第9話 密偵の誘い
白い翼を持った飛翔体が二騎、直進から急上昇、そして急降下からの急旋回と、目まぐるしく軌道を変えながら、大空を所狭しと飛び回っている。
その様子を紺色の軍服に身を包んだ女が、微かに青く光る目を細めながら見守っていた。
陽光を反射する白金色の長髪が特徴的な女の名はヴァルフェルーラ・カルミナ。サングリクス王国において〝凍嵐の姫君〟と恐れ敬われる英雄だ。
カルミナが見守る中、空を駆ける二騎のうち、一方の白翼が突然消失した。
あれはサングリクス軍が誇る精鋭、飛翔機動兵だ。
一気に五ティトラ(約九メートル)ほど降下したところで、再び翼が出現。何事もなかったように飛翔を再開する。
「少し翼の展開が遅い。あれでは攻撃を避けてもその後で反撃に移れないぞ。エスキュリィの慌てる癖はまだ完全には直ってないか」
「相変わらず厳しいな。十分実戦で通用する域にあるのに」
上空を飛ぶ人間の名を出しながら苦言を呈するカルミナに、隣にいた栗毛の女が苦笑を漏らした。
彼女の名はアイビシア。カルミナの友人であり、カルミナが指揮する近衛軍団第十三飛翔機動隊の副隊長でもある。
「私は部下を誰も失いたくない。相手はあの〝剣の悪魔〟なんだから、気を引き締めてもらわないと」
「わかったよ。エスキュリィには私から言っておく」
「頼む」
カルミナはアイビシアに答えつつ、視線を地上に下ろした。
焼失したり半壊した家屋が目立つルブルーダの街並みと、その外れに広がる野原で、飛翔盾の点検や体をほぐすための運動をしている若い女たちの姿が目に入る。
カルミナと同じ紺の制服を来た彼女たちと、いまも上空を飛び続ける二騎の飛翔機動兵は、いずれもカルミナ率いる第十三飛翔機動隊の隊員だ。
部隊はカルミナが直接命令を下す指揮本隊と二つの中隊からなり、この場にいる隊員はいずれも第一中隊の所属だ。昨日アルテネ軍の奇襲を迎え撃った第二中隊と合わせると人数はおよそ八十人。そこに隊長のカルミナ率いる指揮本隊十名で第十三飛翔機動隊は構成されている。
第一中隊の彼女らは勘を鈍らせないための軽めの訓練を行っているところで、第二中隊は一日休養するように指示してあるためこの場にはいない。
部下の様子に目を凝らすカルミナの視界に、ふと小さな点が映り込んだ。
ルブルーダの南の森の上空に、白い翼を広げて飛ぶ飛翔機動兵の姿があった。みるみる近づいてきたそれは、カルミナの頭上に達したところで急角度に旋回しながら高度を落とす。紺の制服を纏った若い女が、飛翔盾の上から飛び降りながら盾を空中でつかみ、カルミナの正面に着地した。
やって来たのは、波打つ黒髪に浅黒く日焼けした肌が勇ましい女だ。白布に包まれた物体を背中に括りつけている。
「アウトリオ・ディリア、ただいま戻りました」
「ご苦労」
女は直立不動の姿勢で右手を額の横に持ち上げ敬礼した。それに対しカルミナも同じように答礼する。
「こちらが隊長の新しい盾です」
ディリアは胸元で縛っていた帯を解くと、背中の物体をカルミナに両手で差し出す。
それを受け取ったカルミナは早速白布を外した。中から現れたのは真新しい鉄色の光沢を放つ飛翔盾だ。裏側に取り付けられた持ち手をつかみ、その下にある突起をぐいっと持ち手側へと移動させる。すると盾の両側面から細い金属棒が飛び出た。
「スレイデセル、ルフィン、リディルバール」
カルミナが
カルミナが口にした真韻は、真気に対して対物障壁に変化するように促すもので、飛翔機動兵は例外なくこの方法で翼を作り出している。
カルミナは青い翼を右手でつかんで、ぐいっとひっぱたり押したりねじったりしてみた。
「しっかりした造りだ。悪くない」
カルミナが呟くと、それをじっと見守っていたディリアが日焼けした肌に安堵の色を浮かべた。
飛行時に用いる翼は、盾から飛び出ている金属棒を支えに展開されており、この部分の強度が低いともげてしまうことがある。そのためこうした確認は非常に重要だった。
「すまないな。私が油断したせいで盾を壊されたのに、王都まで行かせてしまって。今日は一日ゆっくり休息してくれ」
「はい。ではお言葉に甘えて休ませていただきます。さすがに休みなしでは疲れました……」
ディリアは敬礼すると、若干ふらつく足取りで町の方へと歩き出した。
アルテネ王国の南に位置するルブルーダの町から、サングリクス王国の王都フルメテラまでは二百八十ミルト(約五百キロメートル)以上あり、飛翔機動兵が空を飛んで行ったとしても、往復に半日はかかる。
