第5話 青い瞳の死神
夜の空気をかき分けてつかつかと歩み寄ってくるのは、紺色の軍服を着たすらりとした体格の女だった。歩調に合わせて白金の長髪がさらさらと左右に揺れ、左腕は全体が薄らと青い
中でもシルグの目を強く引きつけるのは、ほとんど月光の届かない路地にあって一際存在感を放つ双眸だ。微かに青く光る二つの瞳は、シルグの記憶に鮮烈に焼き付けられたものと全く同じ。
女はシルグが探していた〝凍嵐の死神〟ヴァルフェルーラ・カルミナ本人に間違いなかった。
予期していなかった邂逅に茫然と立ち尽くすシルグの数歩手前で、カルミナは立ち止まった。やや高い位置にあるシルグの顔へと青い目を向け、それを不審そうに細める。
「……お前、怪我をしているのか?」
その美貌に相応しい涼やかな声で問われて、シルグはようやく我に返った。
カルミナとは一瞬だが顔を合わせている。しかし彼女は、顔の上半分に包帯を巻きつけた目の前の男が〝剣の悪魔〟だとは気付いていないようだった。
顔を隠しておいてよかったと心底安堵しながら、シルグは偽りの立場に見合った言葉遣いで答えた。
「はい、先日の戦闘で少し。見た目はひどい有様ですが、大したことはありません」
「そうか。では聞こう。まず所属と名は?」
「北部国境防衛軍第二軍団二六三歩兵小隊、シンセルビス・ブルーネムです」
シルグはあらかじめ用意していた情報をすらすらと述べた。
シルグが名乗った名前や所属は、劣勢にあったアルテネ軍が偶然捕虜にしたサングリクス兵士のもので、この制服もその男のものだ。
実在する部隊名を提示すれば怪しまれる危険は低くなる。そして想定通り、カルミナはシルグの答えをさらりと聞き流した。
「シンセルビス。これはどういうことなのか、説明しろ」
カルミナが目を伏せた。それが向けられているのは地面で昏倒している男たちだ。
「はい。彼らがこの少女を襲っていたところに遭遇しまして、制止したのですが聞き入れてもらえず、逆に私に襲いかかってきたためにやむなく反撃しました」
シルグは一瞬ごまかそうと思ったが、ありのままを伝えた。
カルミナの人格を信じて。
カルミナは改めて、シルグとその後ろにいる少女フィルメリア、そして倒れる男たちを順番に見やった。
「……どうやら事実のようだな。この不埒者どもを営倉に放り込んでおけ!」
カルミナが鋭い語調で命ずると、背後に控えていた兵士が四人、昏倒する男たちを抱え上げて路地の外へと連行していった。
それを険しい表情で見送ったカルミナが再びシルグに問う。
「それでお前はなぜこんなところにいるのだ。町の警備以外の兵は休息するように命じられているはずだ」
「はい。あてがわれた天幕で休んでいたのですが、さっきの男たちが良からぬ企みを口にしながら街へ向かうのを聞きつけて、悪いとは知りつつも尾行を決断しました」
シルグは大急ぎでまとめ上げた言い訳を述べた。
カルミナの青い瞳が詰問するようにシルグをじっと見つめる。
嘘をついている事実と、神秘的な容貌が間近にあるという現実が、シルグの鼓動を不規則に速める。
カルミナはさらに数呼吸ほど無言を保ったあと、おもむろに口を開いた。
「ならばお前を処分するわけにはいかないな。この件は不問にしよう。早く野営地に戻れ。その娘は私が家まで送って行く」
咄嗟の言い訳が聞き入れられたと安堵したのも束の間、すぐさま次なる危機がやって来た。
フィルメリアは連れ帰る予定なのに、このままではルブルーダに置き去りにしなければならなくなる。
シルグはそれを避けるべく、さらに言い訳を重ねようとした。
その矢先、カルミナの艶やかな唇がきゅっと引き結ばれた。
「……そういえば、私は敵だったな」
シルグは背中に気配を感じた。フィルメリアがシルグを盾にするように、カルミナの視線から逃れていた。そこにあるのは固い拒絶。
「その娘はお前には気を許しているようだから、お前が送ってやれ。しばらく夜は出歩かないようにと言い含めておくのを忘れずにな」
