第10話 月下の告白

 背の低い石柱や石板の群れが月明かりを浴びてひっそりと佇む。木製の柵で囲まれたその向こうにあるのは、アルテネでは砦や城でしか見られないような総石造りの建物だ。

 あれは生と死を司る神エネトクルスを祭る神殿。そして立ち並ぶ石柱や石板は人々の生きた証を刻む墓標。

 アルテネ王国の戦士シルグは、ルブルーダの町郊外の墓地にいた。

 

  腰には愛用の剣を差しているものの、服装はサングリクス兵が身につける濃緑の軍服で、頭の上半分には白い包帯を巻きつけている。先日ルブルーダに潜入したときと同じ格好だ。

 

 シルグは目の周りの包帯の位置を直しつつ、周囲の気配に意識を凝らした。

 墓地の隣りに広がる林がそよ風にざわめき、虫の音がどこからともなく聞こえる。

 時刻はすでに十五ルム(午後十時半頃)を回っており、じきに日付が変わる頃合いだ。

 神殿には明かりは灯っておらず人気もない。一見するとそれは夜だから静寂に包まれているように思えるが、実はそうではない。

 アルテネ王国やサングリクス王国などがある大陸西部は、おおむね同じ神を信仰しているが、それは国家間をまたぐ普遍的な宗教ではなく、数多の神々をそれぞれの国家が独自に祭る形態となっている。つまり神殿はそれぞれの国家に属する公的機関であり、そこで働く神官はいわば役人。敵国に侵攻された場合、宗教者だからといって見逃されることはない。

 あのエネトクルス神殿の神官たちも、ルブルーダの町が占領された際に逃げ出したか、サングリクス兵に身柄を拘束されるか、もしくは殺害されるか、いずれかの運命を辿っているはずだった。

 そして辛苦を味わわされているのは彼らだけではなく、ルブルーダの住人たちも同様だ。

 そのような状況にあって、シルグが敵地と化した墓地にいるのは〝凍嵐の死神〟ヴァルフェルーラ・カルミナが来るのを待っているためだ。

 エクオルスの許可を得てルブルーダの町にやって来たシルグは、カルミナが滞在しているという宿に向かい、手紙を届けていた。そこには昨晩シルグが名乗ったシンセルビス・ブルーネムという偽名と、このエネトクルス神殿の墓地で待つという旨が記してある。

 ブルーネムという名のサングリクス兵が行方不明になっていることを、カルミナは確実に突き止めているはず。それを踏まえて、シルグは敢えてブルーネムと名乗り、宿の警備兵に手紙を渡していた。ゆえに手紙が彼女の手に渡っていれば、そして危機管理能力があればここに誰が来るのかを確認するはずだった。

 

 ちなみにシルグがカルミナの滞在先を知っていたのは、昨晩助けた少女フィルメリアに聞いたからだ。

 彼女は、白金の長髪と青い瞳、そして人間離れした美貌の女がルブルーダ中心街の宿に入るのを見たと言っていた。フィルメリアはカルミナの名を知らなかったが、容貌からしてカルミナに間違いないと判断したシルグは、それを手掛かりに宿を突き止めたのだ。

 

 残る問題はカルミナ本人がやって来るかという点だ。

 正体を偽っている人間からの呼び出しに本人が応じる可能性は限りなく低い。しかしシルグは何としてでもカルミナに会わなければならない。

 サングリクス軍を撤退させるようカルミナを説得し、戦争を終わらせるために。

 そして自分の思いを告げるために。

 シルグは小さく息を吐いた。

 相手の警戒心を弱める意味を込めて、どこからでも見える場所に立っているため、遠距離から真韻術マーレクスで攻撃されたり、射筒ゲルファレットで狙撃される危険が高い。何もできずに殺されるといった無様で最悪の結末だけは回避すべく、シルグは全神経を張り詰めさせてひたすら待った。

 

 ふと背後で空気が揺れるのを感じた。

 素早く振り向く。その瞬間、シルグは息を呑んだ。

 十ティトラ(約十八メートル)ほど先に人影がいた。

 風にそよぐ白金の長髪が月光を浴びてきらきらと輝き、二つの瞳からは夜闇の中にあってもまるで存在感を減じない淡い青光が放たれている。

 その身に纏っているのは、まるで飾り気のない紺の軍服。しかし月を天に戴くその姿は、まるで現世に降臨した女神のように幻想的で現実感に乏しかった。

 シルグの脳裏に焼き付いたままの美しさを誇るその人物の名はヴァルフェルーラ・カルミナ。〝凍嵐の死神〟の異名を持つサングリクスの英雄であり、シルグが待ち望んでいた女だった。

 

「お前は何者だ」


 五ティトラ(約九メートル)ほど先で立ち止まったカルミナが単刀直入に切り出した。

 強い警戒のこもったその一言でシルグは我に返った。今の一瞬、カルミナの容貌に目も心も奪われてしまっていた。攻撃を仕掛けられていたら、為すすべなく倒されていたに違いなかった。


「お前がシンセルビス・ブルーネムではないというのはもうわかっている。お前は何者で、何のために私をここに呼び出した。まさか剣術の講釈をするためではあるまい」


 刃のように鋭い視線がシルグを射抜く。

 予想通り、カルミナはシルグが偽名を名乗ったことを調査していた。

 シルグは心中の動揺を悟られないように細く長く息を吐いた。ゆっくりと両手を持ち上げ、側頭部にある包帯の結び目に手をかける。

 

