第2話

 老魔女、マゴーラスカは自分の手元を見つめてため息をついた。

「時代も変わったもんだねえ」

 マリア、エミリア、ジャンヌ、リンダ……。受付台帳にはそこらの町人と変わらぬ名前が共用語で書かれている。

 最初の魔女、と呼ばれるヴァニエリウスの功罪は大きい。

 今の時代に知られている魔術理論は、ほとんどヴァニエリウスが一人で作り上げたと言っていい。時の権力者に取り入って三度目の魔女狩りを防ぎ、なんだかよくわからない不思議なものでしかなかった魔術を、学べば誰もが扱える技術体系にまとめ上げた。魔女としての能力も、政治的な判断力も並外れていたことは間違いない。

 その代償として、魔術は長く戦争の道具として利用されていたし、その過程で魔法から神秘性は失われた。戦争が終わり三十年近くたった今では、魔女という言葉は専門技術を学んだ職業の一種という意味しか持たなくなり始めている。

 魔女名も持たないで、何が魔女なものか。

 真名をそのまま名乗るということは呪術的な抵抗力を一切持たないのと同義であると言うのに、それを気にする魔女は、若い者たちの中にはいない。

 マゴーラスカはもう一度ため息をついた。

 戦時のなごりで肩書き上は城勤めだが、今となってはこんなお祭り騒ぎの受付だ。

 そろそろ隠居しようか。

 仲間内ではそんな言葉がよく上がるようになった。

 皆、マゴーラスカと共に戦火の中を飛びぬけた者たちである。実際に城を去って隠居した者も、両の指では足りなくなってきた。

「あのっ」

 不意にかけられた若い声に、マゴーラスカはびくりとした。

「あの、まだ、受付は、間に合い、ますか?」

 見れば、声の主はまだ年若い少女で、走ってきたのか息が整っていない。黒で統一された服装に、同じく黒の三角帽。汗をかいた顔に、髪の毛が張り付いている。

「あんた、魔女なのかい?」

 マゴーラスカは意外に思って声を返した。

 弟子入りにはそれなりにまとまったお金がいるため、一人前の魔女と言えば若くても三十近いのが普通だ。はじめからお金を持っている貴族や大商人は、そもそも魔術など学ばない。

