第20話 オード(讃歌)

以前の雑文で詩は難解なものか?ということをテーマにしました。結局、まとまりきらず半端な形でしたので追補として書いています。


今、チリ生まれの詩人、パブロ・ネルーダのネルーダ詩集を読んでいます。詩を書いてみようと思ったころ、詩集をパラパラとめくりながら詩とは難解だなぁ、と悩んでいました。もちろん今も難解だと悩む作品はたくさんあります。


そんなときパブロ・ネルーダの『ありふれたものへのオードに眼をとめました。


オードとは讃め称える歌、讃歌、頌歌、と言われる古代ギリシアでも歌曲として親しまれたものです。分類としては叙事詩で神や英雄、王など歴史的な事件を描き讃えます。ギルガメッシュ叙事詩や竜殺しの英雄ジークフリートが活躍するニーベルンゲンの歌など馴染みがあるのではないでしょうか。


日本だと平家物語のような軍配物がありますがこれを叙事詩とするかは議論があるようです。つまり民族の英雄や語り継ぐべきことを口伝継承したのが始まりではないでしょうか。ファンタジー小説などで出て来る吟遊詩人などもそのための語り部と言えます。


パブロ・ネルーダに戻りますが、彼はオードで何を褒め称えたのか?ありふれたものとは玉ねぎやトマト、海やスプーンという人々の生活に身近なものでした。


ネルーダは『詩とはパンのようなもので、すべての人と分かち合わなければならない。文学者も農民も同じ人類の一員である』という考えから詩に読み慣れていない読者にも伝わるように、このオードを書いたそうです。かれの思想には労働階級の自立という政治的思想が根幹にあり、そのためにこう言った詩を書いたのでしょう。しかし、その思惑はともかく詩が万人に分かちあわれるべきだと言う言葉をぼくは支持します。下記は以前にも書いたネルーダのオードの一節です。


『玉ねぎへのオード』


たまねぎ

光っている丸い塊

ひとひらひとひらの花びらで

おまえの花びらは形づくられた

ガラスの鱗がおまえを大きくしたのだ


〜以下、数ページにわたってたまねぎへの讃歌はつづきます。読みやすく難解な語句は使用されていない、これらのオードは陽気な楽しさがあります。詩が楽しいものばかりだとは思いませんが、わかりやすく親しみやすい詩というのも大事だと感じています。


確かに中にはその言葉でなければ、現せない知識や教養が必要な詩もあります。詩を感じとるために強い感性が必要な詩があります。

ですが、難解に書く必要がない言葉を事柄を難解に書いていないだろうか?


だから詩は難解だとか、言われがちなのだと思う。読み手を無視して独走していないのか?


批評すると言うのは単に他人の作品を評するのではありません。批評することで培う詩への厳しい眼差しを自分の詩に向けて、他人に読ませられる作品であるのかを判じるための力を養っているのではないでしょうか。少なくとも詩を書く人はそうあるべきだと考えています。


そんなわけで誰にでも伝わる詩を目指して、ぼくは今オードを書いています。詩集、ありふれたものたち、を宜しければお読みください。


余談ですがオードは詩を書く練習にもなります。抽象的な概念や人生観を扱うのではなく、具体的なものを観察して描けばいいからです。そこに時にはストーリーが生まれたり、深い洞察、物と人、物と物の関係性などが立ち現れて来れば、あなただから描けるオードが、讃歌が出来上がるのでしょう。


そんなわかりやすいオードが詩を愉しむ入り口になればいいと思うのです。




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