また飛翔盾は、盾としての機能と携帯性を重視して作られているため乗り心地は決してよくはなく、さらに飛行時には片膝をつく姿勢をとることから、長時間の移動にそもそも向かない。
普段から鍛えている飛翔機動兵であっても、足元がおぼつかなくなるのは致し方ないことだった。
カルミナは部下を見送りつつ、隣のアイビシアに話しかけた。
「これでいつ戦いが起きても大丈夫だ。あとは昨晩の二つの件だが、あれはどうなった?」
「カルミナを襲った奴の足取りは、依然として不明のままね。森の方に逃げたようなんだけど、さすがにあそこに逃げられると少数では追跡は難しい」
アイビシアが顔を曇らせながら言う。
昨晩の襲撃事件を大事にするなと指示を出したのはカルミナだ。
それはルブルーダの住民が犯人という可能性があり、それが上層部に伝わると、住民に対しての苛烈な聞き取りや弾圧につながる恐れがあったためだ。
「それについては別の方向から調べよう。もう一つの方はどうだ」
「そっちも少し妙なことになっている。カルミナから聞いた第二軍団二六三歩兵小隊、シンセルビス・ブルーネムという人間は確かに存在する。でもその男は所属していた小隊と一緒に、アルテネ侵攻の初期に行方不明になっているらしい。現場を指揮していた中隊長の話によれば、途中で連絡が途絶えたから、捕虜になったか全滅したと判断したということだ」
「……つまり、いるはずのない者ということか」
「それともう一つ。そのシンセルビスという男は、特別剣の腕が立つわけではなかったようだ。ここから考えられるのは──」
「別人の成りすまし」
「そう。もしかしたら、カルミナを襲った賊を手引きしていたのかもしれない」
アイビシアの推測はもっともなことだった。しかしカルミナはそれに異論を唱える。
「でも奴は黒ずくめの攻撃を迎撃したんだ。私が標的だったのなら辻褄が合わない」
「それはあそこでカルミナを見殺しにしたら、自分が怪しまれるから助けざるを得なかった……というのは弱いか。いずれにしろ、あれが味方ではないのは間違いない。私はそのときに備えて身辺を固めておく」
「頼む」
アイビシアに答えつつカルミナは、いまの報告を改めて吟味した。
友人の分析は的確で、昨晩ブルーネムと名乗った兵士がサングリクス兵ではないのは確実だろう。つまりまんまと騙されたというわけだ。
身分を詐称するような輩に接近されて何の警戒もしていなかったことと、その言葉の真偽を疑いすらしなかった自分の不用心さに呆れ、そしてそれを超える怒りが湧く。
しかしそれとともにカルミナはこうも思っていた。
あの男を敵と見破れる者が果たしているのかと。
カルミナは決して勘が鈍いほうではなく、むしろ鋭いほうだ。なのにあの男からは微塵も敵意は感じられなかった。口振りに違和感は覚えなかったし、態度も極めて紳士的で、背後にいた少女のほうが危険に見えたほどだった。だからカルミナはあの男を疑わなかったのだ。
いったい何者なのか、疑念は尽きない。
カルミナが男の正体に思いを巡らせていると、草を踏みしめる音が耳を打った。
町の方からこちらに向かってくる一人の男がいた。
年齢は三十代半ばほど。こざっぱりとした髪形に、濃緑の軍服をきっちりと着こなしている中肉中背の、真面目そうな風貌の男だ。
「こちらにいらっしゃったのですね、ヴァルフェルーラ殿下」
男はカルミナの手前で立ち止まると恭しい仕草で一礼した。
男の名はメイディオ・ウルビス。
今回のアルテネ侵攻作戦に際し、王都を守る近衛軍から北部国境防衛軍へと派遣された参謀だ。その役目は現地における作戦立案に助言し、王都の意向を反映させること。
「戦場にいらっしゃるというのに鍛錬に精が出ますな」
カルミナは思わず舌打ちしそうになって辛うじてそれを呑み込んだ。心中に渦巻く感情とは裏腹に、丁重な口調で答える。
「ええ。日頃の積み重ねが、いざというときに真価を発揮しますから」
「なるほど。その成果がこの翼というわけですね。余りの美しさにいつ拝見しても見惚れてしまいます」
メイディオが柔和な笑みを浮かべながらカルミナの盾に目をやる。
「……ルフスフィッド」
カルミナはメイディオに聞こえないほどの小声で真韻を唱えた。
その効果は真韻術の解除。それを受けて飛翔盾から広がっていた青い翼が霧状の真気へと戻り、大気中に拡散して消えた。盾の裏側の突起を操作して、側面に突出していた金属棒を収納する。
