第4話

 ばふん、と風を巻き込んで、競技開始を告げる橙色の旗が振り下ろされた。

 ユアリアスは小さく息を吸い込んで止め、周囲の風と、体の周りに流れる魔力とを混ぜあわせた。

 自身を取り巻く大気ごと、その体を前へと弾き出す。

 進路上にいる邪魔な魔女たちを上下左右へ避けながら進むと、瞬き三度ほどの時間で先頭に躍り出てしまった。

 思わずユアリアスは振り返った。わけが分からなかったのだ。もしや自分は開始の合図を勘違いしていたのかという不安もあった。

 後方の魔女たちはのろのろと速度を上げている。

 目を疑うような光景に驚くユアリアスの脇を、魔力の塊が追い抜いた。

 マゴーラスカだ。

 ユアリアスは慌てて再加速して、マゴーラスカの後に追いすがる。

「あの子たちは急加速ができないのさ。事故の元だからね。そういうのは教えられていないんだよ」

 ぐんぐんと速度を増すユアリアスの耳に、マゴーラスカの声が届く。この風切り音の中で普通に聞こえるはずがないから、これは念話だ。使い魔と言葉を交わす技術の応用で、それほど難しい魔法ではない。

 マゴーラスカが速度を増せば、ユアリアスも同じだけ速度を増した。離されないよう、しかし決して並んだり追い越したりしないように速度を調節する。

「道案内させる気かい。小賢しいことを考えるじゃないか」

 念話がユアリアスの耳に届く。

 マゴーラスカはこちらの狙いを完全に見通したようだった。

 昨日は地図を片手に町を歩いてみたが、複雑に入り組んだ順路を覚えることは不可能だった。

 飛びながらベルノリアスに地図を見てもらって指示を受けるということも考えたが、蛙の手では強風に煽られる地図を保持することはできないと却下された。

 そこで、先頭を行く魔女の少し後ろを遅れて飛び、最後に差し切って優勝をもぎ取るという作戦を立てたのだ。

 マゴーラスカがユアリアスから逃げ切るために、限界ぎりぎりの速度で飛び続けてくれたなら、まだ楽だったのだが、そう簡単にはいかないようだ。

 ユアリアスは箒に括りつけた座布団を挟む太ももにぐっと力を込めた。狙いがばれたからには、あえて速度を緩めて余力を残すのはもちろん、他にも何か仕掛けてくるに違いなかった。

 事実、さきほどからマゴーラスカはじりじりと速度を下げている。これでは、せっかく開始直後の加速で引き離した後続の魔女たちも追い付いてくるに違いない。

 それだけではなく、わざととしか思えない緩急をつけてこちらを揺さぶってくる。

 速度を緩めたのが角を曲がるためなのか、ただの嫌がらせなのか、そもそもいつ速度を緩めるのかも分からない。ユアリアスは常に気を張り続けなければいけなかった。

 今の速度ならマゴーラスカを抜くことは簡単だが、抜いた瞬間、ユアリアスには順路が分からなくなる。後ろでひっそりとマゴーラスカが角を曲がっていても、ベルノリアスが教えてくれるまでユアリアスには気づくことすらできない。

「あの婆さん、半端じゃないよ。駆け引きが手馴れすぎだ」

「こら、ちゃんとマゴーラスカさんって呼びなさい。礼儀正しくって言ったのはベルでしょう」

「言ってる場合じゃないよ。くそっ、次の行動が読めやしない」

 そう、そんな場合ではなかった。

 加速も減速も、箒と体を包む魔力を流動させて行うものだ。その兆しを読み取ることができれば、相手がどう飛ぶのかが予測できる。

 せめて次にどちらへ曲がるのかさえ分かれば随分楽に飛べるのだが、マゴーラスカの魔力の流れは穏やか過ぎた。

 ベルノリアスは人にない能力として、魔力を色で見分けることができるが、その目を持ってしても、魔力が次にどう流れるのかが読み取れていないようだ。

「柄の先端を見るのよ。体から離れるほど魔力の制御は難しいから、一番意識が行き届かないのはそこのはず」

 ユアリアスはそう言って、自分の箒の先端をちらりと見た。登録証代わりの鈴がちりちりと高い音を立てながら風に踊らされている。ベルノリアスの目から見れば、魔力の束がばらけて散って行くのがはっきりと分かるのだろう。ユアリアスは速度の調整で手一杯で、魔力の緻密な掌握までは気が回っていない。

 マゴーラスカもそうだとは限らないが、可能性があるとしたらそこだった。

 ベルノリアスが身を乗り出したのが、体を包む魔力の流れでわかった。

 ユアリアスはベルノリアスの集中を邪魔しないように口を閉じ、ただ飛ぶことだけに意識を寄せた。

「……見えたよっ。右だ!」

 ユアリアスは反射的に魔力を制御する。マゴーラスカとほとんど同時に右へ折れ、露店が並ぶ通りの上空へと突入した。

「大丈夫、もう見える。真っ直ぐ、真っ直ぐ、左。……次を右」

 ベルノリアスはコツを掴んだのか、それともマゴーラスカの癖を見抜いたのか、マゴーラスカが減速を開始すると同時に曲がる方向を教えてくれるようになった。

 引っ掛けの減速を気にせず飛べるようになっただけでも、ユアリアスの負担は大きく減った。

「真っ直ぐ、右、右、真っ直ぐ、真っ直ぐ」

 ベルノリアスの言葉通りに真っ直ぐ進んでいると、不意に視界からマゴーラスカが消えた。

「左だ! 二本戻って、青い屋根の横の道!」

 ベルノリアスが肩の上で振り返って叫ぶ。ユアリアスは急減速をかけて箒を翻し、ベルノリアスが指示した小道に飛び込む。七軒ほど先を高速で飛ぶマゴーラスカが見えた。

「ひっひっ、色眼を持ってるとは有能な使い魔じゃないか。詰めが甘いけどねえ」

「盗聴っ」

 ユアリアスは低くうめいた。

 使い魔と魔女の会話は、突き詰めれば魔力のやりとりだ。行き来する魔力を読み取ることができれば、遠く離れていてもその言葉を聞くことができる。

 ベルノリアスが曲がり角を指示する声を聞いて、わざと真っ直ぐ飛ぶように見せかけたのだ。

「ごめん、引っかかった。僕が悪い」

「あ、味な真似をしてくれるじゃないの」

「敬語よりもそっちの方が活き活きしてるね。猫被りはやめたのかい」

 ユアリアスは、ぐっと言葉に詰まる。

「ま、負けませんからね!」

「怖い、怖い。さあ、追いついてきなよ」

 四軒先でマゴーラスカが左へ曲がった。ユアリアスは猛然と速度を上げた。

 もうすぐ町を抜ける。そうすれば丘まで一直線だ。

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