最終話

 ことが起こった瞬間、ユアリアスには何もできなかった。

 彼我の速度差だとか、距離だとか、色々と理由はつけられるだろうが、ユアリアスは完全にマゴーラスカに負けた。

 視界の端に捕らえてはいた。

 しかし、高速で飛ぶユアリアスにとって、家の屋根に登って競技を観戦している人の姿など、動かないという点では煙突と何の変わりもない。

 子どもが一人、足を滑らせて、屋根から落ちた。

 危ない、とそう思った。

 思った次には、手を足の間に突っ込んで、座布団を箒に括りつけている紐の一本を引きちぎった。

 引きちぎったところで、少しの変化もなかった。

 座布団はあと二本の紐で箒に縛り付けられていて、引き抜くことも出来なかった。

 対して、マゴーラスカの機動は見事だった。

 肩に乗った鴉が一声鳴いた瞬間に減速を開始。

 魔力をあえて大きく膨らませてばら撒き、空気制動まで用いて方向を転換。

 家の壁を蹴ったときには再加速と角度の調整が終了していた。

 体ごとぶつかるようにして子どもに向かい、地面との間に入ると同時に下方へ向けて移動と減速を始めた。

 子どもにかかる衝撃を最小限に削り取りながら、自身の体を盾にして植え込みの中へ突っ込んだ。

 その全てをユアリアスは見ていた。見ていたくせに、何も出来なかった。右手には空しく紐が一本ぶら下がっている。

 バキバキ、と枝の折れる音がして、その後でようやっと頭上から悲鳴が上がった。

 それくらい短い時間のことだった。

「ユア」

 ベルノリアスの声で我に返り、ユアリアスは植え込みに箒を寄せた。マゴーラスカが落ちた部分だけ、ぽっかりと穴が空いたように枝がない。

「マゴーラスカさん!」

 声をかける。返事がない。もう一度。

「マゴーラスカさん!」

 反応があった。植え込みの中でまた枝の折れる音がしたかと思うと、ゆっくりとマゴーラスカが浮かび上がってきた。

 腕に抱えられた子どもは、何が起こったのかわからないという感じで、きょとんとしている。それはそのまま、子どもが欠片も傷を負っていないことの証左であった。

 マゴーラスカもまた、無数の裂傷を負ってはいたが、大きな怪我はない。ユアリアスと目を合わせて、にこりと笑うと、そのまま屋根の上へと昇っていった。

 ユアリアスはそれを目で追った。

 子どもの母親らしき人が、マゴーラスカに頭を下げて礼を言っている。

 マゴーラスカは手を振ってそれに応えると、ユアリアスの元へと降りてきた。

「この勝負はあたしの負けだねえ」

「そんなっ」

 反駁しようとしたユアリアスの目の前に、ちりんと音を立てて鈴が差し出された。

「植え込みの中でちぎれちまってねえ。あたしゃ失格さ」

 何が失格であるものか。競技などは関係ない。この老魔女の実力と人柄の素晴らしさは欠片ほども損なわれない。ユアリアスは自分の中に、この老魔女に敵う部分を一つも見つけ出すことが出来なかった。

「さあ、行きな。ごたごたしてる間にずいぶんと追い抜かれたみたいだ。先頭はそろそろ一本杉を折り返す頃じゃないかね」

「でも」

「でもも何もないよ。この先にある青い屋根の家を左に曲がればもう町の外さ。そうして杉を折り返せば後は大通りを一直線だ。どこにも迷うところなんかない。どれだけ離されていようと、あんたなら追いつけるだろ」

 マゴーラスカの視線は、ユアリアスがまたがる箒の座布団に注がれている。

「もしかして、見抜かれていましたか」

「鈴をつけるときに持ったからね。そりゃあ分かるとも。その重さ。何か仕込んであるんだろ」

 マゴーラスカの指摘どおり、座布団には重りが仕込んである。旅立つ前にマギウィルスカがせっかくだからと言ってつけたものだ。

「はい、鉛を五秤ほど」

「なまっ? よ、よりにもよって鉛かい。よく魔力を流せるもんだ」

「慣れみたいなものです。この町まで着くのに一巡月かかりました」

「なんだい、なんだい。どれだけ揺さぶったところで、最後は私の逆転負けが決まっていたんじゃないか。ここで脱落できて、逆によかったような気がしてきたよ」

「そんな、でも、マゴーラスカさんはすごく格好よかったです」

 ユアリアスは心の底から言った。マゴーラスカが照れたように笑う。

「お世辞はいいよ。それより、にわかどもをぶち抜いて、目にものを見せてやりな。魔女名も持たない、古代語も扱えない。何より魔女の誇りをこれっぱかしも解しやしない。

 あたしゃ、あんなのを魔女と認めないよ」

 ユアリアスは力強く頷いた。

 残り二本の紐をちぎって、座布団を箒から外した。ずしりと重いそれを、ユアリアスはマゴーラスカに手渡した。

「すみません、捨てていくわけにもいかないので、しばらく預かってもらっていいですか?」

「お安いご用だ」

 鉛を外した箒は羽のように軽かった。ユアリアスは、この軽さに慣れるのもそれはそれで大変かもしれないと眉を寄せたが、とりあえず早さを競うこの競技で負ける気は微塵もしなかった。

「では、ぶち抜いてきます」

 言葉と同時に、ユアリアスは風になった。


   ◆


 ユアリアスは瞬く間に見えなくなってしまった。

 結果など確かめるまでもないが、座布団を返すためには噴水広場へ行かねばならないだろう。戻ってきたら、思い切り抱きしめてやるのもいいかもしれない。

 マゴーラスカは離れすぎてもう届かないだろう相手に、こっそりと念話を送った。

「あんたは、あたしたち古い魔女の夢だ」

「気障ですな、我が主人」

「お黙り」

 ラスタトルクが羽を広げてカァ、と鳴いた。


   〈大魔女の卒業試験・了〉

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大魔女の卒業試験 佐藤ぶそあ @busoa

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