メイディオの声も表情も、ほとんどの人間が警戒を解くであろう温かさと穏やかさに満ちている。実際にメイディオと話す人物たちが、打ち解けていく様を見たこともある。
しかしカルミナは全く心を許す気にはならなかった。明確な根拠はない。敢えて言うなら生理的に受け付けないとでも言えばいいのか、とにかくメイディオの声も態度も虚飾に塗れているようにしか思えず、どうしても嫌悪感が先に立ってしまうのだ。
この男に比べたら、昨晩偽名を名乗った男の方がよほど信用できる。
それほどに、カルミナはメイディオを嫌っていた。
翼を消し去ったのも、メイディオに美しいなどと言われると汚されたような気分になるからだった。
ただ、そのような内心は欠片も表に出しはしない。
カルミナは平然とした態度のまま尋ねた。
「それでメイディオ殿。わざわざこのようなところまでどういったご用件ですか」
「ええ、それなんですが、軍議の時刻が予定より早まりまして、正午から行うとのことです。殿下が昨日報告された情報に、例の〝剣の悪魔〟の件がありましたでしょう。悪魔に関する噂が事実だとしたら、あれの参戦で我々の計画にも大きな影響が出てくるのは必至。それを想定した策を練らねばなりません」
「もっともなことです。では訓練を切り上げた後に向かいましょう」
「よろしくお願い致します」
メイディオは深々と丁寧に一礼した。そのまま戻るのかと思いきや、再びカルミナへと顔を向ける。
「ときに、殿下は悪魔と接触なされたとのことですが、感触のほどはいかがでしたでしょう?」
「相手の実力はまだ未知数ですから、何とも言えません。私に言えるのは、次に会ったときには逃がさない。それだけです」
「心強いお言葉です。殿下と隊員方の手にかかれば、いかに悪魔であろうとも打ち倒せると信じております」
メイディオは、表面的には信頼に満ちた笑みでもう一度深々と頭を下げると、町へと戻って行った。
十分に離れた頃合いを見計らって、傍らでやり取りを見守っていたアイビシアが耳打ちしてくる。
「どうも私はあの男が好きになれない。あの笑いが仮面のように見えて仕方がない」
「私もだ。それなのに王都での奴の評価はすこぶる高くて、誰よりも信頼できると言われているんだぞ。私には信じられない」
渋面を作る友人に、カルミナも首を振りながら答えた。互いに顔を見合わせて苦笑を浮かべる。
「さて、私は軍議に行かなければならなくなった。訓練はここで終わりにする」
「わかった。私も護衛について行こう」
アイビシアはそう言うと、左手首にはめた腕輪を人差し指で叩いた。
これは
この腕輪の場合であれば、指を叩いた衝撃をきっかけとして、人の目には見えない特殊な光を発する機能があり、発信時間の長短を組み合わせてそこに情報を乗せることができる。
相手側がこの光を検知して振動する真具を所持することで、離れたところにいても情報を受け取られるという仕組みだ。
これら発信と受信の機能を持つ真具は、カルミナ率いる第十三飛翔機動隊の隊員全員に行き渡っている。アイビシアの指示は速やかに伝わり、空を飛んでいた白翼と周辺に散っていた隊員たちが訓練を中断し、カルミナのもとへと集まって来た。
素早く整列した彼女たちに対して、アイビシアが一歩前に出る。
「訓練は現時点をもって終了する。イアーナとアンサス、カスタネア、クレイシアの四人は私と一緒に隊長の護衛だ。飛翔盾は隊員に預けて同行せよ。その他の者は別命あるまで待機」
「了解しました」
「では行くぞ」
アイビシアがカルミナを先導して歩き出し、その前後を四人の隊員が固める形となる。
カルミナは部下に守られながら思う。
警戒すべき相手は黒ずくめの刺客と、サングリクス兵に成りすました男だが、そのどちらも接触してくることはないだろうと。
黒ずくめの目的はおそらくカルミナの暗殺であるから、日が高いうちに現れることはない。偽名を名乗った男も正体を突き止められていると判断しているはずで、剣技についての情報を提供するとの約束もその場を凌ぐための方便。万に一つも守られるわけがない。
カルミナはそう考えていた。
しかし予想外のことが起きた。
それは軍議を終えて、第十三飛翔機動隊の滞在先になっている宿に戻って来たときのことだ。
サングリクス軍が接収したこの宿は、濃緑の軍服を着た兵士が周辺の警戒にあたっている。そのうち入口を守る兵士が、カルミナを先導して歩いていたアイビシアに話しかけてきた。
