第10話 散文や作文、我が駄文

散文は詩か?


解らない。確かに散文の中には詩情を感じることがある。では詩か? やっぱり解らない。ではその詩情を感じた部分を取り出して、詩として磨けば……それは詩だ。まだ詩を書き始めの頃に僕は散文と言うか、詩未満の雑感所感文を詩であるかのように錯覚していた。

以下、少し長い散文?である。


◇◆◇◆◇◆


『茶をつくり、漱石を読みながら』


一杯の茶を飲むために

ふらり、と畑まで行き茶の葉を摘む

秋の茶は春の茶に較べて渋味が増す

あの新芽の爽やかな甘味はないが

渋味は増して味に厚みのある旨い番茶が

出来る

そうして

過去を想えば早逝した祖父も

こうして茶を摘み、茶を揉み

風に任せて茶を干し

時々、その茶葉の香りを確かめて

心を浮き立たせ

本を片手に

居眠りをしていたのだろうか

祖父が繰り返し読んでいたという

漱石の草枕は

さらに孫の僕が繰り返し読み

いつしか表紙が掠れて

破れそうになっていった

祖父の部屋で偶然手にした本は

気がつけば何にも変えがたい

宝物になっていた

その宝も水害で流され漱石の軽妙な言の葉は

水を伝わり世界に散らばり

僕は

野を歩む鹿や白い茶の花が開き行く自然に

誰かが書いた文章や友人の何気無い仕草に

そして自分の顔にその言の葉をみるのだ

かつてその本を手にしていた祖父の

顔を、背中を、茶を揉む手つきを

みるのだ

それは茶が生まれてから

この小さな島国に伝来して

育まれた月日にも自然と重なっていくように思われる


ある茶師さんからこんな詩を聞かされた


食後に一眠り

目覚めたら2杯のお茶を飲む

頭を挙げお日様を見れば

もう既に南西に傾いている

日々楽しく過ごす人は

時間の慌ただしさを惜しみ

日々を憂う人は

月日の長さを忌々しく思う

心配事も楽しみも求めない人は

総てを運命に任せるまでだ


漢詩だという

実に悠々とした心持ちを詠っている

与えられた人生に身を委ねる様は

諦観では無く

心の自由さを感じさせてくれる

それは草枕の有名な冒頭に続く


『住みにくさが高じると、安いところへ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟ったとき、詩が生れて、絵ができる』


この文に通じるようでもある

心の自由さは詩となり絵となる


茶畑に立ち無心に茶をつくるとき

少しだけその心の自由さに近づいて

すぐに離れる

寄せては返す波のように


遥か彼岸には祖父が草枕を手に居眠りし

名も知らぬ大地に生きる人々が

行き交い

歴史と

詩が流れ行く

その近くて遠い原風景を

一杯の茶を飲むとき味わうのだ


◇◆◇◆◇◆


これは詩ではない。多分、作文を適当に改行しただけのものだ。飛躍も無ければ言葉の意味の破壊も無い、微かに詩情が隠れているが別に改行しなくてもエセーですよ、と出せる作文だと感じる。改行したら詩だ、みたいなものを時折、書いてしまう自分に嫌悪感があるのでここでは、これを書いて自省を促して見たりする。またその内容は多分、人の詩だと言う作文にも向けられる眼差しなんだろうと感じている。散文は好きだけど、詩とはやはり違うのだろうと言う、つぶやき、なのです。これがいつか詩に昇華されるように磨くしかないのだ。

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