第4話 独断潜入

 アルテネ王国の戦士シルグは夜闇に紛れながら、木造家屋の建ち並ぶ狭い路地に身を潜めていた。

 ここはアルテネ王国南部に位置するアンテット州の中でも、南の国境に最も近い町ルブルーダ。国境から州都タメスへ北進する街道と、西のアウブルム鉱山へと向かう街道とが交わる場所にあり、古くから流通の中継点として栄えている人口一万人ほどの町だ。

 しかしそれだけの住人がいるはずなのに、戦士として鍛えたシルグの鋭敏な感覚は、人の気配を一つも捉えていなかった。家の中にいようとも、武術の心得のない素人であれば容易く存在を察知できるが、それがない。代わりにシルグの五感を刺激するのは、夜の町を覆う張り詰めた空気だ。

 その原因は数日前に起きた、隣国サングリクスによるアルテネ領への侵攻にあった。

 国境沿いの砦に詰めていたアルテネの常駐軍を敗走させた彼らは、最も近いルブルーダの町を占領し、アルテネ侵攻の拠点としているのだ。

 町に人気がないのは、サングリクス侵攻の知らせを受けて多くの住民が逃げ出したことと、不幸にも取り残された住民が、サングリクス兵に見つからないようにじっと息を潜めているからだろう。そしてその中には、兵士たちの手にかかり物言わぬ躯にされた者もいるはずだった。

 ここに来るまでの間に目にした、無残に焼け落ちた家屋や生々しい血痕の数々が、その推測が限りなく事実に近いとシルグに告げる。

 一体どれほどの兵士や住民が犠牲になったのか、それを思うと辛い。

 一刻も早くサングリクス軍を叩き出し、元の平和な町に戻さなければならない。シルグはそのためにアルテネ北部の国境から、およそ二百七十ミルト(五百キロメートル弱)の距離を一日とかけずに駆けつけてきたのだ。

 

「……何をやってるんだ、俺は」

 

 周囲を警戒しながら暗い声で呟く。心を埋め尽くすのは激しい後ろめたさ。

 シルグはエクオルス率いる直轄領警備軍第三戦士団の中において、独立小隊隊長という責任ある役職に就いている。当然ながら上官であるエクオルスの命令に従わなければならない立場だが、ルブルーダに行けとの命令は受けていない。つまりは独断でルブルーダに来ているのだ。

 それも惨禍に見舞われた住民を助けるためであれば、多少なりとも情状酌量の余地もあるだろう。しかしシルグは極めて個人的な目的のためにここにいた。

 その目的とは、アルテネ王国にとって最大の脅威であり、アルテネ兵が怨嗟を向ける相手。そしてルブルーダの住人も強く恨んでいるであろうサングリクスの英雄〝凍嵐の死神〟をもう一度目にするため。

 

 シルグは今日の夕刻前〝凍嵐の死神〟と交戦し、女神と見紛うような彼女の素顔に目を奪われた。中でも一際異彩を放っていた青く光る双眸は一瞬で心を捉え、激しい動揺と混乱の渦の中にシルグを叩き落としたのだ。

 明日になれば落ち着くだろうとの期待を込めて寝床に就くも、閉じた瞼の裏に浮かぶのは、彼女の青い瞳や風になびく白金の髪ばかりで、とても眠るどころの話ではなかった。

 このような状態では、これからの戦いで思わぬ後れを取りかねない。

 だからシルグは決意した。

 本当に〝凍嵐の死神〟に一目惚れしたのか確認しなければならないと。

 そのためにシルグはアルテネ軍の野営地を密かに抜け出し、サングリクスの占領下にあるルブルーダまでやって来たのだ。

 

 〝凍嵐の死神〟ヴァルフェルーラ・カルミナの正確な地位をシルグは知らない。ただ彼女がサングリクス王家フラクタシオンに縁のある家の出身であり、サングリクス軍内でも重要な人物だということは知っている。