 深呼吸をして荒い息を落ち着けているこの少女は、いったいどういう経緯で魔術を学ぶことになったのだろうか。

 しかし、わずかな興味は次の瞬間にマゴーラスカの中から吹き飛んだ。

「はい、箒もちゃんと持ってきました」

 そう言って掲げられた少女の手には、確かに箒が握られている。しかし、それを見てマゴーラスカはげっそりと肩から力が抜けた。

 箒の柄に臙脂色の座布団が括りつけられている。座ったとき痛くないようにということだろう。

 こういう魔女がこれからも増え続けて行くのだろうか。

「ああ、そう。それじゃあ、あんたの名前と、いるなら使い魔の名前をここに書いとくれ」

 マゴーラスカは羽筆と墨入れごと、受付台帳を少女に押しやった。本来なら相手の名前を書き取るのもマゴーラスカの仕事なのだが、もう馬鹿馬鹿しくてやっていられなかった。

「あ、はい」

 少女はさらさらと台帳に筆を走らせた。

 名前に間違いがないか確認したのだろう。少女は一度筆を置いてから台帳をじっと見て、小さく頷いた。

「よろしくお願いします」

 そう言って、台帳をこちらが読みやすいよう向きを変えて返してきた少女に、マゴーラスカは少しだけ好感を覚えた。きっちりとした娘だ。

 マゴーラスカは受け取った台帳に目を落とした。

 少女の名はユアリアス。使い魔の名はベルノリアスと書かれている。

 流暢に綴られた古代文字。魔女名だ。

 マゴーラスカは改めて少女を、ユアリアスを見た。

「幾つだい?」

「はい?」

 突然の問いかけに、少女は何を訊かれたのか分からないようだった。

「年だよ。何歳だね」

 マゴーラスカが言い直すと、少女はようやく得心した顔になった。

「数えで十三になりました」

 ひっひっひ、とマゴーラスカは声を上げて笑った。

 間違いない。十三歳で独り立ち。なんとも古式ゆかしい、正真正銘の魔女だ。

「師匠は、師匠は誰だい」

 マゴーラスカは勢い込んで尋ねた。このご時勢にこんなことをしでかす魔女の名を知りたかった。

「師匠? 魔術は拾ってくれたお婆様に、物心ついた頃から教え込まれまして……ええと、お婆様が師匠でいいんでしょうか」

 老魔女はぴしゃりと自分の額を打った。

 森や山に捨てられた子供が魔女に拾われる。そうだ、マゴーラスカ自身もそうやって魔女になったのではないか。知らぬ間に随分と毒されていたようだ。

「その婆様の魔女名はなんて言うんだい」

 マゴーラスカがそう訊くと、少女が初めて答えにくそうに顔をしかめた。

「ええと、その、笑わないでくださいね」

 少女は断りを入れてから、一つの魔女名を口にした。

「お婆様の魔女名は、マギウィルスカ、です」

 マゴーラスカはあんぐりと口をあけた。

 魔女名はただの文字の羅列ではない。音の連なりそれ自体に魔力を持つ古代語に、力ある言葉でもって名前とすることで、呪術的な護りとするのだ。

 たとえば、マゴーラスカには「大輪の花」という意味がある。ユアリアスならば「真昼の夢」だ。意訳すれば「白昼夢」と言ったところか。そして魔女名がマギウィルスカだと言うのなら、確かに口に出すことに抵抗があるだろう。

 その意味は「大魔女」だ。

 しかし、そんな大それた魔女名に、マゴーラスカは心当たりがあった。驚いたのは魔女名の意味にではない。古い知り合いの名前が出てきたことにこそ驚いたのだ。

「あんた、ウィルスカの養い子かね!」

「お婆様のことを知っているんですか?」

 知っているもなにも、大昔の戦友である。マゴーラスカの七十年近い人生の中で、彼女以上に優れた魔女に出会ったことはない。戦争が終わってすぐに城を去り、行方を晦ましていたのだが、どうやらまだ生きていたらしい。

「ああ、随分会ってないけどね。昔は箒を並べて飛んだこともあるさ。そうかい、あの偏屈女が子どもを育てたかい」

 マゴーラスカはもう一度、ひっひっひと笑った。よくあの女が育ててこんな素直そうな娘になったものだ。

「しかし、よくこんなお祭り騒ぎに出る気になったね。ウィルスカはこういう派手派手しいのは嫌いだったろう」

「いえ、そのお婆様が言ったんです」

「こんな見世物に出ろって?」

「独り立ちする前にヴァニエリウスの黒三角を制覇して来い、と」

 マゴーラスカは吹き出すのをぎりぎりでこらえた。

 ヴァニエリウスの黒三角は、魔力流動、呪術行使、世界対話の三つからなる魔術の実践をそのまま競技形式にしたものだ。平和な時代に魔術が廃れることを防ぐ目的と、目に見える栄誉と報奨を用意することで徒弟制度を根付かせる目的がある。

 徒弟制度などとは何の関わりもないこの少女がそれを全て制覇したなら、王宮への痛烈な皮肉になるだろう。そうだ、マギウィルスカは派手嫌いだったが、性格もすこぶる悪かったのだ。