カルミナは平板な口調で告げると背を向けた。路地の入口へと歩き出す。
彼女の所作はともすれば冷淡にさえ見えるものだった。
しかしシルグは確かに感じ取っていた。フィルメリアへと向けた青い瞳に抑えきれない葛藤が滲んでいたのを。
異国の人間とはいえ、彼らが苦境に追いやられている現状と、その一因を自身が担っているという事実を決して歓迎してはいない。
シルグの目には、彼女がそう言っているようにしか見えなかった。
鼓動が速まり、それとともに彼女への思いがはっきりと形を成していく。
もう考えるまでもなかった。
やはり自分は〝凍嵐の死神〟に惚れてしまったのだ。
シルグはカルミナに尋ねたかった。
自分の抱いた印象が事実なのかどうかを。この戦争をどのように受け止めているのかを。
だがそれはできない。迂闊な真似は不審を抱かれる原因となり、フィルメリアをここから無事に連れ出せなくなるかもしれないからだ。
シルグは精神力の全てを動員し、遠ざかるカルミナの背中から視線を引き剥がそうとした。
そのとき、不意に殺気が走った。
素早く頭上を仰ぐ。
細長く切り取られた夜空に黒影が舞っていた。下方に鋭い突起が伸びている。
あれはおそらく剣。その狙いは、路地の入口へ向かっているカルミナの頭部。隣家の屋根からの奇襲だ。
シルグはそれを見て取った瞬間、右足を踏み込んだ。同時に左腰の剣を抜き放つ。
夜闇に微かな銀光が走り、鋭い金属音が路地に響く。
シルグの放った一条の光のごとき刺突は、カルミナを襲わんとしていた刀身を完璧に捉えた。
しかし平行に弾かれた刃は止まることなく、カルミナの頭上で縦に回転した。黒影が空中で体を旋回させ、刺突を回転斬りに変えたのだ。カルミナの頭部を両断せんと鉄の刃が迫る。
シルグは突き出した剣を一瞬で引き戻した。それを横薙ぎの斬撃に変えて迎え撃つ。
が、その刃が攻撃を防ぐことはなかった。
正面を向いていたはずのカルミナが振り返り、左手を突き出していた。その先にあるのは傘のように広がる半透明の青い膜。
硬質な打撃音とともに空中で姿勢を崩した黒影は、攻撃が失敗したと見るやカルミナが作り出した障壁を蹴って跳躍した。シルグの頭上を飛び越えて、カルミナが向かっていた路地の入口とは反対側に音もなく降り立つ。
黒影は夜だから黒く見えたのではなく、全身を黒い衣服で覆っていた。体格からして男。目以外の全身が隠れているため、人相はわからない。
男は無言のまま切っ先をシルグたちに向けている。しかしシルグは見逃さなかった。男の重心が後方に傾くのを。
逃げる気だ。
シルグは
サングリクス兵に扮しているいま、シルグはカルミナを襲った輩を捕縛しなければならない。それには体内に蓄積している
どうする。
シルグが迷ったその隙を突くように、黒ずくめの男が剣を持っていない左手をシルグに向けた。その直後、眩い光が炸裂。
シルグは素早く手でそれを遮った。光は一瞬で収まり、男のいた場所を見やる。すでにその姿は路地の角に消えるところだった。
今の光は、照明用真具にも用いられる光生成の真韻術によって生み出されたもの。男はそれを目くらましとして利用したのだ。
背後からの複数の足音にシルグは振り返った。カルミナと同じ紺の軍服を着た兵士が数人駆け寄って来る。
「隊長! 何事ですか!」
「何者かに上から襲われた。正体は不明だ」
「何ですって……!?」
「それで賊はどこに」
「向こうの路地を左に走り去った。すぐに追跡してくれ。ただしあまり騒ぎ立てるな。人員は最小限で、他言は無用だ」
「はっ」
カルミナの部下と思しき兵士たちは女だった。指示を受けて風のように走り出し、路地の先に消える。
それを見送ったカルミナが小声で何かを囁きつつ、シルグへと目を向けた。半透明の対物障壁が青い霧となって散る中、口を開く。
「お前に助けられたようだな」
「いえ、当然のことをしたまでです。お怪我はないでしょうか」
「お前が賊の奇襲を止めてくれたおかげで無傷だ」