 そこから推察するに、彼女はルブルーダの町周辺に張られていた無数の天幕ではなく、町の中のいずれかの建物で休息していると思われた。そしてその候補はすでに絞り込んである。

 ルブルーダは二つの街道が交わる中心地付近が最もにぎやかな場所であり、そこには州都から派遣された役人が詰める行政庁舎や、鉱山と州都とを行き来する運送業者などを相手にする宿場が軒を連ねている。サングリクス軍内でも地位の高い人物は、それらの建物を接収して利用している可能性が高かった。

 

 シルグは路地の陰から顔を出して人気がないのを確認すると、土が剥き出しの通りへと足を踏み出した。隅の方を南へ向かって早足で歩く。

 弱々しい月明かりに照らされるシルグの服装は、第三戦士団の黒の軍服ではなく緑の制服だ。アルテネの一般兵のものに比べて若干明るい色をしたこの服は、サングリクス軍の一般兵士が着用する軍服だ。また、頭には鼻から上の部分に包帯をぐるぐると巻きつけ、その上に軍帽をかぶっている。腰に差した剣も、シルグが愛用する片刃剣ではなく、サングリクス軍で採用されている両刃剣と、仮に見つかったときに同僚だと偽って言い逃れる準備は万全だ。


 シルグは目の周辺の包帯の位置を直しつつ歩調を速めた。

 行程は順調だった。目抜き通りに平行して走る通りを警備兵に見つかることなく進み、無事にルブルーダ中心地付近に差し掛かる。

 町の地図を思い浮かべながら、どこで曲がるべきか模索していたシルグはぴたりと足を止めた。右に目を向ける。そこは木造家屋の合間の路地で、月明かりも届かないその奥から物音が聞こえたような気がしたのだ。

 そしてそれは気のせいではなかった。くぐもった高い声と警戒を促すような野太い声が漏れ聞こえる。


 シルグはすぐに事情を察した。女が男に襲われているのだと。

 体の内に怒りの炎が灯る。女はルブルーダの住民であり、男はサングリクス兵としか考えられなかった。

 敵地に潜入している状況で騒ぎを起こすわけにはいかないが、見過すなどという選択肢はもとより存在しない。

 シルグは足音を忍ばせつつ、大股で路地に踏み入った。暗がりの中、四つん這いになって荒い息をつく男の下に小柄な人影があり、激しく手足を振り乱していた。

 シルグは男の首を右手で鷲づかみにすると、そのまま腕一本で持ち上げて隣家の壁に投げつけた。

 

「ぐえ……!」


 不細工な呻き声を上げて、地面に崩れ落ちる。

 男がどいたそこには、まだ子供にしか見えない黒髪の少女がいた。

 さっと視線を走らせる。着衣の乱れは軽微。どうやら事に及ぶ直前だったようだ。

 シルグは安堵の息を漏らし、少女に手を差し伸べようとした。


「てめえ、何しやがる……!」


 怒気混じりの声をぶつけられ、シルグは顔を上げた。

 少女を襲おうとしていたのは他にも三人いた。

 

「お前たちこそ何をしている。住人を襲うのは軍規違反じゃないのか」


 シルグは全身の力を抜き、いつでも動けるように身構えながら男たちを見据えた。いずれもシルグと同じ緑の軍服を身につけている。サングリクス兵だ。

 

「はあ? 俺らは勝ったんだぜ。負けた奴らをどうしようが俺らの自由じゃねえか」

「他の奴らも陰でこそこそ楽しんでやがるんだ。俺らだってやらなきゃ損だろうが」

「お前も楽しみたいからこんな時間にうろついてたんだろ? 俺らの後でよけりゃ譲ってやっから、そう固いこと言うなって。黙ってりゃ上も黙認してくれるんだからよ」

「断る」


 怒りや呆れ、そして懐柔を滲ませる男たちに対してシルグははっきりと拒絶した。


「……あぁ? 何だって?」

「断るって言ったんだ。お前らは許さん」

「……頭の固え野郎だ。おい、こいつ黙らせちまおうぜ。なぁに、兵卒の一人や二人消えたって、どうとでもごまかせる」

 