「明日が楽しみになってきたよ、あたしは。せいぜい優勝目指してがんばりな」

「はい、ありがとうございます!」

 少女は深々と頭を下げ、失礼しますと言ってマゴーラスカに背を向けた。

「あ、ちょいとお待ち」

 その背中にマゴーラスカは声をかける。気持ちが昂ぶって忘れかけていたが、仕事はきっちりこなさなければなるまい。

「箒を貸しな」

「はい?」

 受付の前まで戻ってきた少女は、首を傾げながらも箒をマゴーラスカに差し出した。

 少女から手渡された箒を持った瞬間、その手に感じた重みに、マゴーラスカはにやりと笑った。しかしその笑みはすぐに消し、懐から取り出した鈴を箒の柄の先端に結びつけた。

「いいかい、この鈴は登録証代わりだ。明日の競技中はあんたの居場所を本部に知らせる役目も果たす」

 そう言って、マゴーラスカは噴水の向こうに見える大きな露台を指し示した。

「明日はあの上にでっかい地図を立ててね。参加者の居場所を光らせるのさ。誰が先頭なのか、今どこら辺にいるのか、それを見て楽しむってわけだよ」

 もちろん、不正が行われていないか監視する目的もある。しかし、一番大きな理由は賭けをより盛り上げるためだろう。

「こいつが外れたら失格だからね。外すんじゃないよ」

 マゴーラスカは両手で持った箒を少女に返した。次いで、参加者向けに作られた、町とその周辺の地図を渡す。

「赤い線が引かれているところが今回の競争路だよ」

 少女は手渡された地図をしげしげと眺めた。

 噴水広場を開始地点に、町の中を縦横に飛びぬけて北の丘を目指し、一本杉で係の者から証をもらう。そこで折り返して、今度は一直線に戻ってくる。

 言葉にすればそれだけだ。

 前半は旋回や加減速の精度を、後半は純粋な速さを競う……という建前だが、実際のところ、町の中を縦横に縫うようにして走っている赤い線は、できるだけ多くの町人が見物できるようにという意図が含まれている。

 少し見ただけで覚えられるようなものではないので、これは初参加の少女にとってかなり不利な要素である。

 しかし、マゴーラスカは確信していた。この少女は、必ず先頭を切って噴水広場へ戻ってくるだろう。出来のよい養い子でないなら、マギウィルスカはそんな無茶な要求を突きつけたりはしないはずだ。

 ほんの二、三年だけ飛行技術を学んで魔女を名乗るにわかどもでは、相手にもならないだろう。

 と、そう考えて、マゴーラスカは少し人の悪い笑みを浮かべた。しかし、それでは面白みというものが足りないではないか。

「さあさあ、地図を眺めていても道は頭に入りゃしないよ。せいぜい暗くなる前に、明日の下見にでも行ってきな」

 地図とにらめっこをしている少女の肩を、マゴーラスカは軽く叩く。

「はい、そうします。いろいろ、ありがとうございます」

 少女はもう一度頭を下げようとして、そこで姿勢を固めた。

「ええと、すみません。まだ、お名前を伺っていませんでした」

 そういえばまだ名乗っていなかったかと、マゴーラスカは片眉を上げた。

 少女の名も、紙に書かれたものを読みとっただけで、直接名乗られてはいない。

 それはそれで、面白い。楽しみが増えたというものだ。マゴーラスカは、ひひっと小さく笑った。

「名乗るほどの者じゃあないよ。ほらほら、日が落ちるまでもう幾らもない。急いで行きな」

 受付を挟んで、マゴーラスカは少女の肩を押してやる。

 少女は少しだけ納得のいかない表情を浮かべていたが、何度も振り返り、ぺこぺこと頭を下げながら人ごみの向こうへ消えていった。

 その背中を見送ったマゴーラスカは、仮設天幕の上へ向かって声をかけた。

「ラスタトルク」

「なんですか。我が主人」

 打てば響くように、常人には聞こえない声が返ってきた。ばさりと羽音を立てて、一羽の鴉が受付の卓上へ舞い降りる。

「本部に詰めているのを誰でもいいから呼んでおいで。あたしゃ、今日を限りに辞職するからね」

 マゴーラスカの使い魔、ラスタトルクは羽を広げてカァと鳴いた。

 ラスタトルクがその仕草をするときは笑っているのだと、長い付き合いのマゴーラスカには分かっている。

「仰せのままに。ついでにあなたの箒を持ってくるよう言いましょうか?」

「話が早いじゃないか。よろしく頼むよ」

 返事の変わりに、ラスタトルクは羽音を残して空へ飛びたった。

 マゴーラスカは満足気に頷くと、台帳へ向かって羽筆を取り上げた。

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