シルグへと向ける表情も声も、そこはかとない柔らかさがあるように思えた。
期せずしてカルミナともう一度言葉を交わせた歓喜と、彼女が襲われたことへの恐怖と疑念、自分の素性が露見しないかという緊張、そして先刻抱いた問いをぶつけたい衝動とが、シルグの内でぐるぐると渦巻く。
シルグはそれを必死に抑えつけながら剣を鞘に収めた。カルミナの青い瞳がそれを追いかける。
「帯剣しているとは珍しいな。さっきの体さばきといい、お前は剣に自信があるのか?」
カルミナの問いに、シルグは剣の柄に手を置いたまま動きを止めた。
シルグは『イオスフィード』という銘の片刃剣を愛用しているが、いま所持しているのはサングリクス軍で採用されている無銘の両刃剣だ。
カルミナの言うように、サングリクス軍兵士の主兵装は
一方でシルグの主兵装は剣。
もしやその点から疑いを持たれたのか。
シルグは細心の注意を払いつつ口を開いた。
「それなりにはありますが、まだまだ胸を張れるほどのものではありません」
「謙遜するな。私は剣には詳しくないが、今のお前の動きは十分に胸を張れるものだということくらいはわかる」
カルミナの口元が微かに綻ぶ。しかしそれはすぐに真剣な表情へと変わった。
「どうだ。剣について少し教えてくれないか。奴と相見えるときまでに、少しでも情報を集めておきたいのだ」
「……奴とは?」
「〝剣の悪魔〟だ。私はあれを倒さなければならない」
シルグの異名を口にした瞬間、まるで内なる敵意が漏れ出たかのようにカルミナの瞳の青光が強くなった。
その矛先が向けられているのはシルグ自身。彼女に敵視されているという事実が、狂おしいほどに胸を抉り、締め付ける。しかしそれは絶対に表に出してはいけない感情。
シルグは平静を装いながら、内心とは裏腹な無難な答えを絞り出した。
「……わかりました。私でよければ是非とも協力させていただきます」
「そうか。ならば明日にでも正式な形でお前の所属部隊に命令を出しておこう。ではお前はその娘を送り届けたら休め。それと今の件は我々で調査を行うから他言しないように」
「承知いたしました」
カルミナは穏やかさを取り戻した青い瞳でシルグを見やると、路地の入口で警戒に当たっている部下の元へ歩き出した。
シルグの視線は自然とその背中を追う。
ようやく会えたというのに、別れなければならないのが切なかった。
もっと話をして自分という人間を知って欲しい。カルミナの声も聞きたい。彼女のことをもっと知りたい。そうすればきっと誤解は解けるはず。
しかしそれは叶わぬ願い。
アルテネ王国とサングリクス王国が敵対している現状では、言葉を交わすことすらできないのだ。
シルグは内で渦巻く無数の感情と衝動の全てをぐっと呑み込んだ。家屋の壁に体を寄せていたフィルメリアへと歩み寄り、背中を向けながらしゃがみ込む。
「よし、つかまれ。今のうちに行こう」
フィルメリアが背中から覆いかぶさり、首に両腕を回す。
シルグは彼女の両足を抱えると真っ暗な路地を早足で歩きだした。広い通りを横切り、人目につかない細い路地を選んで進む。
「……何であの人を助けたの?」
不意にフィルメリアが、シルグの葛藤を見透かしたかのように囁いた。
シルグがどのような思いを抱いていようともカルミナは敵であり、フィルメリアをはじめとしたルブルーダの住民を不幸のどん底に叩き落とした原因の一人。
動かしようのないその事実を突きつけられたようで、シルグの足は止まりかける。が、シルグはそれを精神力で防いだ。遅滞なく体を操りながら、事実と異なる答えを返す。
「あそこで見捨ててたら、俺が怪しまれたかもしれなかったからだ。……フィルメリアを苦しめてる人間なのに……すまない」
少女は小さく吐息を漏らすだけで、その後は声を発することはなかった。
沈黙に追い立てられるように、シルグはひたすら夜の中を走り続けた。
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