 三人の男たちから剣呑な気配が立ち上った。それぞれが左手を上げて、その口が開きかける。

 シルグはその瞬間動いた。地面にへたり込んでいる少女を飛び越え、横一列に並んだ中央の男の顎に右掌打を叩き込む。その体が浮き上がったときには、引き戻した右肘で右の男の脇腹を痛撃。それが吹き飛ぶより早く、左側の男の顎に、初撃と同じように右掌打を見舞った。

 右拳を腰に引き寄せ、残心の構えをとると同時に、三人の男が地面にくずおれる。

 真韻術マーレクス真韻マーレを唱えることで発動する。それさえ封じてしまえば、真韻術を得意とするサングリクス兵であっても少々腕の立つ兵士でしかない。

 男たちが一人残らず昏倒したのを見届けたシルグは、地面に座り込んだままの少女の前にひざまずいた。

 

「怪我はないか?」


 質素な上着とスカート姿の少女は、シルグが声をかけると襟元をぎゅっと握り締めた。黒い瞳に色濃い警戒を滲ませながらおずおずと口を開く。

 

「……何で助けるの。わたしを襲うため……?」

「違う。こんな服を着てるけど、俺はアルテネの人間だ。〝剣の悪魔〟って知ってるか? 俺はそれだよ」

「……ほんと?」

「ほら、これが証拠だ」


 シルグはそう言って左手を少女の目の前にかざした。上に向けた手のひらから闇より黒い霧が微かに立ち上る。

 

「黒い真気ルフ……!」

「信じてくれたかい?」

 

 少女は小さく何度も頷いた。

 真韻術の原動力である真気は術者の体内に宿っており、一般的には透明なものとして知られているが、人によっては黄色や赤、緑など様々な色がついていることがある。

 これは特に強い力を持つ者に現れる特徴で、中でも黒はシルグが知る限り自分のみという珍しい色だ。だから少女は、黒い真気を見てすぐにシルグがアルテネの人間だと理解したのだ。

 少女は目に涙を浮かべて必死に訴えかけてきた。


「悪魔さん、お父さんとお母さんが見つからないんです。助けてください……!」

「……両親を探すために出歩いていたのか」


 小さく頷いた拍子に、少女の目から涙が零れ落ちた。

 慰めの言葉をかけようとしてシルグはそれを呑み込んだ。

 事態は決して楽観視できない。親が子を放置して逃げるとは考えにくい。つまり少女の両親は、町が占領されたときの混乱で命を落とした可能性が高かった。

 シルグはそういった不吉な推測をおくびにも出さずに、少女の黒髪を撫でた。

 

「わかった。すぐにあいつらを追っ払って探してやる。だからそれまで、いったん町を離れよう。安全なところに連れて行ってやるから。名前は?」

「……フィルメリア。ルプス・フィルメリアです」

「よし、フィルメリア。一緒に行こう」

「そこで何をやっている!」


 シルグがフィルメリアの小柄な体を抱え上げようとしたそのとき、路地に誰何の声が響き渡った。

 一瞬、少女を連れてそのまま逃げようかと思ったが、すぐにその選択肢を捨てる。

 シルグの目的は〝凍嵐の死神〟にもう一度会うこと。ここで逃げてしまってはそれが達成できない。もともと会える可能性は低いと考えていたが、もう少しだけ町中を探索する時間が欲しかった。そのためにはこの場を何とかやり過ごすしかない。

 シルグはそう決断すると、少女に向かって静かにするようにと口の前に人差し指を立てた。立ち上がって振り返る。

 その瞬間、シルグは目を見開いた。

 

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