「申し上げます。ヴァルフェルーラ殿下がお出かけになっている間にブルーネムと名乗る男がやって来て、殿下宛にこの手紙を預かったと申しておりました」
「ブルーネムだと?」
「本当にそう名乗ったのか?」
茶色い封筒を両手で差し出した兵士に、カルミナとアイビシアは相次いで聞き返した。
兵士はその剣幕に押されつつ答える。
「は、はい。何でも街を歩いていたら、見知らぬ人間に強引に持たされたのだとか。そのブルーネムという男は怪しいと思ったものの、一応報告のために届けに来たと言っておりました」
兵士の手からアイビシアが封筒を受け取った。開封せずに指を這わせて慎重に中身を確認する。
カルミナはそれを横目に兵士に尋ねた。
「その男は軍服を着ていたか?」
「はい、我々と同じものを着ていました」
「頭に包帯は巻いていたか? それと腰に剣を差していたか、覚えているか」
「包帯は巻いていませんでした。腰の剣はなかったように思います。丸腰でしたから」
「そうか。ご苦労だった。中はこっちで確認しよう」
兵士に労いの言葉をかけつつ、カルミナはアイビシアに小さく頷きかけた。宿の扉を開けて中に入る。
入口は広間になっていて、木製の机や椅子が適度な間隔で置いてあった。右には訪れた客に応対する長机があり、奥に二階へと上がる階段がある。
一階に飲食をするための空間、二階に宿泊客を泊めるための客室という構造の宿屋だ。
ただ、いまはサングリクス軍に接収されているため、平時であれば多くの客で賑わっていたであろう広間は人気がなく、現在ここを使用しているカルミナの部下たちが数人雑談しているだけだった。
力で奪い取った建物を使うことに抵抗を禁じ得ない。カルミナは葛藤をぐっと呑み込み振り返った。ここまでの護衛にあたっていた部下たちに声をかける。
「ここまでご苦労だった。今日の仕事はこれで終わりだからゆっくり休め。アイビシアは私と一緒に部屋まで来てくれ」
「了解しました」
敬礼する隊員に答礼しつつ、カルミナは階段を上った。踊り場で直角に曲がり二階につくと、廊下が左右に続ている。右は個室、左には大部屋が並んでいる。
カルミナにあてがわれたのは当然ながら個室。二十ほどの扉が立ち並ぶ廊下を進み、自分の部屋の前で立ち止まった。
すぐ後ろに突き従っていたアイビシアが、カルミナよりも先に回転式の取っ手に手を伸ばして扉を開けた。中を覗き込んでからカルミナに頷きかける。
カルミナは無言のまま部屋の中に入った。
室内には清潔な寝台に机と椅子が一つずつ置かれているだけで、普段カルミナが暮らしている王都の屋敷とは比較にならないほどに狭く、内装も質素だ。しかしこういった宿において個室があること自体が非常に珍しいのをカルミナは知っていた。大半の宿では、大部屋で客たちが雑魚寝するのがほとんどなのだ。
対価を支払わずに贅沢な振る舞いをしているという事実に、再び罪悪感がこみ上げる。
カルミナはアイビシアに悟られないように小さくため息をつきながら椅子に腰を下ろした。
「アイビシア、封筒を」
副官が差し出した封筒と短剣を受け取り封を開ける。中には二つ折りの紙が一枚入っていた。それを取り出して目を落とす。そこには次のような短文が記されていた。
『今晩十五ルム頃(午後十時半頃)、ルブルーダ郊外のエネトクルス神殿墓地にてお待ちしています』
エネトクルスとは生と死を司るとされている神の名だ。その役割から死者が眠る墓地の近くに神殿は建てられることが多い。これはエアデラム大陸西部においてほぼ共通の風習であり、どんな小さな集落でもエネトクルスの神殿だけはまず存在する。呼び出しの場所として指定したのは、このような事情があるからと思われた。
カルミナは紙をアイビシアに差し出しながら口を開いた。
「差出人はシンセルビス・ブルーネムとある」
「……直接カルミナに渡してと言って手紙を預けると正体を詮索される。だから第三者から預かったと嘘をついたというわけね。それで……どうする?」
アイビシアに尋ねられて、カルミナは腕を組んだ。
相手の目的を推測してみるも、わざわざこのときに接触を図る意図が読めなかった。
「……行ってみよう。奴が何者なのか正体を突き止める。暗くなる前に下見をしておく。ついて来てくれ」
カルミナはアイビシアに告げて立ち上がった。
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