターダストシアター、最高だったね!」

「うちのお客さんも感動しちゃってさー、来年もぜひ来ますって」

「あ、来年の映画のリクエストは受け付けてるの?」

「ばか、新しい映画はこれから出るんでしょー。ごめんね梅山さん、リクエストは来年の五月か六月に言えばいいよね?」


 ペンション村の人々は、当然のように来年もまたやるものだと思っていた。シンジと早紀ちゃんは顔を見あわせ、笑った。


「じゃ、やるかあ!」

「そうだね」


 とすると、もちろん倉森にもお伺いをたてねばなるまい。映写がいないと映画は観れない。しかしシンジはその点については心配していなかった。涼子の働くアイス屋さんに倉森が来たときに、話をすればいい。いやだとは言わないさ。


 倉森が最高にいい人だと、シンジはちゃんと知っているのだから。




 毎年夏が来ると、原村の人だけでなく、富士見や茅野からも人が集まるようになった。森の中で観ていると、映画は特別な意味を持つ。エンドロールが終わって真っ暗闇が広がる一瞬で、また別の光景が頭上に広がるのだ。


 満点の、星空が。


 梅山シンジと倉森将司は、毎年のように野外映画を企画した。シンジは楽しくて仕方なかったし、倉森は毎年だんだん増えていくお客の数に手応えを感じていた。


 軍資金はなくなってしまったけれど、お金には不思議と困らなかった。なんとスポンサーがついたのだ。わりと大きな企業の。


「チケットに番号をかいて、映画が終わったらくじ引きで景品を出そうよ!」


 シンジがにこにこしながら提案すると、倉森は肩をすくめた。

「好きにしろよ」


 くじ引きの確率はとにかく高かった。毎回二人か三人、あたりが出た。ペンションのご近所さんたちはあたりが出ると「ひゃっほう」と喜び、子どもはコーヒーメーカーやビールサーバーが当たっても、とりあえずうれしそうにその場で飛び跳ねた。




 ときは流れ、歴史は作られていく。


 映写室で作業をする倉森の左手には、いつからか指輪がひっそりとはめられていたし、映画祭の受付でチケットを売る早紀ちゃんのかたわらには、子どもがふたり増え、ちょこまかと走り回っていた。


 たんなる草っ原だった場所は、たんなる公園になり、そのうちに自然文化園と名前を変えた。それでも映画祭は夏のあいだ毎日やった。


 毎日と言っても、まん中の二日間だけは休業した。この星空のきれいな村に、全国から望遠鏡をかついだ星マニアがやって来て、ひたすら星を観測する「星まつり」があったからだ。それ以外は、たとえ雨が降っても映画をかけた。



 どこかの国では冷戦を象徴する壁がノミとハンマーでうち壊され、おそろしいテロリズムによる地下鉄事件では人々が胸を痛め、平成の大合併では若い村人たちによる反対運動がまさって合併を免れた。


 それでも毎年、スターダストシアターが原村の、夏の風物詩だった。




 まだ映画祭をやるまえのこと、シンジは倉森に言った。

「ここなら、千人だってゆったり座れる」

 倉森は思った。千人? いったいどんな映画だよ。


 お答えしよう。『タイタニック』である。



 その夜、ペンション村はどの路地までも見落とさぬとばかりに車の大渋滞となり、ひしめく人々で会場はいっぱいになった。フィルムを交換するインターバルのあいだ、子どもたちはこらえきれずに木立で用を足した。トイレも大混雑していたからだ。


 シンジはにこにこしながら、スクリーンぎりぎりに寝っ転がってまで豪華客船に見入る人々を傍からながめた。とても入って行けないほどのすし詰め状態。仕方がないので木々のあいだからちらちら観ていた。



 木の葉のあいだから観る映画は格別だ。『ジュラシックパーク』、『ジュマンジ』、『オペラ座の怪人』、『少林サッカー』。


 笑い声と驚きの声が、室内の映画館よりも人の口から漏れやすい。自宅で友達と映画を観るように、ちょっとくらいしゃべっても迷惑にならないから、気楽なのかもしれない。シンジはそんな空気が好きだった。とてもノーマルな光景に思えた。




 けれど、どんな物語にも終わりは近づく。


 タイタニックが海に沈んでいったように。王蟲が森に帰ったように。



 映画のフィルムは年々高くなっていった。シネコンが増え、あちこちで映画祭自体が増えたためだ。ドライフラワーを作る人が多い、乾いた原村には、毎年のように雨が降りはじめた。DVDが台頭し、景気の落ち込みが長引いて、ペンション自体にお客があんまり来なくなった。ついでとばかりにスポンサーも手を引いた。



 倉森はため息をつき、シンジに言った。


 これ以上続けていたら赤字になる。おたがいもう若くはないんだし、そろそろお開きにしよう。おまえが前向きな男だってのはわかっているが、ここは前向きにあきらめてくれないか。


 最初の映画祭から二十二年が経っていた。いろいろなことが起きたし、状況はその都度変化した。それでも、シンジはシンジのままだったし、倉森は倉森のままだった。


 それでもそのとき、シンジはちょっとだけため息をついて、困ったように笑った。


「本当はさ、倉森さん。おれ、車を売って、その金で映画祭を続けようかなって、ちょっと思ったんだよね」

 倉森は首をふった。


「やめろ。仕事は、慈善事業にしたら続かない」

「うん、そうだね。早紀ちゃんを困らせちゃうし、それはやめとくよ」

 シンジはため息をつき、にこっと笑った。


「映画祭は不滅だよ」


「シンジ……」

「だから、おれたちはもう、いいかもね」


 シンジはにこにこしていた。恐れることはなにもない。いつだって、シンジは人間を信用し、信頼していたのだから。


「倉森さん、長いあいだありがとう。本当に、最高だったよ!」







 もちろん、ここでこの物語を終えることは簡単だ。これが映画であったなら、ひとつの区切りとして、歴史の幕として、ひいてしまったほうがきれいにまとまることだろう。


 しかしここで終わるのならば、そもそも語りはじめた意味がない。「いい話」にはなりようもない。なぜならこの出来事の直後、働くことを至高とするひとりの女が、大いなる不満を持って立ち上がるからだ。


 その話を、もう少しだけ続けよう。

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