「元からそれを伝えるためにここに来た。いまこれを取る」

「貴様は……〝剣の悪魔〟!」


 シルグの顔の上半分を覆っていた包帯が外れた瞬間、カルミナが声を上げた。それと同時にすらりと引き締まった体から青い真気が溢れだし、左腕にまとわりつく。

 

「待ってくれ! 俺は戦いに来たわけじゃない、話に来たんだ!」


 シルグは両手を向けて、害意がないことを示した。

 カルミナの動きがぴたりと止まる。戦闘態勢に移行したことで輝きを増した青い瞳がシルグを睨み付ける。

 彼女はまるで剣を抜こうとでもしているかのように、青い真気を纏う左手首を右手でつかんでいた。

 真韻術マーレクスを用いる際には、真韻マーレを唱えると同時に、その源となる真気ルフの分量を適切に調節するという手順がある。

 多くの真韻術使いは自分の体内から真気を取り出す際に調整を済ませるが、カルミナのように膨大な真気を持つ者は、前もって体外に真気を取り出しておき、真韻術を使う際に適宜それを取り分けるという手法を用いることが多い。そうすることで真気を呼び出す真韻を省けるためだ。

 彼女の左腕に纏わりついた青い真気は事前に取り出した真気であり、左手首をつかんでいるのは、使用する真気を取り分けるための予備動作。つまりいつでも攻撃に移れる体勢にあるということだ。

 

「……話とは何だ」


 カルミナは一拍置いた後、押し殺した声で促した。研ぎ澄まされた刃の如き眼光はシルグから片時も離れない。

 シルグは両手をゆっくりと下ろして、一度大きく息を吸った。そして用意していた言葉を告げる。


「俺たちは明日、サングリクス軍への反攻作戦を行う。それまでにあなたの影響力を駆使して、サングリクス兵を退かせてくれ」


 予想だにしていなかったのか、カルミナの青い目が僅かに開かれた。

 

「全面的に撤退というのは難しいだろう。でも兵を動かすことはできるはずだ。だから今夜のうちに戦線を下げて欲しい。そうすれば俺のほうで上に掛け合って、反撃を遅らせる。そしてその間にアルテネ領から出て行ってくれ」

 

 カルミナが不審そうに目を細める。露出が減ったからか、瞳の青い輝きが一層強まったように見えた。

 

「……貴様は、我らが獲得したものを全て放棄して去れと、そう言っているのか?」

「そうだ」

「そんな話が聞き入れられると本気で思っているのか? 戦況を有利に運んでいるのは我々だ。退く理由などどこにもない」

「サングリクス王国としては確かにないんだろう。それは俺にもわかる。でもあなた個人には退く理由があるはずだ。戦いを続ければ、昨日俺が助けた娘のような子供がさらに増える。あなたはそんなことを望んでいない。違うか?」

 

 カルミナの表情が微かに強張った。

 シルグが言及しているのは、昨晩ルブルーダで起きた出来事だ。そこでシルグはフィルメリアという名の少女を助け、カルミナは彼女に自宅に送ろうと声をかけた。しかしフィルメリアはそれを無言のままに強く拒絶したのだ。

 そのとき零したカルミナの言葉に込められた葛藤を、シルグは確かに感じ取っていた。

 いまのカルミナの変化は、自分の抱いた印象が間違っていないと確信できる変化だった。

 これならいける。

 シルグはこの機を逃すまいと、さらに言葉を継いだ。


「それに、あなたはサングリクス軍が退く理由はないと言ったが、それもある。まず一つは、あなたの同胞が五体満足のまま帰国できるということ。反撃が始まれば当然俺も参加する。そうすればどうなるか、俺の異名を知っているあなたならわかるはずだ。そしてもう一つは、あなた自身も無事に家族のもとに戻れるということだ」

「貴様に殺されたくなければ逃げろということか。私はそんな腰抜けではない……!」

「違う! あなたを害するのは俺じゃなくて、昨日の黒ずくめの男だ」


 端正な顔立ちを怒りに染めるカルミナに、シルグはすぐさま反論した。

 

「あれは明らかにあなたを狙ったものだった。あなたが戦場に出れば、混乱に乗じて再び仕掛けてくるかもしれない。そうなれば今度は助からないかもしれない。だから退けと言っているんだ……!」


 シルグは必死に訴えかけた。

 カルミナの顔から怒気が薄れ、代わりに優雅な弧を描く柳眉がしかめられる。


「……貴様、何が目的だ。貴様にとって私が死んだほうが都合がいいはずだ」

「俺の目的は、戦争を終わらせることだ。サングリクスの英雄であるあなたが戦死したとすれば、終戦は近づくかもしれない。でも逆効果になる恐れもある。そんな博打紛いのことをするなら、穏便に退いてもらったほうがいいに決まってる。それに……それとは別の大きな理由もある」


 シルグはひとつ唾を飲み込み、大きく息を吸い込んだ。カルミナの青い瞳を見つめながら、意を決して口を開く。

 

「俺は……あなたに惚れてしまったんだ」

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